ちっぽけなあたしの死を嗤え #02
「しがないリーマンだったのに」
【澤北海樹・28歳】 その1
何週間ぶりの晴天だろうか。
このところ、週末はいつもぐずついた天気だった気がする。
久しぶりに天気予報が『この週末は、行楽日和となりそうです』と伝えるのを聞いた時、澤北海樹は駐輪場で随分と長い間カバーをつけたままになっている愛車の事を頭に思い描いた。
前回アイツに乗れたのは、いつのことだったろう。確実に季節は巡ってしまい、ここ北関東ではもう紅葉シーズンも終わりを迎えている。今年こそ、紅葉狩りツーリングに出掛けようと思っていたのに、結局また実現できなかった。
澤北がこの北関東の地方都市に転勤になって、三年が過ぎようとしていた。
東京で生まれ育った彼は、一浪して取り敢えず名門と呼ばれる中ではギリギリ低ランクの大学に、なんとか滑り込む事ができた。
就職活動の時期には、氷河期はとうに終わったなどと言われていたにもかかわらず、なかなか内定が出ず、何度も心をくじかれそうになった。ようやく決まった就職先は、聞いた事もなかった名前の某食品メーカー。大手食品会社のいわゆる『下請け』だった。
これで自分の生涯は、低下層の人間として終わる事が決まったような気がした。
それでも、東京で暮らしていれば、色々気の紛れる楽しみが多かった。
学生時代の仲間と繰り出す週末の合コン、バイク仲間と出掛けるツーリング。
会社へは実家から通っていたけれど、澤北の両親はまだ二人とも元気に働いて収入を得ていた為、実家に金を入れるなどと言う殊勝な心がけもせず、悠々とした社会人生活を送っていた。
そんな暮らしの終焉を迎える事態になったのは、就職二年目の事だった。
転勤はほぼないと聞いていたのに、その「ほぼ」の内側に組み込まれてしまった。
赴任先は、北関東の更に北部。餃子の街として有名な県庁所在地の宇都宮からは、車で40分ほど離れた工業地帯にある自社工場に併設された事業所だった。
電車もバスも走っていないその周辺は、無機質な巨大な箱の工場がポツリポツリとあるだけで、住居も商店街も皆無。安価で借りられると言われた独身寮は、会社のすぐ近くにはあったが、吹けば飛びそうな安アパートだった。
長年東京暮らしをしてきた澤北にとっては、正直この転勤は『都落ち』のようなものだった。
それでも、少し走れば日光・鬼怒川や、那須などの観光地に気軽に立ち寄れると、期待に胸を膨らませ、澤北は大学時代にバイト代で奮発して購入した愛車、HONDA CBRを新天地に持ち込んだ。
だが、『下請け』の更に『下請け』的な新しい職場での日々は、想像以上に多忙を極めた。
工場は、盆と正月以外は土日祝日関係なく操業しており、それに伴い事業所の業務も変則的で、転勤に伴いほんの少しではあるが新入社員よりは幾分重要なポストを任された澤北は、ほぼ週六で朝から晩まで出勤し、唯一の休みである週の一日は、搾り取られた英気を養う為にむさぼるように睡眠をとる。そんな日常を送っていた。
遠出する気力もなく、バイクは駐輪場で無駄に場所をとっているだけの置物と化していたが、取り敢えずは最低限のメンテナンスだけは施し、いつか思いっきり走りに行こう。そんなささやかな願いを抱いていた。
ささやかな願い。
それさえも、もう三年も叶えられていなかった。
予報通り、快晴の土曜日を迎えた。
その週の月曜日、週間天気予報で週末の予報を見た時には「今週末こそ、バイクに乗ってやろう」と密かに計画していた澤北だったが、週半ばの水曜日、上司から週末の出勤を言い渡された。
本社からのお偉いさん方が、会議と称してここ宇都宮のホテルに集まり、夜は宴会、翌日はゴルフに興じる為に、現地の足として駆り出されるのだ。
「店の手配もよろしく頼むよ。安うまなところでシクヨロ」
軽いノリで頼んでくる上司の言葉に『何がシクヨロだよ。寒すぎンだよおめぇはいつも』と、心の中で毒づきながらも、
