長尾政景の死没地に関する調査研究ノート(1)
はじめに
長尾政景(ながおまさかげ)は、上田長尾氏の当主で越後国上田荘(現在の新潟県南魚沼市付近)坂戸城主である。また、豊臣政権下で五大老の一角を務め、米沢藩初代藩主となった上杉景勝(うえすぎかげかつ)の実父としても知られている。
長尾政景の死については、永禄7年(1564年)7月、避暑のため舟遊びをしていた最中に溺死したとする説が広く知られている。しかし、その死没地については一次史料に乏しく、諸説あって現在でも定説はないといえる。
結論から言えば、具体的な場所の特定は困難であるが、現在まで様々な場所が史料ないし資料で伝わっている。それらがどのような形で現代まで残り、研究者や郷土史家の諸説の根拠として利用されてきたのかを整理し、その過程でより正確な位置・場所の比定に寄与できれば幸いである。
本稿は、特定の説を提唱することを目的とするものではなく、調査過程を記録する研究ノートの第一回である。
1 長尾政景死没地をめぐる諸説
長尾政景の死没地について主な説として、次のようなものがある。
(1)信州野尻湖説
長野県上水内郡信濃町野尻湖とする説。
芙蓉湖(ふようこ)とも呼ばれ、現在はナウマンゾウの化石や旧石器時代の遺物が出土する湖としても知られている。
江戸時代に記された軍記物などは、死没地を信州として記述している場合が多い。(「北越太平記」「太祖一代軍記」「北越耆談」など)
(2)谷後(やご)説
現在の新潟県南魚沼郡湯沢町土樽付近の野尻池とする説。(布施秀治『上杉謙信伝』1917年 )
この説を提唱した布施氏は著書で次のように述べている。
上田郷土樽村谷後(やご)の野尻池なり。現に同村字瀧之又地内に野尻と称する約二町余の原野あり、之に接続して古池あり。今、芳ノ澤の池と呼べり。口碑には数十年前、山崩れの為に右の池殆ど埋没し、現今は僅に其形を存するのみ。
現在も、同様に形を残してその名前で呼ばれているかは不明。
この説は、軍記物などの史料にある「野尻」という地名が一致することを根拠としているが、坂戸城から直線距離だけでも約15km離れており、避暑のためにわざわざ赴くとは考えにくい。

後年に刊行された地元の土樽村の郷土史でも次のように述べられている。
滝之又の野尻池説は、地形上から判断しても往昔、池や沼があったとは考えられない。ただ野尻という地名があったので、明治四十四年頃の調査の際に南雲喜之七老が述べた假説であるという。(滝之又故南雲九郎治談)
このように、地元ですら「地名の一致に基づくただの仮説」といった否定的な見方をしており、他に根拠となりうる条件(史料・地形・伝承など)もないことから、さらなる調査実施の必要性は低い。
(3)東泉田(ひがしいずみだ)説
現在の新潟県南魚沼市東泉田付近とする説。(南魚沼郡教育会『南魚沼郡誌』1920年)
『南魚沼郡誌』では信州説を「謬れり」、土樽説を「証左なし」と断じたうえで、古老の伝説として次のように紹介している。
東泉田寺が鼻にある辨天池(又大池という)なりといへり 池は今は水浅せたれど往昔大なりしといへば或いは然らんか。
こちらも池が現存しているかは不明。
地形図や現地を見る限り池は見当たらない。
また、「西泉田・東泉田・大月・雲洞の間に囲まれた一帯の湿田」(松谷時太郞「長尾政景の死と野尻の池(下)」『高志路第一巻第九号』1935年)とする説もあるが、具体的な位置ではなく、地形的な条件を示しているにとどまるため、合わせて東泉田説として取り扱うものとする。


(4)銭淵(ぜにぶち)説
現在の新潟県南魚沼市坂戸の銭淵とする説。(大嶋要三「長尾政景の死を窺く」『郷土史編さん誌 みなみうおぬま 第六号』2009年)
これは地元の郷土史家の説で、地元の観光看板などにはこの説が用いられている。
銭淵とは、魚野川(現在は一級河川)の本流が坂戸山の山裾にぶつかるところに形成された淵(水深が深く流れが緩やかな場所を指す河川用語)の呼び名である。現在は、平成8年(1996年)の河川改修によって本流から切り離され、銭淵公園内の池として部分的に形を残している。
なお、(3)の東泉田と(4)の銭淵はいずれも坂戸城下に位置している。
避暑のために舟遊びをしていたのだから、居城に近い方が自然であるが、現在坂戸城周辺に「野尻」(後述する「野田尻」含む)という地名が一切残っていないことも、説が乱立する要因となっている。


