「面白い映画とは何なのか」という視点――REAL VALUEを観て考えたこと
YouTube番組「REAL VALUE」に、映画監督の泊誠也監督が、バン仲村氏を助っ人にしてプレゼンターとして登場していた。
泊監督は「ホラー映画を作りたい」とプレゼンした。
ところが、ホリエモン、溝口勇児氏、そして「マフィア」と呼ばれる審査側の面々は、ことごとく泊監督に否定的だった。
泊監督個人に対して、というだけではない。
彼らの言葉を聞いていると、映画産業そのものに、ほとんど魅力を感じていないようにも見えた。
彼らにとって注目すべきワードは、Netflixであり、AIであり、IPであり、資金力であり、露出であり、マーケットだった。
なかでもホリエモンは、Netflixから声もかからない監督にはバリューがない、という趣旨の発言をしていた。
さらに、監督はやめて若い監督の裏方に回ったほうがいい。
世界観もキャラクターも、露出がなければ目に留まらない。
IP化は夢のまた夢。
映画市場は巨大資本による物量戦に独占されている。
資金力のない作品には、観客に届くルートがない。
そういう話が次々と出てきた。
確かに、ビジネスとして映画を考えれば、どれも一理ある。
映画は作るだけでは観客に届かない。
配給が必要だ。
宣伝が必要だ。
資金が必要だ。
マーケティングも必要だ。
そして現在、Netflixをはじめとする巨大プラットフォームが映像産業に大きな影響力を持っていることも事実だ。
だから、REAL VALUEという「ビジネス価値を査定する番組」の文脈で考えれば、彼らの言っていることは理解できる。
しかし、僕は観ていて、どうしても違和感が残った。
その違和感は、審査する側だけに対してではない。
泊監督に対しても感じた。
僕が感じた違和感の正体は、
「あなたが今、作ろうとしている映画は、一体どんな映画なのか?」
という視点が、ほとんど語られていなかったことだ。
「どこで配給するのか」
「いくら儲かるのか」
「監督としてどれだけの価値があるのか」
「何本ヒットさせてきたのか」
「Netflixから声がかかっているのか」
「IP化できるのか」
そういう話は、いくらでもできる。
しかし、その前にあるはずの、
「その映画は面白いのか?」
という問いが、ほとんど聞こえてこなかった。
僕は、映画の価値の根っこは、そこにあると思っている。
シリアスな映画だろうが、コメディだろうが、劇映画だろうが、ドキュメンタリー映画だろうが、
まず、その映画が面白いかどうか。
そこに映画の価値がある。
もちろん、「面白い」とは何なのか。
これは極めて主観的な問題だ。
笑えることだけが面白さではない。
怖いことだけが面白さでもない。
退屈に見える時間の中に、突然、世界の見え方が変わる瞬間がある。
ある人物の人生を見つめているうちに、自分自身の人生について考えさせられることもある。
何も起こっていないように見える森の映像を見ていて、なぜか目が離せなくなることもある。
映画の「面白さ」とは、そういうものまで含んでいる。
だからこそ、映画をジャッジする側には、数字や市場規模だけでは測れない、映画そのものを見極める眼力が必要なのではないか。
僕には、REAL VALUEには、その眼力が十分に集まっていないように見えた。
もちろん、大多数の人が「面白い」と感じるものは何なのか、いわば「マジョリティにとっての最適解」を見抜く感性は、彼らにはあるのだと思う。
市場を見て、数字を見て、世の中の欲望や流行を読む力も、おそらく僕なんかよりはるかに長けている。
ただ、それと「まだ誰も面白いと思っていないものの中に、これから生まれる面白さを見つける眼力」とは、少し違うのではないか。
そして、もう一つ。
僕が泊監督のプレゼンを観ていて最初に引っかかったのは、
「ホラー映画を作りたい」
という、その一言だった。
僕なら、この時点で一度立ち止まる。
なぜなら、「ホラー」と言った瞬間に、過去の膨大なホラー映画の歴史が、その言葉の後ろに一気に立ち上がってしまうからだ。
『キャリー』がある。
『エクソシスト』がある。
『リング』がある。
『貞子』がある。
『呪怨』がある。
『シャイニング』がある。
『エルム街の悪夢』がある。
『IT』がある。
『ミッドサマー』がある。
『死霊館』がある。
そして『パラノーマル・アクティビティ』がある。
もちろん、これらの作品を参照すること自体が悪いわけではない。
問題は、
「ホラー」というジャンルを出発点にした瞬間、自分でも気づかないうちに過去のホラー映画が作ってきた文法の中に入り込んでしまわないか。
いつの間にか「ホラー映画とはこういうものだ」という既存の枠組みの中で映画を設計することになりはしないかということだ。
でも、本当に作りたい映画があるなら、最初に問うべきなのは、
「ホラーを作りたい」ではなく、「自分は何を恐ろしいと思っているのか?」ではないだろうか。
あるいは、
「自分にしか見えていない恐怖とは何なのか?」
あるいは、日常の中に潜んでいる、自分自身や他者さえもまだ気づいていない、知られざる一面、恐怖とは何なのか?
僕なら、そこから映画を始めたい。
これは『ヒグマカルマ』についても同じことだ。
僕は「熊のドキュメンタリーを作ろう」と考えて、この映画を始めたわけではない。
「人間と熊の共存」という既存のテーマを映画にしようと思ったわけでもない。
むしろ、撮影を続ける中で、
人間は自然を見ているつもりだが、本当にそうなのか。
人間が熊を観察している一方で、熊の側から見れば、人間こそが観察対象なのではないか。
そもそも「人間」と「自然」を分けて考えること自体が、人間中心主義なのではないか。
そんな問いが少しずつ立ち上がってきた。
だから、僕にとって『ヒグマカルマ』の面白さは、「熊が出てくること」そのものではない。
熊と人間を撮りながら、いつの間にか人間そのものが見えてくること。
そこに映画としての可能性があると思っている。
だから僕は、Netflixに売れるかどうかを考える前に、『ヒグマカルマ』そのものが面白い映画になっているかを考えたい。
IP化できるかどうかを考える前に、この映画にしかない世界が存在しているかを考えたい。
巨大資本に勝てるかどうかを考える前に、
まだ誰も見つけていないものを見つける。
巨大資本では作れない映画を作ること。
僕はそこをとことん、突き詰めたい。
▼このテーマに関連する記事
いいなと思ったら応援しよう!
『ヒグマカルマ』は現在も北海道・東北で取材と撮影を続けています。
もし活動を応援していただける方がいましたら、サポートいただけると制作継続の力になります。
いただいた支援は、移動費・撮影費として大切に使わせていただきます。