「了解っす! この澤北にお任せ下さい!」
ハイテンションで了解した。
有能ぶりを見せつけて、早く本社に戻してほしかった。
この街の中途半端な感じが嫌いだった。田舎のくせに都会ぶったような、地方都市特有のやぼったさが嫌いだった。
土曜日当日、夜の宴会に備えて、澤北は電車を使って宇都宮駅に降り立った。
駅構内で朝食代わりにかけそばをすすり、パソコンと資料が入った重い鞄を抱えて、会場である駅近くのホテルを目指した。
新幹線で本社の人間がやってくるまでに、借りた研修室を会議用にセッティングしなくてはならない。昼の弁当とお茶の手配の確認もだ。
東京の本社だったら、女子社員に任せてしまうような作業も、全部澤北がやらねばならなかったのだ。
(空はこんなに青いのに、俺の心は薄曇り)
思わずそんなポエムを詠んでしまいたいほどに、澤北の心は淀んでいた。
(終電までに宴会をお開きにして、お偉いさんをホテルに送って、アパートに帰ったら、明日は早朝から社用車で迎えに上がって、那州のゴルフ場か……)
今日明日のスケジュールを確認し直すと、更に気持ちは落ち込んだ。
「今どき、接待ゴルフとかまだあるんだ」
外資系の会社に勤務する、東京の友人に古代生物でも見つけたかのように驚かれた事があった。
接待ゴルフも、全員強制参加の社員旅行も、一発芸必須の忘年会もあると伝えると心底同情され、まるで澤北自身が「古い奴」だと見られているような気がしたのを思い出した。
長い週末になりそうな予感に、自然と足取りは重くなった。
駅からホテルまでの道のりは、車通りの多い表通りではなく、一本奥の裏通りを選んだ。
この道の方が駅からの直線距離が短いし、ホテルの駐車場側の出口から入れるので、会場の研修室にも辿りつきやすいからだった。
裏通りを入って少し行くと、懐かしい看板が掲げられたビルが左手にある。
『CHPゼミナール』。
全国展開しているこの予備校は、浪人時代の澤北が東京で通っていた予備校でもあり、どうやらここが宇都宮校らしい。
雑居ビルの3フロアも占めている様子を見ると、なかなかの規模の教室の様だった。
予備校時代を遥か遠い昔に感じるのは、六年前という年月の長さよりも、「学生」と「社会人」という立場の違いの大きさを、痛感しているからだろうと澤北は思った。
辛かった浪人時代にも、レポートや課題に追われた大学時代にも「期限」というものがあった。終わりがあると知っていたからこそ、乗り切れた。
しかし「仕事」は違う。稼がなきゃ生きていけない。少なくとも、定年までのあと三十年以上を、宝くじで六億当てるか油田でも掘り当てない限り、働いていかなくてはならないのだ。
ガラス戸の入口の『CHPゼミナール』は、受付らしき場所は確認できるものの、プライバシーの保護の為か、それとも生徒に授業に集中させる為にか、中で勉学に励むであろう学生の姿は見えないようになっていた。
(どんなに頑張ったって、お前らのうちほとんどが社蓄の道を歩むようになるんだよ、俺と同じに……)
卑屈な感情が顔に表れた、疲れた顔のサラリーマンが予備校のガラス戸に映っていた。
(……痩せたな)
肩の落ちたスーツを着た自分の姿に、澤北は思わず足を止めた。
大学時代はサークルに入って、仲間とバスケやフットサル、ボルダリングなどで定期的に汗を流し、それなりのスタイルを保っていたのに、今じゃすっかり筋肉も落ち、痩せて姿勢も悪く、随分と貧相な身体つきになってしまっていた。
着ているスーツも、就職が決まった際に紳士服の量販店で購入した物なので、だいぶ年季が入っている。新しく買い替えられないほど、金銭に困っているワケではなかったが、あまり気合を入れてビシっと決めるつもりがそもそもなかった。
本社と比べ、スーツの流行を気にする若い社員もいなかったし、「東京に自宅がある独身二十代男子」がやって来たと、目の色を変えて澤北に猛アピールを繰り返す、女子社員の多さにも辟易していたので、会社では殊更目立たないでいる為に、わざと職場で古いスーツを着続けていたのだ。
