目的をめぐる概念群はどのように組み替えられたのか——言語生態系・翻訳知識ネットワーク・制度から読む西洋哲学史
第1稿
第3稿

第2稿 目的をめぐる概念群はどのように組み替えられたのか
——言語生態系・翻訳知識ネットワーク・制度から読む西洋哲学史
はじめに——最初から「目的」という一個の概念を置かない
現代日本語では、人生の目的、企業の目的、行為の目的、生物器官の目的、国家の目的など、性質の異なるものを同じ「目的」という語で表す。
さらに哲学史では、
アリストテレスの目的因
アクィナスの最終原因
スピノザの目的因批判
カントの合目的性
ヘーゲルの目的論
生物学の機能
サイバネティクスの目標指向性
が、一つの「目的概念」をめぐる長い論争として語られることがある。
しかし、この見方は最初から問題を含んでいる。
古代ギリシア語の telos、hou heneka、
ラテン語の finis、causa finalis、
ドイツ語の Zweck、Zweckmäßigkeit、
英語の purpose、function、goal
は、同じ意味空間を同じ仕方で分割していない。
また、それぞれの哲学者が論じたのも、同一の対象ではない。
ある者は自然物の完成を論じ、
ある者は欲求される善を論じ、
ある者は神の創造秩序を論じた。
別の者は生物を理解する判断形式、人間を単なる手段にしない規範、機械のフィードバック制御を論じた。
したがって本稿は、「目的とは何か」という単一定義から出発しない。
本稿でいう目的をめぐる概念群とは、日本語で「目的」「目的因」「合目的性」などと訳されてきた語だけを指すのではない。
それは、
終端
完成
善
欲求
意図
選択
原因
機能
判断
規範
手段
制御
が、それぞれの哲学体系においてどのように区別され、接続されていたかを探索するための暫定的な総称である。
本稿の中心命題は次のとおりである。
西洋哲学史において、一つの「目的」が自然から神、人間、制度へ移動したのではない。生成・完成・善・欲求・意図・因果・判断・規範・機能・制御をめぐる複数の概念配置が、学術言語、翻訳、注解、教育制度、科学的方法、技術的実践を通じて、繰り返し分解・接続・再配置されてきた。
本稿は主として古代ギリシアからラテン中世、近代西欧、ダーウィン以後の生物学とサイバネティクスに至る系譜を扱う。
これは世界思想に共通する普遍的な「目的」の歴史ではない。
仏教哲学、中国思想、インド哲学では、行為主体、因果、完成、無我、天、道などの組み合わせ自体が異なる。
第Ⅰ部 哲学概念は何語で形成されたのか
1 母語、学術言語、執筆言語を同一視しない
哲学書がどの言語で書かれたかは確認できる。
しかし、哲学者が内面で何語を用いて思考していたかは、著作言語から直接には分からない。
少なくとも次の層を分ける必要がある。
言語層 内容
生活言語 家庭、地域、日常生活で使われた言語
教育言語 読み書き、文法、修辞学、論理学を学んだ言語
学術言語 大学、教会、専門的論争で用いられた言語
執筆言語 特定の読者や出版市場に向けて選択された言語
聖典・古典語 宗教文書や古代文献を読むために学ばれた言語
記号体系 数学、論理、図式など自然言語以外の表記体系
これらは一致する場合もあれば、分離する場合もある。
アクィナスがラテン語で著作を書いたからといって、幼少期からラテン語だけで世界を認識していたわけではない。
しかし、ラテン語が単なる表面的な翻訳コードだったとも言えない。長年にわたり、定義、講義、討論、執筆に用いられた学術言語は、専門的な思考を組織する媒体になる。
したがって、
母語が哲学を決定した
とも、
著作言語がそのまま内面の思考言語だった
とも断定できない。
考えるべきなのは、言語生態系である。
生活言語による初期的な分類、学術言語による専門訓練、翻訳・注解による概念伝承、執筆言語の語彙制約、論争相手と読者の存在が重なって、哲学的概念配置が形成される。
2 多言語哲学者より、翻訳知識ネットワークを見る


前近代・近世ヨーロッパの知識人は、生活言語とは別にラテン語などの学術共通語を学び、場合によってはギリシア語、ヘブライ語、アラビア語、フランス語など複数の言語を使用した。
ここから、次の仮説を立てることはできる。
異なる言語間の非等価性を繰り返し経験することは、語と概念が一対一ではないことへの注意を促したのではないか。
ただし、この仮説を、
多言語者だったから哲学者になった
多言語者は概念的に優れている
という一般的な認知優位説へ拡張することはできない。
哲学的概念分析を促した可能性があるのは、単に複数の言語を話したことではない。
重要なのは、
原典と翻訳を比較する
訳語の不一致を注釈する
同じ語の意味範囲を限定する
一つの訳語へ流入した複数の原語を区別する
