日本独自の「人格の完成」by井上哲次郎
「人格の完成」とは、日本における信仰上の妄想でした。困ったことにこの妄想を教育基本法第1条に目的として「「人格の完成」めざし」とされてしまいました。科学的エビデンス根拠のない「人格の完成」概念を早く除去してほしいです。
「人格の完成」について
日本語「人格」は「パーソナリティー」のこと
日本語「人格」とは「パーソナリティ」の翻訳語でした。
「人格」といふ言葉は、比較的後でした。初め『哲学字彙』を作る頃には、まだ正確な訳語が無かつた。中島力造が、「パーソナリティー」を何と言つたらよからうと、私に言つた。この時、私の頭に、人間の品位品格といふことが頭に浮かんだので、「人格」がよからうと答へ、それを講義や著書にも使つたので、今や、日本の辞書から除くことの出来ない言葉となり、法津の方でも使ふやうになつた。
精神科学の訳語(明治事物起源 第七学術)
http://kokugosi.seesaa.net/article/2842526.html
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少し長くなりますが説明します。明治期後半に宗教関係者が関与する中で近代的につくられていった「修養主義」や、そこから分離独立していった「教養主義」でしきりに語られた「人格の向上」というイデオロギーにおける「人格」なるものが、日本語によく見られるようになるのは、明治20年代ごろです。… https://t.co/PcU1f8B8vH
— DJ プラパンチャ (@prapanca_snares) February 8, 2025
https://x.com/prapanca_snares/status/1888111254503645664
少し長くなりますが説明します。明治期後半に宗教関係者が関与する中で近代的につくられていった「修養主義」や、そこから分離独立していった「教養主義」でしきりに語られた「人格の向上」というイデオロギーにおける「人格」なるものが、日本語によく見られるようになるのは、明治20年代ごろです。 この「人格」という概念は、英語のpersonalityの訳語として登場しました。明治以前から「ひとがら」ということばはあったものの、personalityということばにはそこに収まりきらないところがあったがゆえに、「人格」ということばが用いられていくようになります。 「人格」という訳語が定着していった要因の一つとして、井上哲次郎や中島力造など、東京帝大の哲学科で倫理学を専門としていた人々の影響力があげられます。というのも、この「人格」という新しいことばは、人間の倫理や道徳について語る言説において最も頻繁に用いられたんです。 例えば、井上哲次郎は『中学修身教科書 巻三』(1902年)で、国民が気をつけるべき自己に対する道徳的責務として、身体を保全したり精神を「修養」したり一定の職業を選んで自立自営したり自己の「人格」を高尚にしたりすることをあげています。ここで井上は、「人格」を高めていくことは国民の責務だと述べています。しかも、「自己の人格を高尚にするは、自己に対する責務の、最も大なるものと知るべし」とも述べています。「人格」を向上させ高尚にしていくことが、心身の成長や職業選択以上に大事な責務だというのです。 これはnoteの方でも少し触れましたが(固定ツイートをごらんください)、当時の日本では「宗教」は道徳教育の場から排除される方向に進んでいました(井上も関与した「教育と宗教の衝突」が起きたり、「一般ノ教育ヲ宗教外ニ特立セシムル件」(文部省訓令第12号)によって学校での「宗教教育」や儀式が禁止されたりしている)。そういう状況のなかで「国民道徳」を説くために、「宗教」でないものにその理論的な基礎を求めたときに採用されたのが「人格」という新しい翻訳概念だったわけです。 中島力造も、「人格を重するは道徳に欠くべからさる条件なり」と語った人物です。中島は、「人格」というのは「平たく云へば、人を人として人は互に尊敬せねばならぬものであると云ふ考である」としたうえで、それを誰もが「心の中に感ずるようにならなければ公徳と云ふことは起つて来ないのである」としています。また、「人格」とは「人たる資格」のことであって、自他の「人格」に自覚的になり、「人格と人格との間の正当なる関係」を築いていくことが「道徳」だとも述べています(中島力造『倫理と教育』善積社、1902年)。 