手のひらから、愛がわかるまで
「手」が私にとっては大事なものみたいだ。
春の日差しでありたいライフコーチのなほです。
剥がれては還り、ころん、と生きる。
きらきらしたら、ぷかぷかに戻るリズムの中で、私のままで、もうすべてそろってる。
あなたの手はどんな手ですか?
ネイルをしていて、かわいい爪の手。
ちょっと小さい手。
ごつごつしている手。
私は、ペンだこもあるけど、指が長くて手がきれいだねって褒めてもらえることがあります。指先の感覚が大事だったし、手はケガをしないように守るものでした。
愛を受けとる、表現するものが手。信頼も愛の含まれるもの。
また、受けとるのも、愛にふれるのも手だった。
私の手は指も動くし自由に動かしていいもの。
私の手にもあたたかい温度がある。
世界との接点の1つが手。
手に気づいたきっかけ
ハグしてもらった経験から、私は握手して下さいって伝えて、握手してもらいました。
ハグがあいさつではなくて、愛の表現でもあるんだに気づかせてもらった。
だから、ハグはハードルが高いけれど、握手なら出来そうだと思って、お願いしてみた。
言葉を交わすことでも愛は循環しているけれど、握手することで愛は循環する。
そうやって、手に注目すると、思い出されたことがいくつかあった。
私は、ハイタッチ(`・ω・)人(・ω・´)の顔文字をよく使っている。
これも、手と手がふれあうことだな、と思った。
そして、お父さんを思い出す時に、何を思い出す?がお父さんの手だった。やさしい手。
手は「つながり」と「信頼」の場所だった
私は、信頼をイメージする時に、手を絶対に離されないと感じたことがありました。
コーチとクライアントという関係において、信頼関係(パートナーシップ)を築くことはとても大事です。
家族にも誰にも話せなかったことを話したり、心のやわらかい部分にふれるようなことをすることがあるからです。
安全な場を作るためにも、互いに信頼できることが大事。
その時に感じた感覚が、そっと手を差し出してもらって、その手を私はとらせてもらった。
何があってもコーチは私の手を絶対に離さない、と感覚ですがそんなイメージを持ったことがあります。確信と言ってもいい。
他の人との間でも、私が子どもで相手が大人みたいな感じで手を引いてもらうような感じを受けたことも、気にかけてもらった時に、さっと手を差し出してもらって、この手をとってもとらなくてもいいんだ、と感じたこともありました。
人との関係において、手がイメージされることが多い。
また、何かを教えてもらう、伝えてもらう時に、そっと手のひらにのせてもらう、という感覚を感じます。
ただのせてもらうだけなんだけど、反対の手で私の手をとって、そっとのせてもらう。
やっぱり、手のイメージ。
愛を受けとるのが恐くて、ふれることから始めた
愛が恐かったので、私は受けとると考えるのが負担感がありました。
だから、ふれることから始めました。
そのふれるは、まさに手のひらでふれるでした。
ぺたぺたと手のひらで愛にふれていた。
最近は、腕を差し入れることも出来るようになっていて、頭を入れたりも出来る。
愛に浸かるを最近はよくしています。
ふれながら、私はあなたはどんな愛なの?って確かめていた。
やわらかであたたかいのは分かっているから、そっとふれるには手でふれる必要がありました。
受けとるが恐いから、そっとふれることから始めたのは、私を守りながら近づくやさしい距離です。
「なでてほしい」という願い
これまでもぽろぽろ書いてきたけれど、頭をなでなでしてほしい、という漠然とした願い、欲求?があります。
子どもの私がそうされたいんだろうな、とは推測している。
実際に子どもだった時に、頭をなでてもらったという記憶はありません。
私にとって、頭をなでるとは、そこにいていいよ、大好きだよの仕草です。愛を伝える行為。
本当はもっと近づきたくて、抱きしめてほしい。
本音は、抱きしめてほしい。
けれど、なでなでされたいは、私なりの距離のとり方、抱きしめられるを望んでいいのか自信がなくて、だから頭をなでられたい、に留めている、が正確な所だと思う。