異論を定式化する
反論に答える
教科書・注解書で語義を標準化する
という、制度化されたメタ言語的実践である。
しかも、概念伝承を担ったのは著名哲学者だけではない。
翻訳者
注解者
校訂者
写字生
教師と学生
神学者と法学者
出版者と書籍商
大学、教会、宮廷
が接続した集合的な知識生産系があった。
したがって、より慎重な仮説は次のようになる。
複数言語を接続する翻訳・注解・教育ネットワークは、言語間の非等価性を反復的に処理することで、普段は透明な概念境界を可視化し、新しい区分・定義・論争単位を形成した可能性がある。
本稿の中核命題は、この仮説に依存しない。
多言語性が概念分析を促したという仮説が棄却されても、目的関連概念が翻訳・注解・制度を通じて再配置されたという歴史的命題は残る。
第Ⅱ部 古代ギリシア内部ですでに一つではない
3 プラトン——善・知性・制作・必然性
西洋哲学における問題の前史は、アリストテレスの四原因以前にある。
『パイドン』でソクラテスは、アナクサゴラスが「知性が万物を秩序づける」と述べたことに期待する。
彼が期待したのは、天体がどの物質によって動くかという説明だけではない。
なぜその配置が最善なのか。
という説明である。
しかし、アナクサゴラスは実際の説明では空気やエーテルなどを持ち出し、知性と善による説明を十分に展開しなかった、とソクラテスは批判する(『パイドン』97b–99c)。
『ティマイオス』では、善なるデミウルゴスが永遠の範型を参照し、可能な限り秩序ある宇宙を制作する。
ここで組み合わされているのは、一語の「目的」ではない。
善
知性
範型
制作
宇宙秩序
必然性
である。
しかもデミウルゴスは、抵抗のない素材へ一方的に設計を押しつけるわけではない。知性は必然性を「説得」しながら秩序を形成する。
したがってプラトンの構図は、外部の制作知性と世界秩序を結びつける、制作的・宇宙的な説明である。
4 古代にも反目的論があった
「古代は目的論、近代は機械論」という単純な対立も成立しない。
エピクロス派を受け継ぐルクレティウスは、眼が見るために作られ、脚が歩くために作られたと考えるのは、順序を逆転した説明だと批判した。
人工物は、既に存在する必要を満たすために作られる。
しかし生物の器官を、人工物と同じ制作モデルで理解するべきではない。
これは自然選択説ではない。生物の発生や進化を現代的に説明したものでもない。
しかし、人工物の設計目的を自然物へ投影することへの古代的な批判として重要である。
古代内部にも、
善による宇宙秩序
自然物に内在する完成
原子運動による非摂理的自然観
という競合があった。
5 アリストテレス——telosだけでは読めない
アリストテレスの議論を、日本語の「目的」へ一括すると、複数の概念配置が消える。
原語 おおよその位置
telos 終端、完成、成就
hou heneka それのために、何のために
eidos 形相、その種類のものを成立させる構造
energeia 活動、現実に働いていること
entelecheia 現実態・完全現実態など。
energeia との関係は単純ではない
ergon 働き、活動、固有の仕事
agathon 善、望ましいもの
orexis 欲求、志向
prohairesis 熟慮を経た選択
ta pros to telos 終端に関わるもの。単なる「手段」と訳せるかは争いがある
四原因は、四種類の物理的な力ではない。
同じ対象について異なる種類の「なぜ」に答える説明区分である。
何からできているか
どのような形であるか
何が変化を始めたか
何のために、どの完成との関係で生じるか
ただし、自然物、とくに生物では、形相と「それのために」が密接に重なる。
成熟した生物の形は、生成過程の終端であると同時に、その生成が何の生成であったかを同定する基準でもある。
この意味で形相因と目的因は説明上重なりうるが、常に数的に同一だと単純化することはできない。
アリストテレスの自然論を、
未来の完成状態が現在を逆向きに引っ張る
と理解するのも不正確である。
より近いのは、
自然的生成は、任意の状態へ向かうのではなく、その種類のものとしての形態・活動・完成との関係で理解される
という構図である。
6 倫理学——善・欲求・熟慮・選択
『ニコマコス倫理学』では、人間の技術、探究、行為、選択は何らかの善へ向かうとされる。
しかしここでも、一語の「目的」を置けば済むわけではない。
エウダイモニア
善
欲求
選択
熟慮
習慣
性格
実践知
固有の働き
が関係する。
しばしばアリストテレスは、
人間は目的についてではなく、目的へ至る手段について熟慮する
と要約される。
しかし原語の ta pros to telosを英語のmeans、日本語の「手段」と訳すこと自体が、解釈上の選択である。
