ハイランク 第1話:「戦場の記憶 ― 沼地にて」
村を旅立って三日。
ターネットは、東方の険しい山岳地帯を越え、ついにターナー王国へと続く広大な荒野へ足を踏み入れていた。
果てしなく広がる荒野には草木もまばらで、乾き切った大地を熱風が激しく吹き抜ける。
昼は焼けつくような太陽が容赦なく照りつけ、夜になれば一転して骨身を凍らせるほどの冷気が支配する。
旅に出てまだ三日だが、彼の旅装は砂埃にまみれ、革靴は擦り切れ始めていた。
乾いた唇は裂け、険しい岩場を這い上がった泥に汚れた指先からは血が滲み、掴むたびに走る鈍い疲労感に震えていた。
それでも、その瞳だけは揺らがない。
父・タニスから受け継いだ不屈の意志と、母・ナーンから受け継いだ優しさが、少年の胸を支えていた。
休息のため腰を下ろした岩陰で、彼は父から譲り受けた古びた地図を静かに広げる。
羊皮紙には幾度も折り畳まれた跡が刻まれ、所々が擦り切れていた。
王都ラルスニエルへ向かう最短経路。
そこには一本の道が赤い墨で記されている。だが、その道の中央には、父の手によって太く書き添えられた警告があった。
『危険――屍の沼』
ターネットは静かに息を詰める。
そこは二十年前、ターナー王国史上最大の戦争が行われた場所だった。
禁忌の魔術師ルーインが冥府より異形の軍勢を呼び覚まし、大地そのものを侵食しながら王国へ侵攻した最終決戦の地。
数千を超える兵士、騎士、魔術師が命を落とし、英雄と呼ばれた者たちさえ無数に散っていった。
父タニスも、母ナーンも、この戦場で命を懸けて戦った。
戦いは王国軍の勝利で幕を閉じた。
しかし勝利は代償が大きすぎた。
ルーインが最後に放った大呪詛は、大地そのものを呪いへと変えたのである。
死者の魂は還ることができず、泥は命を吸い込み、戦場は底なし沼へと姿を変えた。
それ以来、この場所を本来の名で呼ぶ者はいない。
誰もが畏れを込めて、こう呼ぶ。
――『永遠の沼地』と。
父タニスが記した『屍の沼』という生々しい警告、泥に呑まれたのは大地だけではない。
数多の兵士たちの骸が今もその底に眠っているのだと、父の筆跡は無言で告げていた。
夕暮れ。
ターネットは沼の入口へ立っていた。
空は血を流したような深紅へ染まり、世界から音という音が消えていく。
先ほどまで吹いていた風は完全に止み、木々の葉すら揺れない。
足元の土は泥へと変わり、一歩踏み込むたびに靴が沈む。
霧は異様なほど濃く、十歩先さえ見えない。視界の端には半ば泥へ沈んだ長剣、折れた槍、砕けた盾、錆びついた王国軍の兜。
それらは墓標の代わりに、この地で散った兵士たちの存在を静かに語っていた。
その静寂を破るように、泥の底から黒い泡が浮かび上がる。
「ぶくり……」
生温かい空気が地面から噴き出し、鉄錆と腐敗、焼け焦げたような臭いが鼻を突く。
「……」
ターネットは自然と剣の柄へ手を置く。
全身の毛穴が総毛立つ。
誰かが見ている。
いや――何百、何千という視線が、自分を見つめている。
その時だった。
「…………お前は……誰だ……」
耳ではない、頭の奥へ直接流れ込むような声。
霧がゆっくり裂け、一人の騎士が姿を現した。
鎧は朽ち果て、肩当ては砕け、胸甲には巨大な剣傷が走っている。
だが胸元には王国の紋章がしっかりと残されていた。
虚ろな眼窩には黒い闇だけが揺らめいている。
「私は……レイヴン第十三部隊……兵団長……レオナルド・サーグ……」
その声は掠れ、何年も砂に晒されたようだった。
「亡霊……」
ターネットは息を呑む。
「なぜ……生ける者が……この地を歩く……」
亡者は剣をゆっくり抜いた。
刃は黒い霧を纏い、怨念が液体のように滴っている。
肉体は朽ちていても、王国最精鋭騎士だった頃の構えがそのまま残っている。
ターネットも静かに父の剣を抜いた。
澄んだ鋼の音が静寂を裂く。
「俺は王都へ向かう旅人だ、この地を荒らすつもりはない」
亡者はゆっくり首を振る。
「ならば……証明せよ……その覚悟を……!」
瞬間、黒い風が吹き荒れた。
レオナルドは亡霊とは思えぬ鋭さで間合いを詰める。
重い鎧とは思えぬ踏み込み。
横薙ぎ、袈裟斬り、突き、一切の無駄がない。
