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「百人一首を旅しよう!」短歌と写真で今と繋がる〜第六回●崇徳院●〜

 第六回〜八回目にかけては、もりやまセレクトによる『声に出して読みたい名歌三選・男性歌人』を紹介していこうと思います。聴けば秒で情景が目に浮かぶ美しい歌ばかりです。
 まずは崇徳院(1119〜1164)。

 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
 われても末に 逢はむとぞ思ふ

 意味)急流で堰き止められた滝川ですが、岩によって二つに分かれても離れ離れになっても、いつかまたきっと一つの流れとなるでしょう。流れが合流するように、また貴女に会いたいと私は強く願う。

 こんなにも心優しく愛情深い歌を詠んだ崇徳院とはどんなお方か。解説の前にぜひ波乱万丈な人生を垣間見て下さい。知ってから改めて見るとまた味わいが変わる和歌です。
 (既存だからいいよ、という方はラストへ飛んで下さい)

 鳥羽天皇と待賢門院璋子の第一皇子として誕生。同じ母から産まれた弟こそ、平家物語で有名な、かの後白河天皇です。悲しいことに母と曽祖父に当たる白河院の仲が噂されたため、父・鳥羽天皇に疎まれて育ちました。

 数え年五歳で即位、二十三歳で父により譲位させられます。そして1156年、父の崩御を機に政治的主導権を巡って崇徳院vs後白河天皇による「保元の乱」が勃発。実の兄弟による骨肉相喰む戦となりました。

 戦には藤原氏平氏源氏も各々内部で対立、両者について戦うことになり、崇徳院は敗北
 勝った後白河側には、源頼朝義経の父・義朝がつき、負けた崇徳院側には義朝の父・為義、弟の為朝がつきました。
 結果として保元の乱は武士が政界へ進出する足がかりになり、やがて武士の世を築く礎のような形になりました。皮肉なものです。

 崇徳院は讃岐国(香川県)へ流されます
 8年間帰京を願いながらも叶わず亡くなりました。亡くなるまで無念を忘れず、髪・爪などを伸ばしたまま羅刹の如き姿であったと聞いたことがあります。

 都人不可思議な点として、菅原道真と同じように死後の崇徳院もまた「怨霊」として恐れられ、朝廷は数々の慰霊を行いました。
 「讃岐院」の院号を「崇徳院」としたのもその一環。祟られるくらいのことをしたわけだから始めからするなよと言いたくなりますが。

 この歌は保元の乱以前に詠まれた恋の歌。「瀬をはやみ」から「滝川の」までが「われても」を導く序詞。「われても」は「流れが分かれる」と「恋人が別れる」という意味を掛けています。

 政争のない平穏な時代の天皇だったならば、在世中に勅撰集『詞花集』を編纂させたように、歌や女性を愛した良き帝として世を送ったかもしれません。歌があまりに美しいため、対照的なその生涯の苛烈さに心が痛みます。

 ではあまりに畏れ多いですが、もりやま作

 たとひ世に 逢ふことなくも 黄泉にては
 面影抱きて 君を待つらむ

 意味)たとえこの世で逢えなくても、あの世では、あなたの面影を胸にお待ちしています。

高野山

 最後までお読みいただきありがとうございました。次回もどうぞお楽しみに!!

 (第五回・伊勢大輔については下記をご覧ください)⤵︎

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