ともあれ井上も中島も、近代社会を生きる「個人」や「国民」の生き方を動機づけるための概念として、「人格」という新しい翻訳概念を持ちだしました。影響力が大きかった井上の「道徳語り」においては、一応「宗教」は排除されていました。しかし、その過度な「人格至上主義」とも言える方向性のなかには、<宗教っぽい>ところがありました。そのため、井上に後続する世代の人々は、「人格」と「宗教」を積極的に結びつけるようになっていきます。例えば、井上のもとで学んだ姉崎正治は、丁酉倫理会を設立して「人格の修養」を説き、個々の「宗教」の教義や教団組織を越えて「宗教」者が連携し、個々の「宗教」を超えた道徳教育をつくり出すことを掲げていました。 「修養主義」や「教養主義」に見られる「人格」の向上を至上のものだと考える傾向は、以上のような文脈からでてくるわけです。 今回パク、もとい参考にした文献は以下のとおりです。
〇佐古純一郎『近代日本思想史における人格観念の成立』朝文社、1995年 〇「人格の仏教 近角常観と明治後期・大正期の宗教言説」『仏教史学研究』54 (2)、2012年
パーソナリティと人格
https://jspp.gr.jp/doc/news14_02.html
井上哲次郎の「人格の完成」とは
井上鉄次郎は、教育(能力開発”Education”の翻訳語)の目的を人格者=人格を完成した聖人 仏陀、キリスト、ソクラテスになることとしました。
「教育について一言すれば、教育の目的は道徳的人格者をつくるにあるけれども、それはけっして国家的民族的要求と無関係のものではない。人格実現はその特殊なる国家的民族的関係を離れてなし得られるものではない。やはり特殊なる境遇に適応したる実現の方法を採らなければならぬ。それであるから道徳的人格者をつくるにあるといっても、けっして個人主義的の意義ではない。やはり国家的民族的の関係を有するもの、広くいえば、社会的関係を有するものでなければならないのである」
「教育は人格を陶冶《とうや》する方法であるが、人格を陶冶するにはその被教育者の投ぜられたる特殊の境遇事情に適応することを必要とするのである。それゆえにわが国の子弟を教育するにただちにわが国と境遇事情を異にする欧米の方法をもってすべきではない。わが国においてはどこまでも伝統的の日本精神をもって指導原理として教育を施さねばならぬ。ただし欧米の方法は慎重に取捨してこれをおのれに資することを期すべきである。」
「人格者は極めて稀なる場合であるけれどもほとんどそれを完全に実現して絶対無限の意識状態に到達したのである。それは孔子だの、仏陀だの、クリストだの、ソークラテースだの、そういう後世に模範を垂れた古今の聖人である。聖人といえどもその人格が絶対的に完全なりや否や、なお研究の余地があるようである。けれども、比較的によく道を体現し、人格を完成したものとして、長く後世に模範を垂れたものというべきである。この観点からいえば、孔子だの、仏陀だの、クリストだの、ソークラテースだの、みな人格修養上最好の実例として仰慕すべきところである。」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000420/files/47844_31646.html
大正期の人格の陶冶(教養とも ”bildung”の翻訳語)の流行
ドイツのbildung
カントのPersönlichkeit(ペルゼンリッヒカイト)の翻訳がパーソナリティであり、それは人間の完全性の元となるこころのことでした。ペルゼンリッヒカイトの”bildung”(ビルドゥング 自分自身を神の像につくる)がドイツ哲学の目標でした。
ヘーゲル(1770-1831)は、精神の自己運動 そのものを「教養=ビルドゥング」と呼んでいる(『精神現象学』VI.精神,B.疎外された精神—教養)。教養は労働となるが、それを可能にするのは自己 を疎外する社会状況である。疎外を通して自己の認識は、懐疑から絶望へと一方では繋がるが、自己の形成=ビルドゥングを通して、自己実現を探究することを 可能にして、さらなる成長を遂げる。自己疎外と自己成長は、人間精神が真理をもとめて、やがて自分自身を乗り越え、自分自身になることを示す。これが絶対 精神(Absoluter Geist)に到る道である[才野原 2003:452]。