(『大学合格』っていう目標があったあの頃の方が、よっぽどマシな暮らしだったかもな)
予備校で学ぶ、学生たちまで羨む自分に深くため息をついて、澤北は重くなってしまった足を動かした。
(仕事、行きたくねぇなぁ。隕石とかミサイルとか落ちてきて、全部ぶっ壊してくれねぇかなぁ)
思考が物騒になってきていた。相当疲れてんなと、澤北は自分自身に苦笑した。
―― と、
鈍い衝撃音が背後から響いた。
たった今思い描いた隕石が、まさか本当に落ちてきたのか? それとも不発弾か? 澤北は肩から掛けた鞄を掲げて、頭を護るようにして周囲を見回す。
人通りは、あまり多くない裏道である。それでも歩行者はみな、突然の異音に歩みを止めていた。
荷台に幼児用の座席を取り付けた自転車に乗った主婦らしき女性、小型犬を連れた散歩中とおぼしき初老の男性、澤北と同世代程度に見える、若いと呼ぶにはギリギリのラインの女性、目の前の予備校に通っている生徒だろうか、まだ顔に幼さの残る中学生くらいの少年。
男性が連れている犬が、異変に怯えたのかキャンキャンと吠え続けてる以外は、まるでストップモーションをかけられたように、皆一様にその場に立ち尽くしている。
その中で、咄嗟に鞄で頭を護っていたのは澤北ひとりだけだった。
大げさすぎたかと、気恥ずかしさが湧きあがり慌てて鞄を下ろした澤北は、周囲の人々の中で同年代らしき女性だけが、驚愕の表情で、ある一点を見つめている事に気がついた。
鮮やかなオレンジ色のキャリーケースを手にしているその女性は、予備校のビルと、隣接した閉店してしまったのか、シャッターが閉ざされた貴金属店のビルとの間の細い通路に視線が釘付けになっている。彼女の視線の先に、いったい何があると言うのか。
そこへ、予備校の自動ドアが開き、職員か講師だろうか、スーツ姿の男女が深刻な顔つきで現れた。先ほどの異音は、当然ビル内にも聞こえたのだろう。自ビルに何か異常事態が起きたのではないかと、慌てて飛び出してきたと見える。
二人はまず建物の入り口周辺を確認した後に、二、三言《さんこと》言葉を交わすと、次は隣りのビルに接した小道へと向かって姿を消した。
「うわぁぁぁぁぁっ」
最初に声をあげたのは男の方だった。ただごととは思えない程に、動揺している。
「藤堂君! 何してるの!! 早く救急車をっ!!」
女性の、刺すような大きな声が続く。
「……は、はい、えと、えぇっと」
「携帯! あるでしょ!? さっきまでいじっていたじゃないの!」
「あ、そうか、そ、そうですね、はい」
小道から出てきた若い男は、震える手でスマホを操っている。
「えぇと……、救急車……、救急車って……」
「貸して!」
もたつく男の様子に業を煮やしたのか、女性が男の手からスマホを奪い取った。
「すみません! 救急車、救急車をお願いします! 怪我人です! 大至急で! はい、はい、住所は…… 」
早口でスマホに向かってまくし立てる女性の声を遠くに聞きながら、澤北はゆっくりともと来た道を戻り始めた。
この先の道を曲がれば、救急車を呼ばねばならないほどの怪我人がそこにいる。助けてあげなければ、手を貸してあげなければという感情よりも、誰かがそこで負傷している、その現場をこの目で見たいという欲求が、澤北の足を動かしていた。
ビルとビルの間、その幅約三メートルほどの小路は、建物の影が落とされ澤北がいる場所より薄暗かった。その色調の落ちた空間で、地面に何か白く細長い物が横たわっている。
(なんだ? あれ……)
近ごろめっぽう視力が低下した澤北は、デスク仕事の際には眼鏡が手放せなくなっていた。でも顔周りに違和感が出るので、普段使いはしておらず、安価なフレームとレンズでオーダーした自分の眼鏡は鞄の奥底にしまわれている。ピントを合わせる為に、目を細めて白い物体に焦点を合わせる。
(……靴?)
