長尾政景の死没地に関する調査研究ノート(3)
長尾政景はいつ亡くなったのか
史料に見える死没年の違い
長尾政景が死亡したとする年代について、永禄4年(1561年)とする史料と永禄7年(1564年)とする史料に分かれている。(一部例外あり)
結論から言うと永禄7年(1564年)が定説となっており、その根拠も一次史料から確認できる。
本稿でもその一次史料を確認するとともに、なぜ永禄4年説が生まれたのか調査することを目的とする。
永禄4年説
・先祖由緒帳(内藤信五左衛門由緒)
・先祖由緒帳(発知新左衛門)
・謙信公御書集
・謙信公御年譜
・景勝公御年譜
・羽前米澤 上杉家譜
・長尾系圖
・越後治亂記
・越後古実聞書
永禄7年説
・北越太平記
・北越耆談
・上杉将士書
・川中島五箇度合戦之次第
・謙信記
・上杉三大日記
・太祖一代軍記
・近世軍記
・新編会津風土記
・越後野志
このように見てみると、一部の例外を除いて、米沢藩が編纂した史料は永禄4年説を採用し、いわゆる軍記物等が永禄7年説を採用していることがわかる。
一般的には、軍記物は江戸時代の創作物という印象があるが、現在の定説はそういった軍記物等が採用している永禄7年となっている。
これは、永禄4年説を否定する決定的根拠があるためである。
永禄7年説(永禄4年説否定)の根拠
長尾政景の死没年の定説が永禄7年となっているのは、永禄4年以降に長尾政景が発給した文書がいくつも確認できるためである。
〔伊佐早文書〕長尾政景起請文
一、府内よこめ之儀被仰付上、少も不存粗略、御掟之とをり堅可申付事、
一、不道ろうせき、喧嘩口論致死之やから御座候は、たとへ御目前衆にかきらす、たかめし使之者共、立所ニをいて成敗をくわへへいく候、若私ニならさるきニ候者、かくしなく可申上候事、
一、某自分ニをいても、あるいハそくたく、あるいハゑしよを以、不道よこしまなる儀、毛頭可致之候事、
一、自分之ゑしゆえを以、いつわり等之儀申上間敷事、
一、ひいきなとを以、非道いたす者、おんミついたすましき事、若しこのむね偽申ニ於而者、(中略)
永禄五 長尾越前守
霜月九日 政景(花押血判)
河田豊前守殿
これは長尾政景が府内(上越市)の横目(監察役)を命じられ、永禄5年(1562年)に河田長親に提出した起請文である。
他にも、永禄6年(1563年)年には長尾政景が越後大窪の大工神五郎に、鐘を製作する権利を認める書状を発給している。
〔極楽寺文書〕(白川領風土記十六所収)長尾政景判物写
今度就突鐘子細共申候、向後大鐘於仕候ハ、大工計可為候、為後亀之状如斯候、仍如件、
永禄六年閏霜月四日 政景(花押影)
うたしろ
大工神五郎
このほかにも永禄4年以降に長尾政景が生存してたことを示す史料がいくつか確認されている。
このことから、永禄4年説は誤りといえる。
ここで、疑問が2つ生じる。
米沢藩は、なぜ事実と異なる永禄4年説を採用してしまったのか。
軍記物等は、なぜ事実と思われる永禄7年説を採用できたのか。
これ以降については、まだ考えがまとまっていないので、後日執筆してこの記事を更新することとします。
