消費される映画、記憶される映画――『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』と『ヒグマカルマ』
先日、noteに「100億円映画が数百万円の映画に敗北する理由」という記事を書いた。
あの記事は、決して大作映画を否定するために書いたものではない。
むしろ今、僕自身が制作しているドキュメンタリー映画『ヒグマカルマ』の現場から見えている実感を書いたものだった。
『ヒグマカルマ』の総制作費は、おそらく数百万円台に収まると思う。 1000万円を超えることはないだろう。
制作チームも、概ね家人と僕の二人だけだ。
しかし、その二人で北海道は道東から道南まで各地を巡り、東北では秋田、岩手、山形、さらに山梨、和歌山へと足を伸ばし、日本列島を掘り進めている。
規模だけ見れば小さな映画である。
だが、扱っているテーマの射程は決して小さくない。
そして僕は、本作が完成した時、100億円規模のメジャー作品にも負けない強度と重量感を獲得できると確信している。
もちろん現段階では詳細は明かせない。
それでも、その確信があるからこそ、押し寄せる制作費の圧力に耐えながら制作を続けられている。
これは強がりではない。
なぜそんなことを言うのか。
昨年のクリスマスに書いた映画鑑賞日記を読み返していたら、その理由が自分でもよく分かった。
以下、2025年12月25日の映画鑑賞日記より。
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『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』を観てきた。
正直なところ、あまり期待はしていなかったのだが、その予感は概ね的中した。
最初の1作目は本当に凄かった。あの革新的な映像体験と、キャメロン監督の本気の挑戦が強く印象に残っている。
しかし2作目以降は……という思いが、この作品を観てより強くなった。
物語は勧善懲悪の二元論を軸に、 攻勢と劣勢が目まぐるしく入れ替わり、 家族の絆、勇気、孤高の戦士――
おなじみの要素が手堅く配置されていく。
それ自体は百も承知の上だ。
だからこそ僕が期待していたのは、造形、美術、メイキャップ、小道具といった「衣付け」の部分に、何か新しい驚きがあるかどうか、という点だった。
だが、そこにも特筆すべき新奇性は感じられなかった。
正直、心が動く瞬間はほとんどなかった。
エンドロールの途中で席を立った。
これだけの規模の商業映画を前にして、僕にはどうしても、ジェームズ・キャメロン監督が「ビジネスとして成立させるために作っている」姿勢ばかりが透けて見えてしまった。
映画をあまり観ていない人、これから映画を観始める人にとっては、十分楽しめる作品なのかもしれない。
だが僕にとっては、届かなかった映画だった。
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今読み返してみると、僕が失望したのは作品の出来そのものだけではなかったのだと思う。
映画が巨大化し過ぎると、守らなければならないものが増える。
投資家がいる。 株主がいる。 配給会社がいる。 世界市場がある。
すると作品は、誰も傷つけず、誰も驚かせず、誰も不安にさせない方向へ少しずつ調整されていく。
結果として莫大な予算を投入しながら、映画の中心にあるべき挑戦や狂気や執念が削ぎ落とされていく。
もちろん例外はある。
だが少なくとも僕は、近年の超大作映画にそうした傾向を感じることが少なくない。
そして、ここで言う映画の価値とは何か。
興行収入なのか。 観客動員数なのか。 SNSでの話題量なのか。
もちろんそれらも価値の一部だろう。
しかし僕は、それ以上に重要な尺度があると思っている。
それは「記憶に残るかどうか」である。
『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』は世界中で莫大な収益を上げるかもしれない。
だが100年後、人々はその物語や登場人物をどれほど覚えているだろうか。
一方、『ヒグマカルマ』の制作費は数百万円規模に過ぎない。
興行的には比較にならないだろう。
だが、もしこの映画が人間と自然、人間と野生、人間という存在そのものについて本質的な何かに触れることができたなら、その映画は観た人の中で生き続ける可能性がある。
映画はスクリーンから消えても、人の記憶の中で生き続ける。
本当に強度ある映画とは、上映時間が終わった後から観客の中で動き始める映画ではないだろうか。
『ヒグマカルマ』がそんな映画になるかどうかは分からない。
だが少なくとも僕は、その可能性に賭けている。
もっとも、今月末の東北撮影の高速代とガソリン代をつい気にしてしまうのだが(汗)
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