私の手は「受けとるだけ」だった
「受けとる」がちょっと上手く出来ません。
考えてきてはいるけれど、呪いがついていて、全部を受けとるか、閉じてまったく受けとらないの2択しか長らくありませんでした。
しかも、受けとらないの選択肢は存在していなくて、イヤなものでも全部を受けとっていた。
それは、ただ手のひらを上にして待つ行為でした。
選ぶという感覚はなくて、手を下げてしまうという行動が出来ることが分からなかった。
指が動くと気づいた
改めて自分の手を見ると、「指、動くじゃん」って気づいた。
少しずつ、何かを受けとる時に、タイミングを選んでいいこと、一部だけ受けとるをしてもいいこと、自分で受けとるかどうか選んでいいを練習している。
ふれるか、手放すのか選んでいいとは、自分で関わりを決められる、調整していいということ。
掴みに行く私もいた
受け身の姿勢で受けとっていたけれど、他方で、能動的、攻撃的な私もいたな、と思います。
それは、学びに関しては、私は学びは掴みに行くものとずっと捉えてきました。
待っていても与えられない、学びは自ら掴みに行くものという考えがあって、興味のあることは、自分で掴みに行っていました。
この私はとても行動力があって、ほしい学びを掴みに行っている。
受けとる私は、ただ手のひらを空に見せて待っているだけだったけど、腕を伸ばして掴みに行く私もいる。
同じ私の中にいる2人の私が、つながったように思いました。
手は自由だった
体を持っている私は、現実的には自由に手を動かせます。
けれど、イメージの中の私の手は、指が動くことも、自由に動かしていいことも分かっていなかった。
掴みに行くの動作はあったけど、それ以外は、じっとしていた。
けれど、本当は自由に動かせたんだ。
掴んでもいいし、手のひらは開いても握りしめてもいい。
そっとぺたぺたとふれてもいいし、離してもいい。
私の手のあたたかさに気づいた
手は自由に動かせる。動かしていいものだった。
それに、握手について考えた時に、私の手には温度があるに気づいた。血が通っているから当たり前だけど、改めて私の手はあたたかかいよね、って思った。
相手の手のぬくもり、愛を受けとるだけではなくて、私の手にも愛はある。
私の内側にある愛が手にもある。
自分で自分にふれてみて、やっぱりあたたかいよねって思った。
手でよく自分の顔をさわってるのも、安心したいがあるからって以前分かったことがある。やっぱり手が大事な意味を持っている。
手だけじゃなかった、愛の入り口
言葉が私にとって「愛の通貨」です。
言葉で表現される愛が分かりやすくて、受けとりやすいです。
愛はいろんな表現方法がある。
表情でも愛は伝わるし、まなざしにも宿っているし、「大好きだよ」の言葉には愛がある。
身体的な手による接触、握手にも愛はあって、手が愛の入り口。
そして、言葉も表情も愛の入り口だ。
ばらばらだったものがつながった
人間にとって、手があることはとても大きくて、指が動くことも機能的にとても大きな役割をしている。
親指があるから、つまむという動作が出来るし、モノを掴むことも、キーボードを打つことも、握手も、水をすくうことも出来る。
だから、他の人にとっても手には多くの意味があると思う。
私にとって、世界とふれる窓が「手」だったんだと思います。
つながりも、信頼も、愛も、受けとることも、安心も全部を私は手の感覚を通して感じている。
あなたにとっての「手」はどんなものですか?
愛を受けとることも、そして他のものを受けとる時も私は自由に手を動かして選んでいい。
世界との関わる窓が手なら、その手を大事に自由に動かす。
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よかったらこちらのnoteもどうぞ
▽このnoteを書くきっかけの握手について
▽信頼のイメージが手をつなぐこと
▽私のままで愛されていいが分かった、愛の手を感じた時
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