2 上杉家御年譜における記述
長尾政景の死没地について、初代藩主の実父であるにもかかわらず、米沢藩の正史でも史料によって不一致がみられる。

「謙信公御書集」
長尾政景が溺死する前の状況について、次のように記してる。
于信州野尻砦番鎮、厭信州為 消失残暑、干野尻湖水浮一舟尽日有遊宴
「野尻湖」で船を浮かべて遊宴をしていたところ、溺死してしまうわけだが、「于信州野尻砦番鎮」とあるように信州の野尻湖であるとしている。
「謙信公御書集」を収録している東京大学文学部蔵/山田邦明解説『謙信公御書集』1999年には、本史料に関する山田邦明氏の論文が掲載されており、黒田日出夫氏の説を紹介する形で次のように記述されている。
「謙信公御書集」が『上杉年譜』の「謙信公御年譜」(元禄九年完成)と比べて収録文書も多く、内容的にも稿本的性格が明瞭であることから、『上杉年譜』に先行する編纂物ではないかという見通しを提示されたのである。
では次に「謙信公御年譜」の記述を見てみる。
「謙信公御年譜」
政景殘暑ヲ消󠄁セン爲、野尻カ池ニ舟ヲ浮󠄁ヘ、終󠄁日遊宴アリ
場所について「野尻カ池」としており、「謙信公御書集」の「野尻湖」と比較すると「湖」から「池」変わっている。また、信州であるという部分が完全に抜けており、「池」の所在する地域が特定できなくなっている。
最後に「景勝公御年譜」の記述を確認してみる。
「景勝公御年譜」
上田野尻ノ池ニテ残暑ヲ除ンタメニ舟遊ヲ催サレ溺死シ玉フ
「景勝公御年譜」では場所を「上田野尻ノ池」としている。ここで注目したいのは、「上田」(現在の新潟南魚沼市)の地名が新たに付け加えられている点である。これは信州(現在の長野県)としていた「謙信公御書集」とは全く場所が異なるのである。
「謙信公御年譜」は1696年に完成、「景勝公御年譜」は1703年に完成しており、上杉家内部の編纂過程で変更されたものと考えられるが、この「上田」を追加するという変更が、長尾政景を実父とする初代藩主上杉景勝の公御書編纂過程で行われたということは興味深い点であり、その経緯の確認は今後の検討課題としたい。
なお、『景勝公御年譜』に対しての稿本的位置づけの史料と考えられる『覚上公御書集』には長尾政景の死に関する記述は見られなかった。
3 銭淵説の根拠
「古城徴考」