それは交換可能な道具だけでなく、終端に至る行為、目的を構成する要素、その状況で目的を具体化する事柄を含む可能性がある。
したがって、アリストテレスを、
固定目的→ 最適手段の計算
という近代的な手段合理性へ還元することはできない。
何が善として見えるかは、性格、習慣、教育、共同体によって形成される。
構造は次の循環に近い。
習慣・教育・共同体
→何が善に見えるか
→欲求・熟慮・選択
→行為
→新しい習慣と性格
また、ergonは単なる機能ではない。
人間や器官の固有の働きと、それをよく果たす卓越性を結びつける規範的な位置を持つ。
この点は、後に見る非規範的な因果役割としての機能とは異なる。
第Ⅲ部 翻訳は概念を運ぶだけではない
7 翻訳経路は一本ではない
中世西欧のアリストテレス受容を、
ギリシア語原典→ラテン語訳→アクィナス
という一本道で理解することはできない。
実際には、
ギリシア語から直接ラテン語
ギリシア語からシリア語、さらにアラビア語
アラビア語からラテン語
アラビア語からヘブライ語
ギリシア語注解とアラビア語注解の並存
原典ではなく要約、偽書、注解を通じた伝承
など、複数の経路が存在した。
翻訳は概念を同じ形のまま運ぶ輸送ではない。
翻訳のたびに、
どの語を対応語として選ぶか
どの隣接概念を残すか
どの区別を捨てるか
どの神学的・法的含意を加えるか
どの注解を標準的理解とするか
が変化する。
したがって、翻訳・注解・教育は、概念の伝達装置であると同時に、概念を再生産する装置である。
8 アヴィセンナ——終端・完成・最終原因の再編
アラビア哲学を、ギリシア哲学をラテン世界へ運んだ中継地点として扱ってはならない。
アヴィセンナは、アリストテレスの原因論を継承しながら、独自の形而上学・自然学の中で再構成した。
アラビア語のghāyaは、終端、到達点、完成などに関わり、ʿilla ghāʾiyyaは最終原因を表す。
ここでは少なくとも、
運動が終わる地点
行為者が意識する到達対象
存在が完成すること
自然物の生成を方向づける説明
を区別する必要がある。
アヴィセンナ以後のアラビア哲学でも、認識を持たない自然物にどの意味で最終原因を帰属できるのかが論争になった。
重要なのは、アラビア語圏の哲学者がギリシア語の語を保存したことではない。
原因・完成・欲求・自然的傾向・知性の関係を、自らの哲学体系の中で再配置した
ことである。
その再編された概念配置が、後にラテン・スコラ学へ流入した。
9 アヴェロエス——注解は複製ではない
アヴェロエスも、単なる伝達者ではなかった。
彼のアリストテレス注解は、原典の逐語的複製ではなく、どの箇所をどう読むべきかを決定する解釈装置だった。
ラテン世界では、アリストテレスと同時に「注解者」アヴェロエスが読まれた。
したがってラテン西欧が受け取ったものは、
純粋なアリストテレス
ではない。
複数の翻訳と注解によって、既に問題設定が組み替えられたアリストテレス
である。
10 アクィナス——finisはtelosのコピーではない
アクィナスが使用したのは、既に専門化されたスコラ学ラテン語である。
重要な語には、
finis
causa finalis
bonum
appetitus
intentio
voluntas
ordo
providentia
がある。
finisは単なる時間的な「終わり」ではない。
作用者が向かうもの
欲求される善
行為を方向づけるもの
創造秩序における完成
を表しうる。
intentioも、一つの最終的finisだけに向けられるわけではない。
薬を調合することと健康を回復することのように、近接的なfinisと、より遠いfinisが同時に志向されうる(『神学大全』I–II, q.12, a.3)。
さらにアクィナスでは、
自然物が一定の結果へ向かうこと
人間が理解と意志によって行為すること
神が創造秩序全体を統べること
が階層的に接続される。
ここで行われたのは、ギリシア語のtelosを正確なラテン語へ置き換える作業ではない。
翻訳・注解を経て専門化されたアリストテレス概念を、善・欲求・意図・摂理・創造というキリスト教的概念配置へ組み込むこと
だった。
ただし、アクィナスがどの翻訳をどの程度利用したか、モエルベケとの関係がどこまで確定できるかには史料上の不確実性がある。
この不確実性自体が、概念伝承の経路が透明ではないことを示している。
第Ⅳ部 近代は目的を消したのではなく説明を再配置した
11 ベーコン——方法論的批判と投影批判
ベーコンは、自然研究において最終原因を用いることを批判した。
たとえば、
葉は実を守るために存在する
と言えば、一見すると説明が完了したように見える。
しかしそれだけでは、