白い物体の先端には革靴らしき靴が履かされている。瞬きもせずに見つめていた為、眼球が乾いてきた。瞬きをひとつして、もう一度澤北は目を凝らす。
(……っ!!)
人だ。
倒れているのは人だ。革靴を履いた白い物体は、投げ出された二本の脚だ。白いハイソックスと、白い腿。それが、暗がりで浮かびあがった白色の正体だった。
あれが救急車を必要とする怪我人か? でもピクリとも動かないではないか。それにあの衝撃音。あの激しい音と、今あそこに倒れている怪我人とを結び付けて考えれば、自ずと答えは出てくるのではないのか。
彼女はこのビルから飛び降りたのだ。
見上げたビルの縦に並ぶ窓を、瞬時に数える。七階。七階建てのビルの高さは、いったいどのくらいなのだろう。あの高さからアスファルトの地面に叩きつけられて、果たして救急車を呼んで助かるような状態なのか?
澤北は手探りで鞄を開け、底からケースを取り出して、プラスチック製フレームの眼鏡を耳に掛けた。視界が一気にクリアになる。
「申し訳ないんですけど、今大切な模試の最中なんですよ。生徒たちが動揺しないように、サイレンは鳴らさないで来てもらえますか」
119番の緊急コールに、予備校スタッフの女性が無茶なお願いをしている声が聞こえる。
なるほど、既にもう動かない生徒よりも、校舎の中のこれからも大金を落とし続けるであろう生きている生徒たちの方が大事だと言う事か。随分と素早く計算ができる女性だと感心するが、澤北の視線は当の女性ではなく倒れている人物の身体から離れることはなかった。
―― 生きている生徒。
そう脳内で判断したことで、澤北は自分が既に横たわって微動だにしないあの人物が、もはや既に『死んでいる生徒』だと認識していることを悟った。
白い双脚を生やした乱れた深緑のチェックのスカート、投げ出された腕が見える上半身は紺色のブレザーを身につけている。きっと、あれはどこかの学校の制服だろう。やけに艶めかしい太ももや、仰向けになっているにもかかわらず、美しい半球をとどめている豊かな胸。少女から大人へと変わっていく段階。恐らく女子高生だろう。
ゴクリ。
自身が生唾を飲み込んだ音が、澤北の鼓膜に響いた。
ドッ、ドッ、ドッ。
続けて、激しく脈打つ胸の鼓動も。
無意識のうちに、ゆっくりと澤北は左に移動した。顔が見たい、彼女の顔が見たい。どんな表情で、彼女はこの冷たいアスファルトに四肢を投げ出しているのか、この目で確かめたい。感情は後からついてきた。
「藤堂君! なんでもいいから隠せる物を持ってきて!」
「えっ!? あ、は、はい! で、でも隠せる物って?」
「膝かけでも段ボールでもいいから早く! それと手の空いているスタッフ、全員呼んで! 静かに、穏便によ!!」
「はい!!」
計算が早い女性スタッフが、自分のジャケットを脱いで女子高生の露わになった太ももを隠すように覆った。そして澤北がいる道路から少女を隠すようにしゃがんで、彼女に「がんばって」とか「しっかりして」などと声をかけ続けている。
(無駄な事を……)
恐らくあの声かけも、女性スタッフの「私は優秀な人物」という思い込みから動いているだけの事だ。あんな事をしたって、倒れている少女の耳にはもう届く事はないだろう。
澤北が、少女の全身を視界に捉える事ができたのは、時間にしてわずか数十秒。
でもそれは澤北にとって、永遠にも等しい時間だった。
けたたましいサイレンの音に、弾かれたように我に返った。
救急車が到着する。女性スタッフの願いを空しく吹き飛ばしながら。
「ちっ」
彼女が歯茎をむき出しにして舌打ちをした、意外な姿を見届けてから、澤北は目的地である上司と落ち合うはずのホテルへと向かった。
約束の時間は、十五分も過ぎていた。
