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愛の最小単位は、敬意だった

愛にふれて、考えて、感じて、飲んでみようをやっている私が出会った「愛の根っこ」について。

春の日差しでありたいライフコーチのなほです。

剥がれては還り、ころん、と生きる。
私は愛だから、いつでも私に愛を注ぐよ。私は私の手をずっと離さない。

最近感じた日常にある愛は?

大好きな人の笑顔。
「ありがとう」の言葉。
健康な心と体があること。

敬意がある人に「好き!」と感じたこと、心理的安全性がある職場がいいよな~と考えたことがあること。この2つがつながって、愛は分かりやすかったり、大きなことじゃなくて、小さいことにあるよね、と思った話。


敬意も、愛に含まれるもの

初対面の人と「とりたい距離感」が近い時、私は安心して、少し心の窓を開けられる。

関係性、人と人との間の距離をとても注意深く見て、はかってきたので、距離感で見ていることが多いです。

近づいて拒否されたらイヤだ、と思っていたから。

最近は、そんなに自分から距離を縮めていくことに恐れはなくて、直感、感覚で人に近づいていく。

noteにも書いたことがあるのだけど、初対面の人に名前で呼ばれた時にはちょっと距離が近いと感じ、苗字で呼びかけてくれた人には安心したことがある。
その場の雰囲気によるのだけど。

多分、未知の人に近づく時の恐さがまだあるんだろうな、と書いてみて思います。
だから、相手が急いで踏み込まずにいてくれることを、私は敬意と受けとるのかもしれません。

なぜあの時、あんなにイヤだと感じたのか

以前、差別的だと感じることを言われたことがあります。
「ひな人形を出しっぱなしにしていたから、いきおくれたんじゃない?」

私は一度も結婚したことはない。
その職場でアラフォーで未婚なのは私しかいなかった。結婚することが当たり前みたいな空気を感じていました。

冗談のつもりだったんだろうけど、私は全然冗談と受けとれなくて、むっとして、腹が立ったので、聞こえないふりをした。

笑えるような返事をする気にもなれなくて、「そんなことない」と弁解するのも違う気がして、無視。

大人げないかもしれないけれど、場の空気が壊れようと、私は無視した。

また、子どもがいないから、休日の勤務(オンコールという呼び出されたら出勤する勤務・オペナースしてたよ)はいつでも出来るよね!という扱いを受けたことも、もやっとしていた。

これらに共通するのは、敬意に欠けていたということ。

日常的にそうした言葉にふれていると、傷つかないように受け流す術を身につけることもあると思います。
でも、受け流せることと、敬意があることは別です。

その時の私は、互いが尊重される、心理的安全性の高い場にしかふれていなかったので、その高い水準が私にとっての当たり前になっていました。

だからこそ、敬意の欠けた言葉に、以前より強く抵抗感を覚えたのだと思います。

互いに尊重できるのは敬意があるから

私は、人間関係を考える時、互いに尊重できることが大事、というのを最近よく思います。

相手を優先することは、身につけてきた人も多いと思います。
けれど、それは必ずしも互いを尊重することと同じではありません。

働いていても、それ以外の場面でも、相手を優先しなければいけなかったり、子どもや親など大事な人を優先することはよくあります。

けれど、その時に、自分の気持ちや事情も同時に尊重できているか、というと、自己犠牲になっていることもあると思います。

誰かのために自分が犠牲になってもその人のために尽くせる。
それはその人の優しさや強さではあるけれど、まずは自分を大事にしてほしい。

そして、自分よりも周りを優先して、また時には自己犠牲的に生きてきたから、相手だけでなく、自分も尊重することも同時に成立させられることが大事だと学びました。

互いに敬意をもって接する、コミュニケーションできるか。

尊重できるのは、愛がそこに流れているから。

コーチングでも、人生でも、私は尊重されたいと願っていて、それを大事にしてきました。

「尊重」というと、大げさに聞こえるけれど、もっと小さくすると、それは相手への”敬意”が原点。

苗字で呼んでくれた人に安心した理由

距離を保って、敬意を持って接する。初対面では当たり前とされる礼節を守って接してもらったから、と当時のnoteには書いている。
それと、その人自身がまとっている雰囲気がやわらかだったから。