葉がどの物質過程によって形成されるか
どの条件で形態が変化するか
どの作用が生じているか
は分からない。
ここには二つの批判がある。
第一に、最終原因の説明が、物質的な生成機構の探究を停止させるという方法論的批判。
第二に、人間にとっての有用性や価値を、自然そのものの構造へ投影しているという認識論的批判である(『ノヴム・オルガヌム』I, 48)。
12 デカルト——自然研究から最終原因を外す
デカルトも『哲学原理』第1部28節で、自然物について神の目的を推測することを避け、作用原因を探究すべきだと述べる。
人間は、神の計画全体を知りうる立場にない。
したがって自然研究において、
神は何のためにこれを作ったのか
と推測するのではなく、
どの物質、運動、形状、法則によって生じるのか
を問うべきだとする。
しかし、これによって人間の意図、人工物の用途、神の意志、倫理的行為の方向が全面的に消えたわけではない。
近代の転換は、
目的が論破され、原因だけが残った
というより、
自然現象の生成説明から特定の最終原因語法を排除し、意図・設計・倫理・神学を別領域へ分化させた
ものだった。
13 スピノザ——最終原因を欲求の因果へ解体する
スピノザは、ポルトガル系ユダヤ共同体、ヘブライ語教育、オランダ語社会、ラテン語哲学が交差する環境にいた。
しかし、どの言語で内面の思考を行ったかを一意に決めることはできない。
確認できるのは、『エチカ』が新ラテン語の哲学語彙によって体系化され、その語彙がスコラ学とデカルト哲学を前提としていたことである。
『エチカ』第1部付録でスピノザは、人間が自分の欲求と行為を意識しながら、それらを決定した原因を知らないと論じる。
そのため人間は、
自分は自由にfinisを設定し、そのために行為している
と考える。
さらに、自然物も人間の利益のために存在すると推測し、自然全体を人間的な有用性から解釈する。
しかしスピノザは、人間が将来状態を表象し、それを求めて行動する現象自体を否定しない。
否定するのは、その未来表象が独立した最終原因として現在を動かすという説明である。
『エチカ』第4部序文では、最終原因と呼ばれるものは、物の原因とみなされた人間の欲求にほかならないと再記述される。
家が住居のために建てられたという場合、未来の家が現在の建築者を引いたのではない。
住居の利便性を表象した人間の欲求が、建築行為の作用原因となった。
ここで関係するのは、
conatus
appetitus
cupiditas
utilitas
である。
ただし、causa finalisを削除して、その場所にconatusを置いたと単純化してはならない。
conatusは未来の目標ではなく、各存在が自己の存在を維持しようとする現在的な力学である。
appetitusとcupiditasも固定的に別物なのではなく、意識との関係で区別される局面を持つ(『エチカ』第3部命題9備考)。
したがってスピノザが行ったのは、
一つのfinisで説明されていた現象を、欲求・観念・身体状態・自己維持の因果関係へ分解すること
だった。
14 ライプニッツ——作用原因と最終原因の強い統合
ライプニッツは、ラテン語、フランス語、ドイツ語を相手と領域に応じて使い分け、数学や論理の記号体系も重視した。
母語か執筆語かのどちらか一方を「本当の思考言語」とみなすことが特に困難な哲学者である。
『形而上学叙説』第22節で、ライプニッツは作用原因による説明と最終原因による説明の和解を主題とする。
時計について、
歯車がどのように力を伝えるか
なぜその配置が時刻測定に適しているか
は、異なる問いである。
しかし、ライプニッツの統合を現代的な「howとwhyの説明水準の分業」へ薄めることはできない。
その体系には、
神による可能世界の選択
最善と完全性
十分理由
モナドの内的変化
身体系列と精神系列の予定調和
が含まれる。
ここには目的語法の危険もある。
どのような苦痛や失敗も、
より大きな全体善のために必要だった
と解釈できるなら、反証事例が理論の支持へ変換される。
この構造は、後の深層解釈にも見られる。
本人が認めれば理論の証拠。
本人が否定すれば、抑圧や無意識の証拠。
神義論と深層解釈は同一ではない。
しかし、すべての観測を自説の支持へ回収するという反証不能構造を共有しうる。
第Ⅴ部 カントとヘーゲル——ドイツ語の一語にも収まらない
15 カント——Zweck系列の分岐
カントを単に「目的論者」と呼ぶと、彼が行った概念分岐が見えなくなる。
語 哲学上の位置
Zweck 表象に従って産出・追求されるもの
Zweckmäßigkeit Zweckとの関係に適合しているような構造
Naturzweck 部分と全体が相互に産出・維持する自然物
