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箱罠の扉を閉じる人々

熊被害にあった各地を回っていると、こんな話がよく耳に入る。

「せっかく設置した箱罠の扉が、誰かに勝手に落とされていた。」

箱罠は、扉を開いた状態で仕掛けておき、ヒグマが中へ入ると上から扉が落ちて捕獲される仕組みである。その扉を第三者があらかじめ閉めてしまえば、箱罠は機能しなくなる。

もちろん、それがどれほど頻繁に起きているのか、全国的な統計はない。しかし、複数の地域で同じような話を耳にすると、そこには単なる偶然では片づけられない何かがあるように感じる。

なぜそんなことをするのか?
単なるイタズラの可能性もあるが、あちこちで起きていることを踏まえれば、おそらくは
クマを守りたい、駆除に反対だからなのだろう。
その人はクマの命を守っているつもりなのだ。

「正義」の信念を持つことは、複雑に価値観が絡み合う現象の一面に立つことである。
クマ問題ほど、このことを痛感させられるテーマはない。

しかし、農作物が食い荒らされ、人が襲われた地域で箱罠を設置するという行為は、単なる有害鳥獣駆除なのだろうか。僕はそうは思わない。

それは、生命が本来備えている「食うか食われるか」という自己保存の根本原理が、人間社会という形を通して現れた行為ではなかろうか。

人間は、自らの生命を守ろうとする。
それは思想でも政治でもなく、生物としての根源的な営みである。

少なくとも、人命や生活が現実に脅かされている現場では、箱罠の設置は自己保存という生命の原理に基づく、避けることのできない行為だと僕は考えている。

しかし、その一方でクマもまた、生きるために食べている。

もし箱罠の扉を閉める人がいるのだとしたら、その信念は理解できる。
しかしそれは、自らの「正義」を実現するために、他者が適法に設置した器物を無断で機能停止させるという行為でもある。

正義を掲げることと、他者の権利を実力で制限することは同じではない。
そこには、法や社会のルールを超えて、自らの信念を優先させる危うさが潜んでいる。

そして、もう一つ、疑問が残る。
なぜ、クマなのだろう。
牛や豚はどうなのか。

僕たちは毎日、多くの牛や豚、鶏の命を頂いて生きている。
その命と、クマの命は何が違うのだろう。
あるいは、何が違うと僕たちは感じているのだろう。

人は「命は等しい」と口にする。
だが現実には、ある命には涙し、別の命にはほとんど心を動かさない。
そこには、野生だからなのか。
希少だからなのか。
知能が高いからなのか。
あるいは、自分に似ているからなのか。

熊に魅了される人の心理は分かる。
熊と人の間には、ある種の「共感」が働いているようにも思う。

一つ一つの正義を対立基盤に並べることが妥当なのかは、疑わしい。
けれど、箱罠という事物空間において、人間同士の対立が生まれていることは確かだ。

僕は対立の境界面を外縁から見つめているに過ぎない。

……いや、既に立っているのだろうか。

もしそうだとしたら、そこに留まることは僕の立場ではない。

僕の立場は、交差する視点から、その境界面そのものを映すことにある。

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「虚空門GATE」監督 小路谷秀樹 Hideki Koujitani 『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。 もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。 いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。