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長尾政景の死没地に関する調査研究ノート(2)


「古城徴考」はいつ書かれたのか

前回の記事では、長尾政景の死没地について、信州野尻湖説、谷後説、東泉田説、銭淵説の4つがあり、そのうち銭淵説(現在の新潟県南魚沼市坂戸)の根拠史料として地元の郷土史家が採用している「古城徴考」について紹介した。
その中で、「古城徴考」が長尾政景の死亡から約200年後または近代に成立した比較的新しい史料である可能性を提示した。

今回の記事では、「古城徴考」の記述内容と、米沢藩正史や軍記物等の記述内容を徹底比較し、それぞれの史料がどのような関係にあるのか(どの史料を参考に「古城徴考」が記されたのか)を確認する。

1 「古城徴考」とは

本題に入る前に、「古城徴考」がどのような史料なのか再確認する。

1979年に新潟県の旧入広瀬村(現在の魚沼市の一部)から刊行された『越後入廣瀬村編年史(中世編)』という資料で翻刻されたものが確認できる以外、「成立年代」「著者」「原本所在」等が詳細不明の史料である。

旧広神村(現在の魚沼市の一部)の自治体史や南魚沼の郷土史家は「古城徴考」を自説の根拠として採用しながら、史料としての成立について次のように記述しているが、その根拠はどこにも示されていない。

江戸時代に書かれた『古城徴考』は、山田城の項で次のように述べている。

広神村史編さん委員会 編『広神村史 上巻』1980年

古城徴考(越後入広瀬村編年史)
(中略)
「古城徴考」は、かつて上田坂戸城下に住した者たちの手によって綴られたものである。

大嶋 要三「検証 政景の死と野田尻ノ渕」上田史談会『魚沼 第十号 十周年記念号』1992年

一方で、令和元年(2019年)に刊行された南魚沼市の自治体史である『六日町史』では、執筆者の山田邦明氏(歴史学者)が「政景の急逝」という節で、「政景の死去のいきさつについては、確実に信頼できる史料がない」とした上で、場所について次のように述べている。

場所は「野尻池」ということで諸書が一致していて、上田の野尻池で落命したというのも、おそらく事実だろう。

南魚沼市教育委員会『六日町史 通史編 第一巻 自然・先史・古代・中世』2019年

このように山田氏は、長尾政景の死没地として「古城徴考」に記されている「錢淵」や「野田尻之淵」という地名については一切触れていない。
銭淵説の根拠として「古城徴考」を頻繁に取り上げる郷土史家の大嶋氏も『六日町史』の郷土史編さん委員会副委員長として参加しており、山田氏が「古城徴考」の存在を知らなかった可能性は低い。
少なくとも山田氏が「古城徴考」を有力な史料とは捉えていなかったことは明らかである。

2 他史料との比較

あらためて「古城徴考」における長尾政景の死亡に関する記述を確認する。

「古城徴考」
錢淵
魚沼郡上田之庄坂戶古城の山麓に在 昔時ハ野田尻之淵と云 永祿年中の夏、政景公妻有の下平 修理と鮎の川狩を興行して船中に酒宴す 如何なる故に哉 爭論に及び相對して御死去せし所󠄁なり 政景公の從士少しく御供死せり 今御家中の國分賣間の先祖なりと傅 政景公ハ龍言寺に、修理ハ妻有の長福寺に葬る 其後水荒れて淵に怪異なる事ともあり 兩寺此所󠄁に大般若を執行す 里人の男女群集して淵に六道錢を奉賽す 例年七月此事あり 景勝公御國替迄續く 今に及んで淺瀬に錢出る 仍里人錢淵と稱す 龍言寺ハ上田より移來て御城下に在 長福寺ハ越後の妻有に在 御家中の今井ハ修理か裔なり。

入廣瀬村教育委員会『越後入廣瀬村編年史(中世編)』1979年

比較する他の史料は次のとおり。

  • 謙信公御書集

  • 謙信公御年譜

  • 景勝公御年譜

  • 北越太平記(北越軍記)

  • 北越耆談

  • 川中島五箇度合戦之次第

  • 謙信記

  • 管窺武鑑

  • 北越軍談(北越家書)

  • 上杉三代日記(上杉軍記)