Endzweck 道徳的・体系的に他へ従属しない終局的位置
Zweck an sich selbst 単なる手段化を禁じる規範的地位
Mittel Zweckとの関係で用いられるもの
『判断力批判』第64~65節で、生物はNaturzweckとして論じられる。
生物では、
部分が全体を支える
全体が部分の形成を条件づける
自己形成・再生産が行われる
という相互関係がある。
しかしカントは、これを、
生物が客観的に設計目的によって作られた
という知識にはしない。
目的的に組織されたものとして判断することと、設計者の実在を断定することを分ける。
美的判断の「目的なき合目的性」はさらに別である。
対象が具体的な実用的Zweckを持たなくても、その形式が認識能力へ適合しているように感じられる。
倫理学のZweck an sich selbstも、達成される目標ではない。
自己および他者の人格における人間性、すなわち理性的自然を、単なるMittelとしてのみ扱ってはならないという規範的地位である。
カントは、一つの「目的」を別の場所へ移したのではない。
自然説明、反省的判断、美的適合、倫理的地位を、複数のZweck系列へ分岐させた
のである。
16 ヘーゲル——Zweck、Mittel、客観化
ヘーゲル『論理学』の目的論章には、概ね次の三契機がある。
主観的なZweck
Mittel
実現されたZweck
主観的なZweckは、頭の中にあるだけでは世界を変えない。
身体、道具、自然過程、対象をMittelとして用いることで客観化される。
ただし、ヘーゲルのZweckを完成済みの意識的計画だけに限定することには異論がある。
ヘーゲルはBedürfnisやTriebも、方向づけの例として扱う。
したがって、
明確に言語化された意図
→手段
→実現
だけが目的論ではない。
必要、衝動、行為、道具、対象の媒介が問題になる。
ヘーゲルから比較的確実に言えるのは、
有限なZweckはMittelを必要とする
Zweckは客観性との媒介で実現される
実現されたものは別のZweckのMittelになりうる
ということまでである。
一方、
SNSが反応数最大化という目標を作る
KPIが組織の価値判断を変える
技術が新しい欲求を形成する
対象の抵抗が当初の方向づけを修正する
という議論は、ヘーゲル自身の逐語的主張ではない。
それは媒介論を、現代の技術論・制度論・動的システム論へ展開した再構成である。
この再構成では、
表象された方向づけ
→利用可能な手段
→対象・他者・制度への介入
→抵抗・副作用・応答
→方向づけの具体化・修正
という循環が成立する。
目的の抽象的内容は、媒介と抵抗を通じて具体的規定を得る。
第Ⅵ部 ダーウィン以後——設計・適応・機能・制御の分離
17 ダーウィンは機能語彙を消さなかった
ダーウィン以後、生物の構造について「何のためにあるか」という問いが消えたわけではない。
変化したのは、設計者を仮定せずに適応的構造を説明できるようになったことである。
ただし、
現在役立っている
したがって、その効果のために選択された
とは限らない。
区別すべきなのは、
自然選択で形成された適応
遺伝的浮動
発生上・構造上の制約
他の形質の副産物
外適応
現在の利用
歴史的に選択された効果
である。
したがって、
現在の有用性↛その効果による歴史的選択
である。
ダーウィン以後の概念再編は、
神学的設計
歴史的選択
現在の因果的寄与
個体の目標指向性
進化全体の方向
を分離する作業だった。
18 サイバネティクス——設定値・誤差・フィードバック
1943年、Rosenblueth、Wiener、Bigelowは“Behavior, Purpose and Teleology”において、行動を入力・出力・フィードバック・予測の観点から分類した。
ここで重要なのは、未来状態を作用原因として仮定せず、外部設計者を直接参照しなくても、観測可能な目標追跡行動を記述できることである。
温度制御装置は、未来の快適な室温に引かれるのではない。
現在温度
→設定値との差
→加熱または停止
→新しい現在温度
という循環を作動させる。
ただし、サーモスタット型制御を人間や制度へそのまま拡張することはできない。
工学的制御人間・制度設定値が外部から与えられる設定値そのものが変化する単一の誤差を処理する複数の価値・目標が競合する測定値が比較的安定している指標が操作・交渉される対象は制御者を解釈しない対象が制御へ反応する成功条件が比較的明確成功定義が権力問題になる
サイバネティクスは「目的論一般」を置き換えたのではない。
観測可能な目標追跡行動を、フィードバックによって再記述したのである。
19 teleonomy——代替語も一義的ではない