「教 養とは精神が、実体的な生活の直接性から脱し、形成されてゆくことである。それが何にはじまるといえば、一般的な原理や観点についての知識を獲得し、ま ず、ことがらの一般の思想という場面へ引き上げことである。そして、それらのものを支持するにも、単体するするにも理由をあげ、具体的で豊かな内容の充実 に対し、それを明確に規定してとらえ、それにかんする整った報告とまじめな判断とを与えるようにならなければならない」(ヘーゲル 1967:92)。
日本における教養教育の2つの源流、ビルトゥングとリベラルアーツの共通点と相違点
navymule9.sakura.ne.jp
https://navymule9.sakura.ne.jp/13111102ars.html
https://note.com/mototchen/n/n8aa056db7fe3
https://togetter.com/li/1902934
ドイツ哲学の”bildung”が人格の陶冶、人格の完成として日本に輸入されました。
「人格の陶冶」と「人格の完成」
大正期の日本において、このカントのペルゼンリッヒカイトの形成を論じたドイツの教育学言説――リンデ(Linde, Ernst)、ブッデ(Budde, Gerhart)などが1900年代から1910年代にかけて展開した――「ペルゼンリッヒカイトスペダゴギーク」(Persönlichkeitspädagogik)が「人格的教育学」と訳され、いくつかの教育雑誌を通じて紹介された。この「人格的教育学」がめざしたことが、「ペルゼンリッヒカイトスビルドゥング」(Persönlichkeitsbildung)である。たとえば、教育学者の中島半次郎は、1914年に著書『人格的教育学の思潮』において、この「人格的教育学」を紹介し、この「ペルゼンリッヒカイトスビルドゥング」を「人格の陶冶」と訳している。教育学者の篠原助市も、1918年に論文「最近の教育理想」のなかで、この「人格的教育学」を紹介し、「ペルゼンリッヒカイトスビルドゥング」を「人格の陶冶」と訳している(田中 2005)。
1933年にデューイ(Dewey, John)の『民主主義と教育』が、帆足理一郎によって『教育哲学概論――民本主義と教育』という表題で、はじめて翻訳出版された。同書では、「人格の完成」という言葉が2回用いられているが、どちらも、原語がcomplete development of personalityである(CWD, mw 9, DE: 118, 128)。デューイがそこで言及した「人格の完成」も、当時のドイツ教育学で語られた「人格の陶冶」だろう。デューイはそこで、「文化(culture[これはBildung(陶冶)のことである])は、人格的(personal)である。‥‥文化と呼ばれようと、人格の完全展開と呼ばれようと、それがもたらすものは、一人ひとりの個人に内在する特異性(what is unique)‥‥が顧慮されているかぎり、真に社会的に有為な能力にひとしい」と述べている(CWD, mw 9, DE: 128)。この「人格の完全展開」は、「〈内的〉人格の完全化」(perfecting an “inner” personality)とも言い換えられている(CWD, mw 9, DE: 129)。
人格を完成させるためには読書するという教養主義になりました。
教育基本法第1条 (教育の目的) 「人格の完成」をめざし
教育基本法に記入されてしまった目的「人格の完成」はクリスチャンの文部大臣田中耕太郎が原案を作らせた実現不可能な宗教願望でした。
大前委員 実を言いますと、この人格の完成という文言は、現行法の案文策定当時の文部大臣田中耕太郎氏の強い指示によって決定したと言われております。当初の案では、人間性の開発を目指し、となっていたそうでございます。田中文部大臣は熱心なクリスチャンであったそうでございますけれども、自己の信念に基づき、限りなく宗教的概念に近い人格の完成という文言に固執をしたと言われているのでございます。
このことは、田中文部大臣自身が執筆された著書「教育基本法の理論」の中でもはっきりと述べられているそうでございます。
私は読んだわけではございませんので、上杉先生の論文から孫引きで恐縮でございますけれども、引用させていただきますと、「人格の完成は、完成された人格の標的なしには考えられない。そして完成された人格は、経験的人間には求め得られない。それは結局超人的世界すなわち宗教に求めるほかは無いのである」と述べておられるわけでございます。
こういった、いかに文部大臣であったとはいえ、クリスチャンとしての田中氏の信念を再び今回の改正法案に盛り込むのはいかがか
164国会 衆特別委 第4回(5月26日)