  • 越後軍記

  • 太祖一代軍記

  • 春日山日記(七巻本)

  • 越後古実聞書

  • 近世軍記

  • 上杉将士書上

  • 澹泊齋筆記

  • 越後治亂記

  • 国分威胤見聞録

  • 新編会津風土記

  • 越後野志

  • 羽前米澤 上杉家譜

  • 長尾系圖

  • 先祖由緒帳

「古城徴考」の表現で他の史料と一致又は近似する部分を見てみる。
まず、長尾政景の死亡の原因となる「下平修理」についてである。

政景公妻有の下平修理と(中略)
御家中の今井ハ修理か裔なり。

「古城徴考」

この、下平修理を「妻有の」(現在の十日町市)と表現し、「今井」が「修理」の「裔」つまり「今井」の祖先が「修理」であるとしている史料は次の2つだけである。

  • 越後古実聞書・・・「下平修理と云て妻有一庄宰配之地とて代々知行」(中略)「今井源右衛門本苗ハ下平也、先祖下平修理」

  • 越後治亂記・・・「下平修理亮也と言て上田・妻有の一庄代々知行し」(中略)「今井先祖は下平修理」

「越後古実聞書」は文政4年(1821年)の写本が残っているが、成立年代は不明である。本題からは逸れるが「越後古実聞書」と「越後治亂記」の2つの史料の表現がよく似ていることも興味深い点である。
なお、長尾政景の死亡の原因となる人物として「下平修理」を挙げている史料は、あと1つ「謙信公御書集」があるが、こちらには「妻有」という表現は含まれていない。

次に、長尾政景の溺死前の行動について見てみる。

鮎の川狩を興行して船中に酒宴す

「古城徴考」

「川狩」をして「酒宴」するという表現となっているが、これらを同時に行っていたと記述する史料は「古城徴考」以外にはない。前回の記事でも述べたが、河川の本流で鮎の川狩りをしながら、船上で酒宴をするという状況に違和感を覚える。
ここで、「川狩」と「酒宴」をそれぞれに分けて他の史料と比較すると、次のとおりである。

  • 「川狩」
    ・北越太平記(1643年~1673年)・・・「川狩を興行し」
    ・太祖一代軍記(未詳。巻尾に1743年)・・・「船遊・川狩を興行し」

  • 「酒宴」
    ・管窺武鑑(江戸中期)・・・「船遊を催し、酒宴の興を尽しぬ」
    ・北越軍談(1698年)・・・「酒宴半を過て」

このように「古城徴考」の「川狩を興行して船中に酒宴す」という部分は、江戸時代に刊行されたいわゆる軍記物の表現を組み合わせたものであると見ることもできる。
※括弧内は成立年代(参考文献:古典遺産の会『戦国軍記辞典 群雄割拠篇』1997年及び市立米沢図書館デジタルライブラリー)

最後に、前回の記事でも紹介した「国分威胤見聞録」について見てみる。

如何なる故に哉 爭論に及び(中略)
政景公の從士少しく御供死せり

「古城徴考」

野尻の池にて喧嘩ありて、
彥五郎御供死せしと聞き、

「国分威胤見聞録」

まず、船上での出来事について、「古城徴考」における「争論」のように偶発的な争いごとがあったと表現しているのは、「国分威胤見聞録」における「喧嘩」しかない。軍記物等には暗殺時の格闘の様子などが記されてるものもあるが、争論や喧嘩とは意味合いが異なっている。
また、従者も死亡したことについて「御供死」と表現しているのも「国分威胤見聞録」のみである。
あらためて、「古城徴考」が「国分威胤見聞録」を参考としている可能性が高いといえる。
(国分威胤:米沢藩士。天明5年(1785年)家督)