Pittendrighは1958年、適応的・組織的な目標指向性を記述しながら、宇宙的な目的論や最終原因の含意を避けるためにteleonomyという語を導入した。
その後Mayrらも使用したが、teleonomyの意味は完全には統一されなかった。
遺伝的プログラム
個体の目標指向性
適応的組織
自己維持
発生過程
のどこを中心に置くかには差がある。
したがって、
teleologyからteleonomyへ正しい語が置き換わった
と理解するべきではない。
それ自体が、目的関連概念を再分節化する試みだった。
20 機能論争——一つの「機能」ではない
現代の機能論も、一つの理論ではない。
Wright——語源論的・因果史的機能論
Larry Wrightは、機能説明を、
なぜそのものが存在するのか
という問いに、その効果によって答える説明として定式化した。
ただし、Wrightの理論をそのまま「選択効果説」と呼ぶのは正確ではない。
その定式は生物学的選択に限定されておらず、偶発的な効果まで機能に含める危険があった。
Boorse——偶発的効果の反例
Boorseは、ある効果がそのものの存続に因果的に寄与しているだけでは、直ちに機能とは言えないと批判した。
この批判によって、因果史一般と、生物学的に選択された効果を区別する必要が明確になった。
Millikan・Neander——選択効果説
その後の選択効果説は、
その形質が過去にどの効果によって選択・再生産されたか
を機能の基礎とする。
現在役立つかどうかだけではなく、歴史的な選択理由を問う。
Cummins——因果役割説
Cumminsは、歴史的選択ではなく、
その部分が現在の体系能力へどのように寄与するか
を分析する。
心臓について、
血液を送り出す物理・生理機構
循環系能力への現在の因果的寄与
過去にどの効果で選択されたか
医師や患者が設定する健康上の目標
は、異なる説明である。
ここでアリストテレスのergonとの比較も可能になる。
両者は、設計者の意図に訴えずに「働き」を問う点では似ている。
しかし、
アリストテレスのergonは、卓越性や「よく働くこと」という規範性を含む
Cumminsの因果役割は、原理的には現在の体系への寄与を記述する非規範的分析である
という違いがある。
同じ「働き」「機能」と訳しても、概念配置は異なる。
第Ⅶ部 説明の相補性
21 同じ現象へ複数の問いがある
目的論と機械論を、常に二者択一として扱う必要はない。
たとえば、人が駅へ走っているときに心拍数が上昇した理由を考える。
説明型問い作用機構どの生理過程によって心拍数が上がったか発生・形成その身体機構はどのように形成されたか選択史その機構はどの効果によって保存されたか体系内機能現在の循環系能力へ何を寄与しているか行為理由本人はなぜ走ったのか制度的条件なぜその時刻に駅へ行く必要があったのか規範的評価その行為は望ましいか、正当か
これらは同じ回答ではない。
しかし、直ちに互いを排除するものでもない。
問題は、
作用機構の代わりに目的語法だけを置く
行為理由を神経過程へ還元する
現在機能から歴史的選択理由を導く
制度的目標を本人の内発的意図とみなす
という説明水準の混同である。
第Ⅷ部 類型レンズ

22 A型——分類は規約的だが任意ではない
telos、finis、Zweck、purpose、日本語の「目的」は、同じ意味空間を同じ仕方で分割していない。
したがって、何を同じ系列として比較するかには研究上の規約が関係する。
しかし、好きなように分類できるわけではない。
分類には、
原典での実際の出現
隣接語との対立
論証内での役割
注解・翻訳伝承
同時代の用法
という拘束がある。
A型とは、
何でも主観的である
という意味ではない。
複数の合理的分類がありうるが、それぞれが原典上・歴史上・説明上の制約を受ける
ということである。
23 B型——本稿では確定しない
本稿から、目的論や機械論の定理的不能は導けない。
また、哲学者の内面で用いられた言語を直接観測できないからといって、ベルの定理やRiceの定理のような形式的不能が成立するわけでもない。
したがってB型は確定しない。
存在するのは、
史料不足
過少決定
複数仮説による識別困難
翻訳の非等価性
内面状態への外部アクセス限界
である。
これらは外部限界・識別限界であって、定理的不能ではない。
24 第三型——翻訳と定義が対象を作る
翻訳は、完成した概念を別言語へ移すだけではない。
訳語の選択によって、
複数の概念が一つに見える
一つの概念が複数へ分裂する
新しい対立項が作られる
後世の論争単位が固定される
という効果が生じる。
日本語で、
telos
finis
causa finalis
Zweck
Zweckmäßigkeit
purpose
function