ターネットは父から教わった堅実な剣術で受け流す。
火花が散る。
甲高い金属音が霧の中へ響く。
しかし剣が交わるたび、異変が起きた。
冷たい何かが腕を伝い、胸へ流れ込み、心を侵食していく。
その時、ターネットが握る父の剣が、呼応するように鋭い青い光を放った。
刀身から溢れ出した清冽なオーラは、剣が交わるたびにレオナルドの纏う黒い霧を焼き払い、亡霊の奥底にある魂を直接揺さぶる。
「ぐっ……この光は……!」
レオナルドが苦悶の声を漏らす。
それは肉体を切り裂く痛みではなく、凍りついた精神を無理やり溶かされるような、激しい衝撃だった。
(これは……)
剣を通じて流れ込む青い光が、レオナルドの虚無の瞳とターネットの瞳を不可視の線で繋ぐ。
視界が歪み、現実の景色が遠のいていく。
ターネットの意識は、レオナルドの心の深淵――凍りついた記憶の断層へと引きずり込まれていった。
無数の叫び 恐怖 絶望 怒り 後悔
戦場で死んでいった兵士の感情が、濁流となって押し寄せてくる。
「戦いたく……なかった……」
レオナルドが呻く。
「家族に……会いたかった……」
「娘が……生まれるはずだった……」
「守りたかった……それだけだった……!」
その瞬間、ターネットの瞳が鮮血のような赤へ染まる。
母ナーンから受け継いだ紅い瞳が反応した。
魂の記憶へ共鳴してしまったのである。
「ぐあああっ!!」
頭蓋が裂けるような激痛。
自分ではない人生、自分ではない死、それらを一瞬で何百人分も追体験する。
戦場 炎 叫び 仲間の死 恋人との別れ 子供の泣き声 血 絶望
すべてが津波のように流れ込む。
膝が崩れ落ちそうになる、呼吸ができない。
「くっ……!」
歯が軋むほど食いしばる。
それでも彼は剣を離さなかった。
その姿を見た瞬間だった、レオナルドの剣が止まる。
「……理解……できるのか……」
黒い瞳が初めて揺れた。
ターネットは震えながら剣を下ろす。
「苦しいんだな……」
「……!」
「父も、この戦場で戦った。生き残った人も、死んだ人も、皆未来を……希望を持っていた。俺は……その続きを繋ぐために旅へ出た」
そう言うと、彼は静かに剣先を泥の地へと下ろした。
「ここに剣はいらない、俺の誓いを聞いてくれ。あなたたちが命を懸けて守った未来を、俺は必ず見届ける」
「この戦いを、無駄だったとは絶対に言わせない」
静寂。
ただ泥が泡立つ音だけが聞こえる。
長い沈黙の末、レオナルドの身体を覆っていた黒い霧が少しずつ白い光へ変わっていく。
苦しみに歪んでいた表情が穏やかになる。
「ありがとう……若き旅人……私は……ようやく……帰れる……」
光が空へ昇っていく。
同時に沼の至る所から無数の淡い光が現れた。
兵士 騎士 魔術師 名もなき人々
彼らは皆、ターネットへ静かに敬礼し、微笑みながら天へ昇っていく。
まるで二十年間、誰かが来るのを待ち続けていたかのように。
やがて最後にレオナルドが微笑んだ。
「今の王都が……我らの命を懸ける価値ある国でありますように……」
その姿は月光へ溶けるように消えていった。
再び静寂。
ターネットはその場へ膝をつく。
全身から汗が噴き出し、指先は震え続けていた。
巫子の力は魂の声を聞ける代わりに、その苦しみまでも背負ってしまう。
英雄になるということは、強い剣を持つことではない。
誰かの悲しみから目を逸らさず、それでも前へ進み続けることなのだ。
彼はゆっくり立ち上がる。
空を見上げると、いつの間にか血のようだった夕空は群青へ変わり、一輪の満月が静かに輝いていた。
背中の剣は淡い銀色の光を放ち、その光はまるで死者たちの魂を優しく導く月明かりのようだった。
ターネットは一度だけ屍の沼を振り返る。
そして深く一礼すると、王都ラルスニエルへ続く街道へと力強く歩き始めた。
英雄の息子としてではない、一人の旅人として、そして、未来を切り開く者として。
その背中を見送るように、屍の沼には一陣の穏やかな風が吹き抜け、長きにわたって止まっていた時が、静かに再び動き始めた。

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