手をつなぐイメージが私にとって信頼と結びついていること 愛のひとつのかたち
手をつなぐのはお互いに努力がいるって思っていたから。
秋口の陽だまりになりたいライフコーチのなほです。
剥がれては還り、芽吹いていく旅の途中。
きらきらしたら、ぷかぷかに還るリズムを大切に。
窮屈さを感じたら、より自由を感じる方へ踏み出して。
人との信頼をイメージで表わすと、どんな風景になりますか?
手を握る、ハグをする、笑顔で笑いあっている。
私は手をつなぐイメージがずっとあって、それは手を引いてもらったり、先に手を差し出してもらって、手をとらせてもらったりしてきました。
信頼は愛のひとつのかたち。
今まで私は素敵な人たちから信頼してもらってきた。
信頼の場を作れる人に私もなる。
私の信頼関係の見方
私は信頼関係の育まれ方に興味があって、それはコーチとしてパートナーシップ(信頼関係)が大事だよという視点も含んでいるけれど、私が人と関係を築く上で大事だと感じていること。
受容とも近くて、信頼、手をちゃんとつなげている、または手を引いてもらっていると分かればこそ、私は自分を開くということをしてきている。
今は、先に信頼を表現する、自分のやわらかい所を開くことが大事って思っているけれど、それが出来ているかの自信はない。
信頼のイメージは手をつなぐ
信頼をいつも手をつなぐイメージで私は捉えていて、手をつなぐということは、お互いがお互いの手を握っている必要がある。
一方的に手を掴まれるではなくて、握り合うということがある。
つまり、互いが努力して手をつないだ状態をキープする。
そして、その手を離されないという確信が私は欲しいと思ってきた。
人に受容されない、拒否される世界に住んでいたから。
愛がない設定の世界では、互いに手を握り合う努力が必要。
本当はあるはずのプールの水が見えない、ない状態だから、しっかりと握っていなければならなかった。
手をつなぐ。
コーチングにおける信頼関係
パートナーシップ(信頼関係)に興味があったから、出会うコーチがパートナーシップを私との間に築いてくれる時、たくさんの学びがあった。
「どんなテーマでも受けとめます」
と、声をかけてくれたコーチがいて、とても印象に残っている。
このテーマを出そうかどかを迷っていた私は、正直にそのことを場に出しました。初対面だったのですが、セッション(コーチと2人で対話することをこう呼びます)の始まる前から信頼関係を築いてもらった。
その上での、「どんなテーマでも受けとめます」この一言で私は信頼に強度があるとするなら、一気に強度が上がりました。
「手を引いてもらう」
私が子どもでコーチが大人みたいな感じで、パートナーシップを築いてもらったことがある。
対等じゃない感じも少し受けるけれど、本当に大きな感じであたたかくて、私はこのコーチの世界に入れてほしいって感じるくらいの受容されている感があった。
「絶対に手を離されない確信」
地獄を今から見に行きたいんです。一緒に見に行ってもらえませんか?って仮に私が言ったとしても、迷いなく一緒に見に行きましょうってこたえてくれるようなコーチ。
実際には地獄は見に行っていない(恐い所には一緒に見に行ってもらった)けれど、強さと同時に厳しさもあって、だけどやさしさもあるコーチでした。
どのコーチも私は大好きです!
愛がない設定の私から見る信頼
どのコーチにも本当にパートナーシップを築いてもらっていて、学ばせてもらっていて感謝です。
だけど、手をつなぐのイメージで見ているのは、そこには離されるかもしれないという恐れを私が持っていたから、と言えると思う。
握っていないと、相手からも握り返してくれないとこの関係は崩れる。
だから、私は握らないとって思っていた。自分の努力で保とうとしていて、コーチはそうではなかったかもしれない。
けれど、私にはそう見えていた。
空気のようにその場にある愛が分からない私だったから。
真っ白な猫のような人
少し不思議だったのが、手をつなぐのイメージを通っていないこと。
これ以上ないくらいに信頼している。
信頼という枠にはおさまらない。
仮説として立つのが、私が愛がない設定だったのが、OS更新によって愛があるの世界に立てたから、手をつなぐのイメージを通らなくなった、ということ。
でも、愛がない設定の時に出会っていて、そこでも通っていないこのイメージ。
わりと早い時期からプールって思っていた。
水が満たされているプールで遊んでいる。
信頼も確かにあったけれど、感覚でとんでもなく深い愛を感じていたから?
愛が水に溶けていて(それが分かったから水の色は薄い桃色)、手をつながなくても同じプールで一緒に遊んでいる。
だから、手をつなぐ必要がない?
つながなくても大丈夫って分かっていて、見守ってもらっているって分かっている。
それも頭じゃなくて感覚で分かっている。
プールの中にいれば、互いに努力して維持するという関係ではなくなる。
手と手で直接つながっていなくても、その場が支えてくれる。
愛が溶けている水がある限り、いちいち確認しなくてもいい。
その愛があるプールを作ってくれているのは真っ白な猫だと思う人そのもの。
愛があふれていて、それが水に溶けているから!
ちょっと分かった感。
子どもの私とお父さんのイメージと重なる
今書いていて思い出したので書きますが、お父さん(意識的に呼び方を戻してみる)と私について考えてきているnoteのヘッダー画像は、AIに作ってもらいました。
子どもの私とお父さんが手をつないでいる後ろ姿にしている。
無意識にそういう絵を私は選んでいる。

手をつなぐ、離されないこと。
意味がある。偶然じゃない。
私は手を離されたくなかった。
何でも親子関係に原因を求めない。
だけど、人間関係の作り方についても私は親子関係の影響を認めざるを得ない。
両親の離婚で、お父さんと私の関係は「絶たれた」と私は理解している。
それも、絶たれたなくないって願っていて、母親に頼んだけれど叶わなくて突然切れちゃったと受けとっている。
ちゃんと言葉を交わした訳ではなく、急にもう存在しないものとなった。
ちゃんと別れを伝えないままに、家でお父さんのことは一切口にしないし、思い出も語らないし、はじめからいない人みたいになった。
大学生だったけれど、思っていたより私にはこの出来事はダメージがあった、ということが最近分かった。
人との関係は、私が続けていきたいと願っていても急に絶たれるもの。
これを両親の離婚から私は学習した。してしまった。
だから、ちゃんと手をつないでおかなければいけないし、この手は離されないよねって確認が必要だった。
急に手を離されることは、仕事でも起きたことがある。
それは信頼していたのに、「忙しいからやっぱり手伝えないわ。1人でやってね」と言われたことで、私は「手を離された」と表現している。
難しいことに取り組んでいたから、私は専門知識のある人を頼りたかった。
けれど、急に出来ないと言われたことに突き放されたように思って、手を離されたと感じた。
まとめ
信頼は作る、築くもの。
そういう見方もできるけれど、あふれる愛によって場に存在するもの。
手を互いに握り合うではなくて、差し出された手をとるでもない。
互いにどんな場を共有できるか、作れるか。
直接手を握り合わなくても、どんな場を作るかによって信頼とは自然とその場に立ち現れるもの。作るじゃなくて感じるもの。
信頼は、愛に内包されていて「愛のひとつのかたち」。
プールの水に愛が溶けているから大丈夫。
そして、信頼という成分もプールの水に溶けている。
特別な誰かとの間だけでプールがあるのではなく、すべての人との間でプールはある。
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