「澤北君、ちょっと澤北君!」
「は、はい。何でしょう。ご質問ですか?」
夏でもないのに、額から噴き出す汗をシワだらけのハンカチで拭きつつ、澤北の上司・高山が小声で告げてきた。
「違う違う。また画像が出ていないよ。画面真っ白。しっかりしてよ、ホントもう」
「え? あ、ホントだ。す、すみません、ちょっとお待ちください」
高山が本社社員を前にして読み上げる会議の資料に合わせ、プロジェクターで該当するグラフや画像をスクリーンに映していく。そんな簡単な作業にもかかわらず、澤北は会議が始まって、もう既に三回も同じミスを繰り返していた。
会議室に充満する冷やかな空気に焦りを感じながら、PCを操作して次の画像を選んでEnterキーを押す。正面に掲げられた白いスクリーンに、来夏に発売予定の新商品の開発に関する、分かりやすく図面化されたスケジュールが投影される。
高山の概要説明の声を遠くに聞きながら、澤北はスクリーンの上にその場にいる者たちとは全く違う物を見出していた。
スクリーンの白。
その白さに、気が付くと重ねていた。あの少女の、むき出しにさらされた脚を。まばたきもせず、ただ空を見つめていた顔を。
いけない。仕事に集中しなければと、頭を振って少女の映像を思考から追い出そうとするが、まぶたから離れることのないそれは、気を抜くと澤北の脳内全てを支配しようとしてくる。
「澤北君!!」
高山のひときわ大きな声が響いた。
四回目のミス。本社の人間たちが向けてくる、蔑みの視線。「使えない社員」の烙印が押された瞬間。
暑くもないのにイヤな汗が、澤北の背中をつつと流れた。
「すみません。どうも朝から気分がすぐれなくて」
会議終わりに、澤北はすかさず高山に駆け寄り、頭を下げた。
「そうなの? もう、そういう事なら早く言っといてよ。恥かくのはこっちなんだからさ」
額を忙しく拭いながら、声を裏返らせて高山は言う。
「すみません」
重みの感じられない謝罪の言葉が、機械的に口から生まれていく。
仕事のミスを挽回する為に頭を使う余裕は、今の澤北にはなかった。
あの少女の身体は、今どこに『ある』のだろう。救急病院か? 家族は駆けつけたのだろうか? テレビや映画でよく見る、霊安室に横たえられた、動かない娘の身体に泣きつく母親、肩を震わせる父親の姿を想像する。あんな光景が、今どこかで繰り広げられているのだろうか。
それとも奇跡的に彼女は、一命を取り留めたのではないか。
そんな思考ばかりが、澤北の頭を巡っていた。
(一命をって……、それは、ないよな)
脳裏に焼き付いているのは、動かぬ肉塊となった少女の身体だ。光を宿さない瞳だ。
(生きている、ワケがない)
自分自身に言い聞かせてみるが、澤北は確信が欲しかった。確かなる事実が。
彼が目撃した物が「死体」であったという証明が。
「すみません。ちょっとトイレに……」
偽の腹痛を訴え、高山から逃げるようにして澤北は男子トイレの個室に入った。
スマホを取り出し、SNSサイトにアクセスすると、答えを見つける為の検索ワードを打ち込んだ。
『女子高生』『自殺』『飛び降り』『CHPゼミナール』『宇都宮』『JK』『救急車』
思いつく単語を並べ、組み合わせ、関連していそうなつぶやきをネットの海から釣りあげる。
『なんかCHPの前に、救急車きてる』
『宇都宮、駅近のビル、飛び降りあったっぽい』
『CHPの予備校生、受験を苦にして自殺か?』
それらしき物は何件か見つかったが、どれも澤北が一番知りたい彼女の生死に関しては言及されていなかった。
煮え切らない気持ちのまま、高山の元に戻ると
「澤北君、今日はもう帰っていいよ」
汗をふきふきそう言われた。
「え?」
「下柳を呼び出したから。ゆっくり休んで、明日はしっかりシクヨロで頼むよ」
