否定と理解のあいだで
たとえ仲良くなっても、心が開けそうだなって思ったとしても
相手の感覚と、自分の感覚が違う感じがする瞬間が訪れる。
求めてるものの重さが違う、とでも言ったらいいのだろうか。
ずっと考えている気がするけれど、
本当の意味の心を開くって何だろう。
自分の悩み、思ってることを
見栄とか嘘とか遠慮とか、そういうのなく
話せるってことなんじゃないかなと思う。
そしてそれを、否定せずに理解してもらいたい。
「なんでこうしないの?」
「それはここがよくないよ」とか
そういう言葉は求めてない。
ただ、わかってもらいたいだけなんだ。
これが出来たときが、心を開けたときなんだと思うんだけど。
それは、
求めすぎなのかな。
わがままなのかな。
そう思うとやっぱり、自分を偽ってしまう。
だから本音も出せないわけで。
それって結局、根底にあるものって
「否定されるのが嫌」ってことなんだと思う。
この世の中に、否定しない人っているのだろうか。
そう思うくらいに否定されてる気がしてしまう。
そもそも、この「否定」とは一体何なのか。
わたしが、敏感になりすぎて「否定された」って捉えてるところは大いにあると思う。
それもわかってる。わかってる、けど。
それって変えなくちゃいけないことなの?
「なんでこうしないの?」って否定じゃないの?
それを否定と思わないようにしなくちゃいけないの?
否定されるたびに、
ああ、わたしまた普通とは違ったんだなと思う。
だから、普通を知りたくなる。
正しい答えを知りたくなる。
間違ったことを言いたくないから。
だけど、ひとつだけ守りたいことがある。
それは、自分で自分を否定しないこと。
否定されたなと感じたとしても、自分が間違ってた、自分がダメだからだって決めないようにしたい。
わたしは今、否定されたと感じて心が傷ついたんだなって自分を受けとめることが大事だとは思う。
それも、わかってる。
でも、じゃあ結局それは事実として
否定だったの?否定じゃなかったの?
そんなことまでが気になってしまう。
自分がどう感じるかで決めていいのだろうか。
わたしが否定と思えば否定なのだろうか。
「なんでこうしないの?」と言った本人はきっと否定のつもりなんてないんだろう。
それも何度も経験してきた。
わたしだけが、否定されたな、傷ついたなって受けとめつつ、しょんぼりして終わりってことなのだろうか。
なんかそれって悲しい。
でも、一体どうすればいいって言うんだ。
否定されたかどうかの答えは、きっと見つからない。
そんな答えは最初からないんだから。
だからこそ、わたしはそのたびに自分で自分を否定せずにいたい。
ときには「否定された」じゃなくて「理解されなかった」と捉えることが出来たら、少しは心が軽くなる気がする。
自分の感覚が間違ってたわけじゃないよって、自分を支えてあげられるようにしたい。
そして、いつの日か「わかってもらえた」と思える瞬間が来ることを信じていたいと思う。
これがいまのわたしの精一杯の気持ち。
最後までお読みいただきありがとうございました。
読んでくださることがわたしの力になってます。
🕯関連記事🕯
そこにある真実
レールを外れて見える景色

いいなと思ったら応援しよう!
お読みいただきありがとうございます🕯
そのあたたかさが、また次のことばを灯す力、わたしの書く力になります。
これからも一緒に素敵なあかりを灯せたらうれしいです。