銭淵説の根拠として大嶋氏は「古城徴考」(音読みの場合「コジョウチョウコウ」か)という史料を採用している。この史料は、入廣瀬村教育委員会『越後入廣瀬村編年史(中世編)』1979年に翻刻されたものが掲載されている。
「古城徴考」には「錢淵」という地名の由来を紹介する形で、長尾政景に関して次のように記されている。
「古城徴考」
錢淵
魚沼郡上田之庄坂戶古城の山麓に在 昔時ハ野田尻之淵と云 永祿年中の夏、政景公妻有の下平 修理と鮎の川狩を興行して船中に酒宴す 如何なる故に哉 爭論に及び相對して御死去せし所󠄁なり 政景公の從士少しく御供死せり 今御家中の國分賣間の先祖なりと傅 政景公ハ龍言寺に、修理ハ妻有の長福寺に葬る 其後水荒れて淵に怪異なる事ともあり 兩寺此所󠄁に大般若を執行す 里人の男女群集して淵に六道錢を奉賽す 例年七月此事あり 景勝公御國替迄續く 今に及んで淺瀬に錢出る 仍里人錢淵と稱す 龍言寺ハ上田より移來て御城下に在 長福寺ハ越後の妻有に在 御家中の今井ハ修理か裔なり。
長尾政景が「野田尻之淵」で死亡し、淵で怪異が起こったため、供養のため六道錢を奉賽したところ、後年になって浅瀬に銭が出るようになったことが「錢淵」の由来であるという内容である。
軍記物や御年譜等の記述と類似する点がある一方で、「里人」つまり「地元の人」がどのように呼んでいるかなど、現地で聞取調査をしたかのような情報が記されている点が興味深い。
また、谷後説や東泉田説と異なって、「野尻」という地名だけの一致や言い伝えではなく、史料を根拠とした説である点は、一線を画している。
だからこそ、史料批判(歴史学を研究する上で史料を用いる際、様々な面からその正当性、妥当性を検討すること)を十分に行う必要がある。
しかし、この「古城徴考」は私が確認できている範囲で、
著者不明
成立年代不明
原本所在不明
となっている。
ただ、成立年代については、ある程度指標となる内容が記されている。
一つ目は、次の部分である。
景勝公御國替迄續く
上杉景勝の越後から会津への国替えは上杉景勝宛て豊臣秀吉朱印状により慶長3年(1598年)であると確認できる。
そのため、少なくとも「古城徴考」はそれ以降に成立した史料であるといえる。
二つ目は、次の部分である。
魚沼郡上田之庄坂戶古城の山麓に在
このように、坂戸城のことを「古城」と表現している。
坂戸城は慶長15年(1610年)に堀直寄が信濃国飯山に移されたのち、廃城となっている。(南魚沼市教育委員会『六日町史 通史編 第1巻』2019年)
城主がいたり、廃城になって間もない城を「古城」と表現することも不自然であることから、「古城徴考」の成立は1610年より、ある程度年月が経ってからの時期の可能性が高い。
三つ目は、次の部分である。
政景公の從士少しく御供死せり 今御家中の國分賣間の先祖なりと傅
この「先祖」が政景と「御供死」したと伝わる「御家中」の「國分」と「賣間」なるの人物の比定ができれば、これらの人物が上杉家に仕えた年以降に「古城徴考」が記されたということがわかる。
「御供死」した「御家中の國分賣間の先祖」については、米沢藩三手組(御馬廻組・五十騎組・与板組)の各家臣が提出した先祖の由緒書をまとめ、延宝5年(1677年)に成立した「先祖由緒帳」で確認できる。
国分次右衛門
(中略)
胤広嫡子彦五郎は、 政景様於野尻之池ニ御生害之御時、胤吉御 劔之御側ニ持罷有死去仕候
(後略)
売間甚五左衛門
(中略)
鉄上野弟又次郎名跡被 仰付、政景様野尻之地ニ而御生害之刻、従 謙信様御供被仰付、御同舩ニ乗申御入水之節 又次郎御介船罷出候得共不叶、政景様御同前ニ 入水相果候
(後略)
では、この「国分次右衛門」と「売間甚五左衛門」が「御家中の國分賣間」なのかというと、そうとは限らない。
ただ、「御家中の國分賣間の先祖なりと傅」というように、わざわざ両名を挙げて「先祖であると伝わっている」というからには、それが1677年に成立した「先祖由緒帳」で伝わったという考え方もできる。その場合は、「古城徴考」の成立は長尾政景の死亡から約100年以上経過していることになる。
また、それよりもさらに後の史料で伝わっている場合もある。
それは「国分威胤見聞録」によるものである。
「国分威胤見聞録」
御同船󠄁にて死せし國分彥五郎か母、其夫新左衞門と上野國にありしか、六月下旬、墓參を心懸て、上田に 來り、彥五郎か宅に居たりしに、七月五日、野尻の池にて喧嘩ありて、彥五郎御供死せしと聞き、彥五郎か弟同年に生れて、此時共に九才なりたる左馬介正胤・次郎右衞門胤成を左右に連て、死體の迎󠄁に出、漸待受、走寄て聞きしに、彥五郎にあらて、政景公の御死體なりしかハ、急󠄁に仕廻たりしに、御肩の下に疵あり云々、此婦󠄁人米澤迄來り、寛永十二年八月九日死去 、關興庵に葬る
このように「国分威胤」が、上田の野尻の池で「(国分)彥五郎」は「(長尾)政景公」と「御供死せし」と見聞録に記している。
それぞれの史料の表現をみると「古城徴考」と「国分威胤見聞録」では、「御供死」という部分で一致が見られる。
このような表現は「先祖由緒帳」には全くないものである。
改めて、それぞれの表現を並べて比較してみる。
政景公の從士少しく御供死せり
野尻の池にて喧嘩ありて、彥五郎御供死せし
政景様野尻の池に於いて御生害の御時、胤吉御剣を御側に持ち罷り有り、死去仕り候
政景様御同前に入水し相果て候
ここからわかることは、「古城徴考」を記す際に「国分威胤見聞録」を参考としている可能性があるということである。
では、「国分威胤」とはいつの時代の人物なのか。
米沢藩士。天明5年(1788年)に家督し五十騎組。町奉行を勤める。
このことから、「国分威胤見聞録」の影響を受けたとすれば、「古城徴考」が1788年以降つまり長尾政景の死亡から約200年後以降に記された史料という見方もできる。