シクヨロ上司が、澤北の後輩社員の名前を告げる。下柳は高卒入社で澤北より五歳ほど若いのに既に妻子持ちの男だが、酒の席となれば喜んで飛んでくる。だから夜の宴会要員の呼び出しにも、喜んで応じたのだろう。
お役御免の声に、浮き立つ気持ちが顔に出てしまいそうになるのを何とかこらえた。普段の澤北なら、下柳に手柄を取られるなんて許しがたい屈辱だったが、今は手を合わせて拝みたいほどありがたかった。
「すみません。ではお言葉に甘えて」
飛び出すようにホテルを出た。
澤北が真っ直ぐに向かった先は、CHPゼミナールの現場だった。
少女が倒れていた建物と建物の間の小路には、どこから用意してきたのか二つの三角コーンに黄色と黒のバーが橋渡され、立ち入れないようになっていた。簡単にまたげそうな代物ではあったが、予備校の中からチラチラとこちらを監視する職員の視線が気になって、澤北はゆっくりその場を見学する事ができなかった。
花束か何かがたむけられているかとも思ったが、その場には何もなかった。予備校と言う場所柄、あまり生徒を刺激するような事は好ましくないからだろうか。それともやはり、彼女は一命を取り留めたのか。
通りすがりを装いながらも、目を皿の様にして現場を眺めた澤北は、アスファルトを色濃く染めているシミの様な広がりを確認した。もしやあれは彼女の体内から流れた血がつけた跡なのではないかと考えると、興奮を抑える事が出来なかった。
人間はどれだけの量の血を流せば、死に至るのか。
飛び降り自殺を図った人の、死因のトップはなんなのだろう。内臓破裂による失血か? 全身打撲によるショック死か? 頭を強打した場合は脳の損傷も考えられる。果たして、あのシミを作った流血の量で、彼女は本当に死に至ったのか?
可能ならば、予備校の受付に駆け込んで、飛び降りた少女の生死を問い詰めたい。関係者でもない澤北に、真実を伝えてくれるはずはもちろん一ミリもないが。
それでも、いつまでもここに立ち止まっているワケにはいかない。
日が暮れる頃になれば、宴会に繰り出す予定の会社の人間たちと鉢合わせしてしまう可能性もある。
諦めて、澤北がその場から立ち去ろうとした時、
「あの……」
背後から、声を掛けられた。振り向くと、リュックを背負ったひょろりとした少年が、澤北の顔を窺うようにして立っている。
「……朝、ここにいた人ですよね?」
「え? あぁ、はい。そうだけど……」
『朝』が示すものに、澤北は反応する。記憶のフィルムが巻き戻り、目の前の少年が自分と同じく、あの現場にいた人物であることを確信した。
「……君、確か君も……」
小さく、でもしっかりと少年は頷く。
「いました。僕も、あの場に」
「じゃ、じゃあ君も見ていたよね? あの子、救急車で運ばれたあと、どうなったのか心配でさ。ねぇ君、何か知ってる?」
「運ばれませんでしたよ」
顔色も変えず返された少年の言葉に、澤北は驚く。
「え? でも来たよね? 救急車。ここの職員の人かなんかが呼んで」
予備校の入口を指差す。救急車は確かに来たはずだ。それを確認してから、澤北はこの場を立ち去ったのだから。
「ええ、来ましたよ。でもあの人は運ばれませんでした」
「えぇと、それはどういう意味かな?」
「知りませんか? 救急車は、明らかに対象者の死亡が確認できる場合は、搬送できないんですよ」
馬鹿にした風でもなく、ただ淡々と少年は言う。明らかに年下の人物にそう説かれても、気分を害するよりついに「少女の死」を確信できた事に、澤北は不謹慎にも密かに喜びを感じていた。
「……そうか。亡くなってしまったんだね、彼女。それは残念だね」
興奮を隠すように哀しむ自分を演じ、辛そうな顔で少年に告げる。
