ハイランク 第2話:「白き王子 ― 紅き旅人」
ターナー王国の都ラルスニエル―― それは、山間の村で育ったターネットにとって、初めて触れる『文明』の極地だった。
巨大な石壁に囲まれ、城塞のごとき正門へと続く幹線路には、商人や農民、騎士たちがひしめき合っている。
石畳を激しく叩く馬蹄の音が絶え間なく反響し、行き交う人々の放つ汗と埃、どこからか漂う香辛料の匂いが混じり合い、むせ返るような活気となって渦巻いていた。
遠方には『光の都』の象徴たる白亜の塔がそびえ、その足元には大陸随一の物流を誇る喧騒が満ちている。
門前の警備は厳重を極めていたが、ターネットが父から託された古びた印章を提示した瞬間、門番の顔色が劇的に変わった。
それはかつて王国を救った伝説の名誉騎士団にのみ与えられた、歴史の表舞台から消えたはずの紋章だった。
直立不動で敬礼する門番は、隠しきれない驚愕に目を見開き、息を呑むばかりだった。
なぜこれほどまでに狼狽えるのか、その理由をターネットが知る由もなかったが、手続きは滞りなく進み、難なく通行許可を得る。
巨大な『白鳩の聖紋』を掲げた正門をくぐると、そこは山村とは比較にならぬ広さと密度だった。
その凄まじい熱量に気圧され、ターネットは思わず歩みを止めた。
しかし、その静止が騒がしい商都では悪目立ちした。
ターネットの装束は長旅でひどく綻び、足元は泥に汚れている。
洗練された都の住人から見れば、彼は一目でそれと分かる『格好の獲物』であり、人流のど真ん中で呆然と立ち尽くす様は、商売の邪魔でしかない無作法な田舎者に他ならなかった。
「おい、田舎者! 突っ立ってんじゃねえ、さっさとどきやがれ!」
乱暴な声とともに、肩を強く突き飛ばされる。
振り返ると、そこには豪奢な外套を纏った商人風の男と、その供回りの屈強な雇われ兵たちがいた。
商業ギルドの威光を傘に着た、柄の悪い一団だ。
「……ただ立ち止まっただけで、随分と横柄だな」
ターネットが冷ややかな声で返すと、男の顔が怒りで歪んだ。
「あん? 地方から来た野良犬風情が、この街で吠えるのか? 叩き出してやれ!」
男の合図で、雇われ兵たちが各々手持ちの武器に手をかける。
だが、ターネットが背負った剣の柄に指をかけた瞬間、場の空気が凍りついた。
極限まで研ぎ澄まされた静かなる『圧』が、その場を支配する。
「……っ!?」
先ほどまで息巻いていた兵士たちの手が止まる。彼らの本能が、目の前の男を『獲物』ではなく『捕食者』だと認識し、激しく警鐘を鳴らしたのだ。
一触即発の空気が流れた――その時だった。
「そこの君、そこまでにしておかないか」
凛とした、しかしどこか冷徹なまでに澄んだ声が割り込んだ。
人波を割って現れたのは、一人の青年だった。
上質な旅装束を纏ってはいるが、隠しきれない気品がその身に宿っている。
金の長髪をなびかせ、何よりその瞳には、何者にも屈しない高貴な光があった。
「な……あ、あんたは誰だ!?」
商人たちが怒鳴るが、青年は一瞥もくれない。
彼はターネットの前に立つと、あえて商人たちに軽薄な笑みを浮かべてみせた。
「悪いね、彼を困らせないでくれないか。……僕の『新しい護衛』なんだ」
青年の言葉に、商人たちは毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
しかし、すぐに先ほどの傲慢さを取り戻し、鼻で笑う。
「護衛だと? こんな薄汚い田舎者がか。お貴族様の道楽も大概にしろ」
男が吐き捨てるように言い、雇われ兵たちが威圧的に一歩踏み出す。
その瞬間だった。
青年の手が、腰に帯びた細身の剣へと滑る。
閃光。
空気を切り裂く鋭い風の音が一度だけ響き、商人たちが気づいた時には、彼らが突き出そうとした雇われ兵の槍の穂先が、音もなく地面に転がっていた。
「……っ!?」
あまりの速さに、商人たちは悲鳴を上げることすら忘れて硬直する。
青年は剣を鞘に収めることもせず、切っ先をわずかに下げたまま、困ったような、それでいて一切の妥協を許さない微笑を浮かべた。