http://www.stop-ner.jp/detabase/0410.htm
田中は,人格を「自然的人間」とは異なる観念であると言う。また,人格は「人間が他の動物と異なって備えている品位ともいうべきもの」だとも言う。更に,人格は「理性と自由の存在を前提とする。それは善悪正不正を識別し,自由意志に よって善や正を選択し,悪や不正を排斥」し,「道徳的に行動する場合において,自由であり, 自主的である」。そして,人格は「自由と自主性を本質とする」ので,従って「責任の概念と離るべかざる関係にある」と述べている。田中は,このように教育の目的としての完成された人格を「全一的な人間」であると述べる。そして,「全一的な人間」は,「経験的な人間に求めることは不可能」であり,結局,「宗教的な世界観に求めるほかはない」と言うのである。田中は,「人格」に関するこのような解釈が,「他の理解を得られるとは思っていない」と言う。確かに,教育基本法に定められた教育の目的が,田中の宗教的な世界観で語られることには違和感を禁じ得ない
Kotaro Tanaka’s theory on educational aim in history of educational thought in postwar Japan
Consideration based on the
“Theory of the Fundamental Law of Education”
https://jwu.repo.nii.ac.jp/records/1608
小坂文科大臣:政府案第一条で言っております人格の完成は、現行法においても教育の目的とされておるわけでございますが、「各個人の備えるあらゆる能力を可能な限り、かつ調和的に発展させることを意味するものである」、このようにされております。このような人格の完成は、教育の目的として普遍的なものであることから、今回の法案においても引き続き規定することとしたものでございます。それでは人格の完成とはどのような人なのか例示してみろ、こう言われたら、これは私は例として申し上げる人はおらないわけでございます。すなわち、人格の完成というのは、私は神のことだと思うのでございますね。ですから、神のような全知全能を備えたものを目指すといっても、これは到底到達できるものではございません。だからこそ目指すのであって、それが実現するということは恐らく一生を通じてなし得ないかもしれない、しかし常にそれを目指せということで、「人格の完成を目指し」と言っているんだと私は思っておるわけでございます。
https://ippjapan.org/archives/2675
そして日本の学校では
まあ、学校で行われるすべての教育は要するに道徳なので(何しろ教育基本法第一条「人格の完成」を目指す場所なのです)、学校では内面と無縁な教育実践なんて、現実にはありえないんですけどね。
— あすこま (@askoma) April 5, 2025
https://x.com/askoma/status/1908519035110920650
こういう意見も
https://note.com/mrmonaka/n/ncdf53dc0a230
パーソナリティについて
パーソナリテイは遺伝と学校ではない環境で決まる
パーソナリテイは遺伝4割、環境6割で決定されるとされています。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120120/296812/
パーソナリテイ遺伝は4割、環境は6割
Heritability of personality: A meta-analysis of behavior genetic studies.https://psycnet.apa.org/record/2015-20360-001
https://president.jp/articles/-/73154?page=4
https://president.jp/articles/-/73154?page=5
パーソナリテイの変化は年齢
パーソナリテイの変化は教育ではなく年齢を重ねて起きるとされています。
https://note.com/mototchen/n/n7839dc5d340a
参考
https://note.com/mototchen/n/n7dce94d0af16
Education の意味は能力開発
https://note.com/mototchen/n/na06722778af2