を「目的」系列へ収容することによって、古代から現代まで一つの目的概念をめぐる論争が続いてきたように見える。
この連続性の一部は、翻訳によって作られた。
さらに、「国家の目的」「企業の目的」「教育の目的」という定義は、既存の現実を記述するだけではない。
誰が方向づけを設定するか
誰を手段として利用できるか
何を成功として測定するか
何を不要として排除するか
を制度的に編成する。
A型が既存テクストの分類を扱うのに対し、第三型は、定義や翻訳が現在の行動・制度を変える過程を扱う。
前者は主として状態の整理であり、後者は遂行的な構成過程である。
第Ⅸ部 H₁/H₂——概念と知識生産系の共進化
目的をめぐる概念群は、思想家の頭の中だけで変化したのではない。
H₁には、
語義
概念区分
原因
善
欲求
正当化
認識可能性
がある。
H₂には、
使用可能な言語
翻訳・校訂・注解技術
写本と印刷
大学と教会
教育と討論形式
実験装置
時計と機械
出版市場
国家と行政
サイバネティクスと計算機
がある。
概念配置は、次のようなネットワークで変化する。
概念配置
⇄ 言語・翻訳・注解
⇄ 討論・教育形式
⇄ 大学・教会・出版制度
⇄ 実験・技術・社会実践
⇄ 次の概念配置
ギリシア語文献の翻訳がなければ、ラテン・スコラ学の概念配置は成立しない。
大学の討論形式がなければ、異論の定式化、語義の区別、反論への応答は同じ仕方では制度化されない。
実験、測定、再現の実践がなければ、作用原因中心の自然研究は方法論的優位を得にくい。
サーボ機構やレーダー制御がなければ、誤差とフィードバックによる目標追跡行動という概念も成立しにくい。
したがって概念史は、観念の自己運動ではない。
言語、技術、組織、制度、権力、実践結果が相互に更新される共進化
である。
第Ⅹ部 多言語・翻訳仮説をどう検証するか
多言語性と翻訳知識ネットワークについての議論は、完成した事実ではなく、検証を要する仮説である。
1 異なる翻訳経路の比較
同じ著作が、
ギリシア語から直接ラテン語
ギリシア語からシリア語・アラビア語を経てラテン語
原典ではなく要約・注解からラテン語
へ移された場合、語彙、概念対立、論証構造がどう異なるかを比較する。
2 同一人物の複数言語著作
同じ哲学者がラテン語、フランス語、ドイツ語などで同じ問題を論じた場合、
同じ区別を維持したか
言語変更に伴い定義を変えたか
読者に応じて論証を変えたか
を調べる。
3 草稿・書簡・自訳
公刊著作だけでなく、
草稿
訂正
書簡
自訳
講義記録
を比較する。
言語変更の際に、どの区別が追加・削除されたかを見る。
4 制度的対抗仮説
概念境界への注意を作ったのが、多言語性ではなく、
文法学
論理学
修辞学
quaestio
disputatio
神学・法学論争
だった可能性を比較する。
5 翻訳知識ネットワーク
哲学者だけでなく、
翻訳者
注解者
教師
校訂者
出版者
大学
の接続を調べ、どこで訳語が標準化されたかを追う。
6 反証条件
次の事例が多数見つかれば、多言語仮説は弱めなければならない。
複数言語を使用しても概念区分が変わらない
翻訳経路が違っても概念配置がほぼ同一である
単一言語中心の思想環境でも同程度の概念再編が起きる
言語差より討論制度や論理訓練の差の方が説明力を持つ
この場合、多言語性をさらに弱い補助線へ下げ、制度・教育・技術を主軸に据える必要がある。
終章——「目的」は答えではなく入口である
本稿の出発点は、日本語の「目的」を古代へ投影しないことだった。
プラトンは、善、知性、範型、制作、必然性の関係を論じた。
アリストテレスは、telos、hou heneka、形相、現実態、善、欲求、熟慮、選択、ergonを異なる文脈で組み合わせた。
アヴィセンナとアヴェロエスは、ギリシア哲学を運んだだけではなく、原因、完成、自然的傾向、知性の関係を再編した。
アクィナスは、翻訳・注解を経て専門化されたfinisを、善、欲求、意図、摂理、創造秩序へ接続した。
ベーコンとデカルトは、自然研究における特定の最終原因語法を制限し、作用原因による生成機構の探究を独立させた。
スピノザは、causa finalisとして説明されていた現象を、conatus、appetitus、cupiditas、身体と観念の因果関係へ分解した。
ライプニッツは、作用原因と最終原因を、神、最善、十分理由を含む体系で統合した。
カントは、Zweck、Zweckmäßigkeit、Naturzweck、Endzweck、Zweck an sich selbstを分岐させた。
ヘーゲルは、ZweckをMittelと客観性との媒介を通じて実現される運動として論じた。
ダーウィン以後、設計、適応、選択史、現在機能、個体の目標指向性はさらに分離された。