「次は、その騒がしい口を閉じる手伝いをしようか? ……僕は、静かな街の方が好きでね」
その卓越した剣技と、底知れぬ威圧感に、商人たちは腰を抜かさんばかりに後ずさる。
「ひ、ひぃっ! 覚えとけよ!」
捨て台詞を残し、一団は蜘蛛の子を散らすように人混みへと消えていった。
青年はふう、と小さく息をつくと、剣を鮮やかな所作で鞘に戻した。
そして、じっと自分を見つめていたターネットの方へ向き直る。
青年の瞳が、瞬きもせずにターネットの背負う剣を見つめる。
それが達人特有の、相手を見定める鋭さであることに、ターネットは直感的に気づいた。
(……只者ではないな。あの剣筋、ただの貴族の嗜みなどではない)
青年の瞳には、確信の色が宿っていた。
先ほどの一閃、この男だけは微動だにせず、その軌道を完全に見切っていたのだ。
「君、見えていたね」
ターネットは視線を外さないまま、無言で頷いた。
「僕の名はユーサー……よろしく。君のような実戦慣れした剣士が、あんな無作法な連中と刃を交えるのは損だと思わないか?」
ユーサーは歩み寄り、懐から『白鳩の聖紋』があしらわれた金の印章を、指先で一瞬だけ見せた。
「手荒な行動になって済まなかった。いきなり名乗りを上げれば、君を驚かせて逃げ出させてしまうかと思ってね」
そしてターネットの耳元でささやいた。
「今はわけあって、お忍びの身なんだ。さっきの連中が仲間を連れて戻ってくるかもしれない……。ひとまずここを離れたほうが良さそうかな」
ユーサーは茶目っ気たっぷりにウィンクをしてみせると、何事もなかったかのように歩き出した。
その背中には、隠しきれない貴族的な優雅さが漂っている。
(お忍びにしては、随分と派手な立ち回りだが……)
ターネットは呆れを含んだ溜息をつき、周囲の野次馬たちの視線を避けるように、足早に歩き出した青年の後を追った。
ひと気のない場所に辿り着いた二人は、お互いの顔を見合わせるように向き合って立ち止まった。
「あんたは……」
ターネットが怪訝そうに尋ねた。
先ほどユーサーが示した金の印章、そこに刻まれていたのは正門に掲げられていたものと同じ『白鳩の聖紋』だった。
(まさか、この国の王族……。だが、なぜ一人でこんな場所にいる)
「君の想像通り、で間違いないよ」
ユーサーは、ターネットの瞳に宿った驚愕を読み取ったように答えた。
周りにひと気がないことを再度確認し、声を潜める。
「実は、港町周辺で不穏な噂が絶えなくてね……。自分の目で確かめにちょうど一人で向かおうとしていたところなんだ……城の騎士を連れて行けば大袈裟になるからね」
ターネットは微動せず、ユーサーを見ている。
「そうだ、しばらく君のその腕、僕の護衛として貸してくれないか」
ユーサーの瞳には、先ほどの余裕とは異なる切実な光が宿っていた。
「……俺を、雇うというのか」
ターネットは、目の前の青年を改めて見据えた。
王家の印章を持つほどの高貴な身分でありながら、自ら危険な場所へ赴こうとする無謀さ。
そして、初対面の自分に背中を預けようとする、危ういまでの真っ直ぐな瞳。
(ただの世間知らずか、それとも……)
青年から漂う風格は、父が言っていた『外の世界』の広大さを体現しているように思えた。
彼の隣にいれば、自分がここへ来た理由、その答えに近づけるかもしれない。
「いいだろう。あんたが何者であれ、その覚悟には興味がある」
ユーサーは無造作に前髪を払い、それまでの緊張を解くように柔和な笑みを浮かべて首を傾げた。
「ところで――君の名を知りたいんだけど、旅の剣士殿。僕を助けてくれる恩人の名を、まだ聞いていなかったからね」
ターネットは、柔和な視線を真っ向から受け止めた。
しばしの沈黙の後、彼は低く、だが響きのある声で答えた。
「……俺の名はターネット。いや、助かったのはこちらの方だ」
見ず知らずの自分を頼るその危うさに、ターネットはわずかな興味を抱く。
こうして、山育ちの剣士と素性を隠した貴公子は、喧騒の渦巻く港町へと足を踏み出した。

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