ここで、注意しなければならないのは、「古城徴考」の成立年代が仮に1788年だったとして、そこからわかることは、
「長尾政景の死亡から約200年後の坂戸周辺住民は、長尾政景の死没地を銭淵であると認識していた可能性がある。」
ということであって、
「長尾政景の死没地が銭淵である。」
ということではない。
4 古城徴考の追跡
これまでの調査状況
「古城徴考」は『広神村史』『小出町史』など現在の旧入広瀬村を含む現在の魚沼市の自治体史でわずかに引用されていることは確認できる。
『広神村史』では「江戸時代に書かれた『古城徴考』」などと記載しているが、何を頼りに江戸時代としたのか全く述べられていない。
そこで、私はこれまでに次の公的機関に「古城徴考」に関する情報がないか問い合わせをした。
新潟県立文書館(レファレンスサービス)
新潟県立図書館(レファレンスサービス)
新潟県立歴史博物館(中世史 専門研究員)
南魚沼市(社会教育課)
魚沼市(生涯学習課)
市立米沢図書館(レファレンスサービス)
しかし、いずれも「調査したが情報がない」または「わからない」といった回答であった。
(新潟県立文書館の担当者からは、このnoteの記事を見てもらった上で、「古城徴考」の成立を近世後期から近代と仮定した場合、「古城徴考」の読み方が「ふるきのしろのしるしのこう」や「いにしへのー」といった訓読みの可能性もあるのではないか(当時の国学者による著作と考えた場合、表題に漢語よりも和語を付す傾向があるため)という意見をもらった。)
『越後入廣瀬村編年史(中世編)』
「古城徴考」をおそらく初めて翻刻して刊行した『越後入廣瀬村編年史(中世編)』には、「錢淵」以外の記事も史料として掲載されている。
會水城
山田城
鷹之巣城
鷹待城
須賀城
天ヶ倉城
小平尾城
これらは魚沼市や長岡市などの古城であるが、その内容には共通して次のような表現の使い分けが行われている。
地元の人に聞いた話・・・「里人称す」「里人俗伝す」
文献から確認した内容・・・「古書今に伝う」
例えば、會水城は次のとおり記されている。
「古城徴考」
會水城
魚沼郡川口村の西方 千曲川と魚野川の寄合瀬の山上ニ在 千曲川より屹立して堅固なる要害なり 妻有上田の水陸要目の地なり 昔時石坂何某居之と伝御家中の石坂の祖 此処に在りしならん不詳 里人に俗伝あり信し難 古書に観るべき物を不伝
他にも、鷹待城は次のとおり記されている。
「古城徴考」
鷹待城
魚沼郡廣瀬郷の入 大栃山村の山上に在 続ニ的場山と称する所あり 昔時政景公か時 穴澤新右兵衛居之大栃山 穴澤二村に住する百姓 穴澤佐藤の姓を密用する者 其祖城兵なりと里人俗伝す 御家中の穴澤ハ新右兵衛か裔にして古書于今伝 (後略)
この伝聞情報と文献情報を明確に分ける記録方法は、どの時代の技法なのか注目すべき点である。
さらに、『越後入廣瀬村編年史(中世編)』では、史料の出典として「穴澤古文書」「上杉古文書」などと明記してるが、そういった一次史料となんら書き分けることなく、明治37年(1904年)に北魚沼郡教育会によって刊行された『北魚沼郡志』の一部抜粋を掲載している。つまり、史料としての出典と参考文献があいまいになっているという特徴が見て取れる。

近代の自治体史である『北魚沼郡志』が一次史料と区別なく掲載されている様子

資料編等の引用ではなく本文が引用されてることが確認できる
他にも、「魚沼三郡志徴考書」が史料として掲載されている。
これは、『小出町史 上巻』によると
明治十五年(一八八二)以来、並柳新田の関矢孫左衛門が郡志編さんのために、各地の史料を探訪して、同十七年に「魚沼三郡志徴考書」という写本を完成した。
とあるように、近代になってから自治体史編纂のために作成した資料集も掲載されている。(写本ということであるが原本の情報なし)
このことは、「古城徴考」を中世の事柄を明らかにするための根拠として用いる場合は、極めて慎重な検討が必要であることを示唆している。