「事件性も考慮されたんでしょうね。随分と長い時間をかけて現場検証したあと、警察車両で運ばれて行きましたよ。検死とか解剖とかになるんですかね。あんま詳しくないけど」
いや充分すぎるほど詳しいだろと、澤北は思ったが、やけに饒舌な少年の様子に、彼も尋常じゃない経験をした事によって興奮状態にあるのではと考えた。
「そうか。そうなんだね。詳しくありがとう。それじゃ」
軽く手をあげて、その場を去った。
(なるほど。他殺の可能性もあるのか。誰かに突き落とされたという事か)
そうなればもう「殺人事件」だ。
それは極めて重要な事であるのに、澤北にはさほど大切な事には思えなかった。
彼にとって最も肝心なことは、「自分が目撃したのは、少女の”遺体”だった」という事実だけだった。
初めて”それ”を見て、衝撃を受けた日を思い出す。
あれはまだ澤北が小学生の頃だった。母方の祖母が乳癌で他界した。
母を二十歳の時に産んだ祖母は、まだ還暦にも満たない若さで逝ってしまった。世田谷生まれ世田谷育ちのお嬢様だった彼女は、子どもだった澤北が見ても美しい女性で、本人もしっかりそれを自覚しており、孫である澤北にも「おばあちゃん」ではなく「美智子さん」と名前で呼ばせていた。
クリスチャンだった祖母の葬儀は、近隣の教会で執り行われた。
「美智子さんに、さよならしようね」
母親の後ろを歩き、祖母が好きだったという白い百合の花を、棺の中に横たわる祖母にたむけた。
その瞬間こそが、澤北が初めて体感した「死」だった。
眠るように目を閉じて動かない祖母。
「美智子さん、起きて」
と、澤北が声をかければ、目を開けて微笑むのではないかと思うほど、いつもと変わらない祖母の姿。
でもその身体に、もはや魂は宿っていないのだ。
澤北少年には、祖母の骸は、生きていた時よりも美しく感じられた。
例えば夏の日に、公園の樹木に見つけた蝉の抜け殻のように。遠足で登った山中で目撃した脱皮した蛇の皮のように。家族で泊まった温泉旅館に飾られていた、立派な熊の剥製のように。
かつて命を宿し、そして失った残骸。
瞬きもせずに、棺の前で立ち尽くす澤北の姿に、親族はみな「この少年は初めて体験した『肉親の死』に、動けない程の哀しみを感じている」のだろうと胸を打たれた。
まさか少年が、初めて肉眼で「死体」を見たことで興奮が頂点に達し、打ち震え、身動きも取れなくなっていたとは、誰も思わなかっただろう。
澤北少年は欲した。
もっともっと、「死体」が見たいと。
今でこそインターネットの普及で、小学生でも検索機能を駆使すれば、簡単にその手の画像を見つける事が出来るだろう。
だが、二十年前の澤北少年にはその手段はなかった。ゆえに彼は、漫画や報道写真集の中から「それ」らを探し出し、目に焼き付けた。でも、紙に印刷された平面の「それ」は、彼の欲望を満足させるに足る物ではなかった。
「それ」を見る事ができると信じて、同級生のほとんど顔を合わせた事のないような親や祖父母の葬式にまで足を運んだが、棺の中身と対面できるのはごく親しい人物だけだと知り肩を落として帰った事も度々あった。
「死体を見たい」という澤北少年の願望は、満たされることのないまま成長につれて薄れていった。水泳を習い始めたり、サッカーチームに入ったり、普通の子供たちと同じように、身体を動かしていれば、そういった感情は抑えられていたのかもしれない。
なのに、今日、締め付けられていた”たが”が外れた。
あの少女の「死体」を目撃した瞬間から。
独身寮のアパートでパイプベッドに潜り込み、澤北は目を閉じ神経を集中して、今朝見た光景の細部を思い出しながら、自慰に耽った。
それは澤北にとって、未だかつてないほどに満たされた時間だった。