以上のように、「古城徴考」が複数の史料を参考にして作成された可能性を示したが、逆に他の史料が「古城徴考」を参考にした可能性はないだろうか。

ここで、他の史料の死没地に関する表現を見てみる。すると「古城徴考」以外はおおむね「野尻の湖」「野尻の池」といった記述で一致しているのがわかる。

  • 越後古実聞書・・・「野尻の池」

  • 越後治亂記・・・「野尻の池」

  • 北越太平記(北越軍記)・・・「野尻の池」

  • 太祖一代軍記・・・「野尻の池」

  • 管窺武鑑・・・「野尻の湖」

  • 北越軍談(北越家書)・・・「野尻の城下に弁財天池」

  • 国分威胤見聞録・・・「野尻の池」

しかし、「古城徴考」に関しては「野田尻之淵」や「銭淵」といった全く異なる表現となっている。「古城徴考」を参考にしたと仮定して、死没地がその地名の由来まではっきりと明記されているにも関わらず、あえて排除して「野尻の湖」「野尻の池」とすることはどう考えても不自然なため、「古城徴考」が参考にされた側とは考え難い。

本稿の検討から、「古城徴考」は近世以降に記された複数の史料を編集・再構成し、そこに著者の調べた「里人」の認識などを付加して作成された史料とみるのが自然であり、長尾政景の死没と同時代の史料である可能性は極めて低いといえる。

おわりに

尽きない疑問

「古城徴考」という謎の多い史料の存在を唯一確認できる『越後入廣瀬村編年史(中世編)』には、「錢淵」以外の「古城」についても掲載(錢淵含めて8件)されており、それらの「古城」の所在地については次のように記されている。
※括弧内は現在の住所

  • 「錢淵」・・・「魚沼郡上田之庄坂戸古城の山麓」(南魚沼市坂戸)

  • 「會水城」・・・「魚沼郡川口村の西方」(長岡市妙見町)

  • 「山田城」・・・「魚沼郡藪神山田村の山上」(魚沼市山田)

  • 「鷹之巣城」・・・「魚沼郡藪神」(魚沼市)

  • 「鷹待城」・・・「魚沼郡廣瀬郷の入」(魚沼市大栃山)

  • 「須賀城」・・・「魚沼郡廣瀬郷須賀村の山上」(魚沼市)

  • 「天ヶ倉城」・・・「魚沼郡廣瀬郷高倉村の山上」(魚沼市高倉)

  • 「小平尾城」・・・「魚沼郡廣瀬郷より古志郡栃尾に通ずる山中」(魚沼市小平尾)

まず、長尾政景の居城であった坂戸城を中心とする「上田之庄」(南魚沼)も含めて、すべての「古城」が「魚沼郡」という括りで表現されている。
次に古志郡の「會水城」の所在地が北魚沼の川口村を起点とした方角で表現されている。また、「小平尾城」も起点が北魚沼で終点が古志郡となっている。
郷土史家の大嶋氏は「古城徴考」について「上田坂戸城下に住した者たちの手によって綴られた」と私見を述べていたが、もしそうだとしたらこのような北魚沼中心の表現にはならないだろう。

「古城」の位置関係(「Google マップ」)

繰り返しになるが、この「古城徴考」は現在の魚沼市(北魚沼)の一部である旧入広瀬村が発行した『越後入広瀬村編年史(中世編)』でしか存在を確認することができない。
北魚沼地域の自治体史なのだから、北魚沼の古城の情報ばかりになるのは当然としても、その表現までが北魚沼中心となっていることには違和感を覚える。

前回の記事でも紹介したが、『北魚沼郡志』編纂のために明治17年(1884年)に著された「魚沼三郡志徴考書」という史料が『越後入広瀬村編年史(中世編)』には掲載されている。
確証はないが、「古城徴考」も北魚沼地域の自治体史編纂のために近代になって著された基礎資料といったものなのではないだろうか。

以前、魚沼市(北魚沼)に「古城徴考」の情報がないか問い合わせたが、『越後入広瀬村編年史(中世編)』の著者がすでに亡くなっているため、「全くわからない」とのことであった。どの程度調査した上での回答なのかはわからないが、簡単にあきらめず責任をもって追跡調査をしてもらいたいものである。

今後の課題

実は、これまで触れてこなかったが、長尾政景の死亡に関する史料には、ひとつ大きな矛盾が存在する。

それは、長尾政景の死亡時期に関して、「永禄4年」とする史料と「永禄7年」とする史料に大きく二分されているのである。

ただ、このことについては、研究史でも多くの方が触れており、結論から言うと現在は「永禄7年」が定説となっている。

また、信州野尻湖説も否定する研究者は多いが、なぜそのような説が広まったのか、死亡時期の件と合わせて明らかにしていきたいと思う。

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