この人好き!って感じた笑

単純かもしれないけれど、私が保ちたい距離感と同じくらいでいてもらったことが、とてもありがたかった。
安心できたし、心地いいと思えた。

そして、距離。
冒頭でもふれたように、いきなりぎゅっと縮めるではなく、勝手に縮めないよ、あなたとの距離を一緒に作りましょう、というメッセージを受けとっていたからだと思います。

仮に、名前で呼ぶとして、「下のお名前で呼んでもいいですか?」と一言確認があれば、そこには敬意があって、私は尊重されていると感じる。
私の大切にしている距離感とも近い。

だから、いきなり初対面で名前で呼ぶのが失礼に当たる訳ではないのだけど、安心という点においては、違う。

自分は「この人好き!」って思ったら走って抱きつくくらいの距離に一気に縮めたいのに、人に対しては、慎重に近づいて下さいって思ってるの矛盾してるな~と思います。

ま、人はそんなきれいに説明できるものでもないよね。

愛は、大きなことじゃなかった

尊重されたい、そして私も相手を尊重したい。

そんなコミュニケーションをしたい。

尊重というと、大きなことのように思っていたけど、尊重は敬意を持って接するという当たり前とも言える態度から生まれている。

愛は、大げさな優しさでも思いやりでもない。
感動的な言葉でもない。
自己犠牲でもない。

相手をどんな風に呼ぶの?
ありがとう、と伝えること。
丁寧な言葉遣いをすること。

最後まで話を聞くこと。
勝手に踏み込まないこと。

そんな小さな敬意から始まる。

もしかすると、愛の最小単位は敬意なのかもしれない。

愛にも、育つための土があった

私は、愛が土だと思っていました。

自分の価値を認めたり、自分を信頼したり、自分を受け容れたり。
そういうことが出来るようになるには、愛というふかふかの土があった方がいい。

愛がすべての土台なのに、それがないままに育てようとするのは、カラカラの雨も降らないような土壌で木を育てようとしているようなものだ、と思っていた。

けど、愛にも育つための土があったんだ。


「敬意」。

当たり前にあるもののように思っていたけど、そうとは限らない。
「会社から見たら私はコマに過ぎないんだな」みたいに感じる時も、そこに敬意が見えにくいからだと思いました。

敬意があるから、安心できて、信頼が育つ。
安心や信頼も愛に含まれるものだけど、その愛にも、育つための土があった。

敬意。

あまりにも小さくて、基本的で、見落としやすい愛の表現。
私は、これを愛の最小単位と呼びたいです。

おわりに

敬意があるのは当たり前だと思っていました。
けれど、その当たり前が軽んじられたり、「敬意がない」「失礼だ」と感じると、私は傷つく。
反対に、小さな敬意を向けてもらった時、私は安心して心の窓を開く。

あいさつはちゃんとする、ありがとう、ごめんなさいを伝える。
子どもの頃に教わったのは、ただの礼儀ではなく、小さな愛の表現だったのかもしれません。

私は今日も、愛を流していて、誰かから流してもらっている。
敬意が流れる場所をこれからも大切にしたいです。

今日もここまで読んでくださり、ありがとうございます。

この場所に、その日の気づきを静かに置いています。

また、書きにきます。

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軽くおしゃべりするような時間で大丈夫です。
安心できる距離から、互いを大切にしながらお話しできたらと思います。

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▷ 詳しくはこちらをご覧ください(Notionページ

よかったらこちらのnoteもどうぞ

▽敬意を持って接してもらうことで、心の窓を開けられる

▽敬意から生まれる尊重。いのちを尊重することにつながる

▽自分も相手も尊重つコミュニケーションは信頼のある関係性から


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なほ|照らし、照らされるライフコーチ あなたと私の間に愛が循環していきますように。いただいたチップは、私が健やかに生きられるようにチョコ次郎を買うために使わせて頂きます。

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