サイバネティクスは、未来状態を作用原因とせずに、設定値、誤差、フィードバックによって目標追跡行動を記述した。
20世紀の機能論争は、「機能」という一語の内部を、因果史、選択効果、体系内寄与へ再分解した。
したがって、西洋哲学史は、
一つの目的概念が、自然から神、人間、制度へ移動した歴史
ではない。
生成、完成、善、欲求、意図、因果、判断、規範、機能、制御をめぐる複数の概念配置が、言語、翻訳、注解、教育、制度、技術を通じて、繰り返し組み替えられた歴史
である。
多言語性は、この組み替えの単独原因ではない。
しかし、言語間の非等価性を職業的・制度的に処理する翻訳知識ネットワークは、普段は透明な概念境界を可視化し、新しい区分と論争単位を形成した可能性がある。
目的をめぐる概念群を検討するときに必要なのは、正しい日本語訳を一語だけ選ぶことではない。
問うべきなのは、
どの語が、どの言語環境で、どの概念と結びついていたか。
その哲学者や知識ネットワークは、何を保持し、何を切断し、何を別の概念へ移したか。
翻訳は何を見えるようにし、何を同一のものに見せたか。
その概念配置は、誰を主体とし、誰を手段とし、何を成功としたか。
である。
日本語の「目的」は、本稿の答えではない。
異なる時代、言語、哲学体系に散在する概念配置へ入るための、現代日本語上の暫定的な入口
なのである。
主要参照文献
古代・中世
Plato, Phaedo, 97b–99c.
Plato, Timaeus.
Aristotle, Physics, Book II.
Aristotle, Metaphysics, Book XII.
Aristotle, Nicomachean Ethics, Books I, III, VI.
Lucretius, De Rerum Natura, Book IV.
Avicenna, The Metaphysics of The Healing.
Averroes, Commentaries on Aristotle.
Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I, q.44; I, q.103; I–II, q.1; q.9; q.12.
近代哲学
Francis Bacon, Novum Organum.
René Descartes, Principles of Philosophy, I.28.
Baruch Spinoza, Ethics, Part I Appendix; Part III, Proposition 9, Scholium; Part IV Preface.
G. W. Leibniz, Discourse on Metaphysics, §22.
Immanuel Kant, Critique of the Power of Judgment, §§64–65.
Immanuel Kant, Groundwork of the Metaphysics of Morals.
G. W. F. Hegel, Science of Logic, “Teleology.”
進化・機能・制御
Charles Darwin, On the Origin of Species.
Arturo Rosenblueth, Norbert Wiener, and Julian Bigelow, “Behavior, Purpose and Teleology,” 1943.
Colin Pittendrigh, “Adaptation, Natural Selection, and Behavior,” 1958.
Larry Wright, “Functions,” 1973.
Christopher Boorse, “Wright on Functions,” 1976.
Robert Cummins, “Functional Analysis,” 1975.
Ruth Garrett Millikan, Language, Thought, and Other Biological Categories, 1984.
Karen Neander, “Functions as Selected Effects,” 1991.
David Wiggins, “Deliberation and Practical Reason,” 1975–76.
Robert Wisnovsky, Avicenna’s Metaphysics in Context および最終原因論関係論文。
石部統久・ChatGPT5.6
査読:ChatGPT5.6・Claude opus4.8・Grok・Gemini(Parcae Protocol)