5 銭淵という地名
「越の風車」
ところで、「銭淵」という地名の由来を記した史料は「古城徴考」以外にもある。それは長岡藩の伴喜内が明和8年(1771年)に著した「越の風車」である。
「銭淵の事」
魚沼郡坂戸の古城の山の麓に、山川の淵あり、此淵に銭有る事ふしぎ也。(中略)
是は昔、此坂戸の城主、居城之節の銭なるべし。残りあるとても、むかしの事故(ことゆえ)、淵にしずむべきに、今に折ふし銭の出る事を思えば、銭淵という名あるもことわり也。其昔よりいでしや、いぶかしき事也。
このように、「坂戸の城主、居城之節の銭なるべし」と坂戸城主が居城していた時代の銭が出ることが、銭淵という名前の由来であるとしている。

一見すると、坂戸城主と銭が関連付けられているようにも見えるが、「古城徴考」に記述されているような、長尾政景の死亡や六道錢の奉賽に関しては一切触れられていない。
伴喜内が地域の奇談怪談をまとめるにあたって、肝心の「銭が出る」理由をあえて記述しないのも不自然であるし、「銭有る事ふしぎ也」としていることから、長尾政景の死没地が銭淵であるという認識を持っていなかった可能性が高い。
「坂戸城絵図」
銭淵に対する認識は坂戸城絵図からも見て取れる。
文政年間(1818年~)に作成したとされる「坂戸城絵図」(鈴木牧之記念館蔵)には、「銭淵」の地名がはっきりと記されている。
一方で、文化13年(1816年)の「坂戸城絵図」(茂木家文書)には、図面の説文があり、次のように記されている。
永禄7年長尾政景信州ニテ入水後息喜平治景勝、天正6年まで居城
つまり、少なくとも文化13年(1816年)に、絵図の作者は長尾政景の死没地を信州野尻湖だと考えており、銭淵であるという認識が広く共有されていたとは言い難い。
ますます、長尾政景の死没地を銭淵とする「里人」の認識を伝える「古城徴考」の成立年代が気になるところである。
おわりに
本稿では主に上杉家関係史料と銭淵説の根拠史料である「古城徴考」について整理した。
しかし、長尾政景の死没地については、検討すべき課題が残されている。
軍記物等の記述
江戸時代に著された軍記物や日記類の中に長尾政景の死に関する内容が散見される。私が把握しているものは次のとおりである。
北越太平記
北越耆談
上杉将士書
川中島五箇度合戦之次第
謙信記
上杉三大日記
太祖一代軍記
近世軍記
新編会津風土記
越後野志管窺武鑑
越後治亂記
北越軍談
澹泊齋筆記
越後軍記
春日山日記

軍記物や御年譜等の記述の比較を行い、長尾政景の死がどのように伝わっていったのか明らかにしていく中で、死没地比定の手掛かりがないか探っていきたい。
地理的条件の確認
銭淵説や東泉田説は地形からもアプローチできるのではないかと考えている。
まず、長尾政景が溺死する前の行動を見てみると、次のように史料によって若干異なっていることがわかる。
川狩り(「北越太平記」「太祖一代軍記」等)
避暑・舟遊(舟宴)(「謙信公御年譜」「景勝公御年譜」「管窺武鑑」等)
一方で、「古城徴考」は次のように記している。
鮎の川狩を興行して船中に酒宴す
このように、河川の本流が山肌にぶつかって淵を形成していた箇所で、鮎の川狩りを催しながら、船に乗って酒宴をし、最終的には溺死したとのことである。仮に流れ緩かったとしても、銭淵に留まりながらこれらの行為をすることが可能なのだろうか。

これは、複数系統の史料の記述や伝承を統合した結果の可能性もあるため、先に述べた軍記物等の記述の比較をする中で、古城徴考がなぜこのような記述になったのか、調査を進めたい。
避暑・舟遊(舟宴)だけと仮定した場合は、東泉田説のようにある程度とどまることができる池や湖の方が適しているだろう。
東泉田周辺は、治水地形分類図(国土地理院)を確認すると旧河道が存在したことが示されているため、埋蔵文化財調査結果なども確認し、池のような地形が存在したのか調査したい。
検討すべき課題や今回の書ききれなかった内容は、「長尾政景の死没地について(2)」に記載したいと思う。
