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愛は「漏らして」も、きっと誰も困らない。教えてもらった「あふれている」

私にある愛にふれた時は、「それ愛だよ」って教えて下さいね、としばしば呼びかけている。

冬の静けさと灯りになりたいライフコーチのなほです。

剥がれては還り、ころん、と生きる。
きらきらしたら、ぷかぷかに戻るリズムの中で、私のままで、もうすべてそろってる。

教えてもらったというか、
「なほさんの溢れんばかりの愛を勝手に感じたよ」って言葉を贈ってもらっちゃった!

へへ、私、愛あふれてるみたい(照れる)。
嬉しい。

あなたの愛があふれちゃう時はどんな時?

大好きな人のライブで音楽を共有してる時。
好物のご飯を食べてる時。
おさんぽしてるわんこがしっぽをふってくれた時。

尋ねておきながら、
私はあふれちゃう時はピンとこなくて、「漏れちゃう」という感覚の方が近い。

「あふれる」と「漏れる」は、近い状態のようでいて、異なる。

「私、愛あふれてるんじゃん、いえーい」という嬉しいを残しておこうと思って書き始めたけど、早くも方向がちがってきました。

感情を抑えてきたから、愛についても表現することにストッパーがあるのかもしれない。そして、私にある愛がよく分からない。
たくさんあればいいものでもないけど、私はときどきあふれている。


漏れちゃう

この表現の前提には、禁止がある。

ちょい強い響きだけど、漏らしてはいけないのニュアンスだ。

おもらし、してはいけない。
小さい頃、叱られたことあるよね。

幼稚園で、おしっこもらしたことあるよ!

教室から椅子を持っていって体育館に集まって皆で話を聞いていて、トイレに行きたいって言えなかったんだよね。

しかも、「漏らしました」も言えなくて先生が気づいて対応してくれた。

みんなもあるよね?

大人になってからだと、私は感情を出す、自然に発露させてはいけない、と思ってきたことの印象が強い。

元来、感情だだ漏れ、思ったことが顔に出るタイプ。

それが、仕事となると良くないこととされた。
注意されたことが印象に残っていて、意識的に感情を出さないようにした。

笑顔をつくることも大事だし、大人は感情のコントロールをして理不尽な要求にもこたえなくてはいけない。

だけど、私はどこか幼いままというか感情を自由に出すこと、そのまま出しちゃうことをしていた。

無意識にしていた。

今振り返ると、「言葉にして言えない」と感じていたから表情に出す、出ちゃうは、話すが苦手な私の大事な表現方法だったのかもしれない。

今は、感情だだ漏れが私だからと思っていて、そのままにしている。

感情を抑えないって決めている。
そのまま出すのが私にとっては自然だから。

愛は私から漏れているのか?
漏れているというよりは、にじみ出ているの方がしっくりくるかも。

私にある愛って?どんなかたち?

あふれるが、嬉しいけど感覚として分からない、遠いって思うのは、私にある愛が分からないと感じていて、あるにはあるのだろうと思う。

だけど、あふれる程あるのか?と言うと信じられない。
そもそもあるという実感が薄い。

愛を漏らさないようにという意識はないと思うけど、表現するということが分かってないのかなぁ?

だけど、漏れちゃうが近いと思うのは、抑えているからだと思う。

今はだいぶ抑えるは外れてきていると思うけれど、愛というか私の今の感覚だと「好き」という感情が振り切れた時に、漏れちゃうの状態になっている。

言葉で伝えるは出来るようになったし、目に見える形の愛は分かりやすくて理解している。何か物を贈るのは愛。

「好き」の気持ちが愛?まったくイコールではないけど、愛に含まれるか。

なら、漏れるじゃなくてあふれちゃう時あるかも。

あふれる

まず、たくさんあるという前提がある。
そして、あふれるは余っていたりするのかな、と思う。

あふれないように気をつけることもあるけれど、漏れないようにと比べると禁止されているというよりも注意しておく程度のレベル感だ。

そして、あふれたらそれを誰かに分けることが出来る。
たくさんあるから。

愛があふれちゃう、私、あふれているんだ!
って嬉しくなったけれど、仮に私にある愛があふれているんだとしたら、それはときどきだと思う。

本当にあふれる愛がある人は、常にあふれていると私は感じる。
常にあふれていて、にじみ出ていて、それがその人とふれあう時に空気のように場にある愛として感じられる。

私は、この空気のように場に当たり前に存在する愛がしばらくの間分からなかった。

愛は届けるものだと思っていた。意思があるものだと認識していた。

けれど、あふれている愛は等しくみんながふれられるもので、受けとるも受けとらないも特にない。
そこには受けとってほしいも、届けたいもない。

まとめ

ときどき、それも「好き」が振り切れた時には私から愛があふれている。
そもそも、私にある愛がいまいちピンときていないからあふれる程あるということが分からない。

けれど、私には愛があるよって周りの人に教えてもらうことで、私にも愛があるのかって気づいてきたように、「あふれているよ」って伝えてもらったことは素直に信じてみようと思う。

常にじゃないけど、私には愛があふれている瞬間がある。
そして、漏れちゃうの方が近いと思うのは、抑えていたんだろうし、今もまだ抑えていることがあるのかもしれない。

愛は、たくさんあればいいものでもないと思う。
愛は、大きかったり深かったり、まあるかったりする。

だから、あふれる程の愛があってにじみ出ているのは素敵だけど、そんなにあふれるにこだわらなくてもいい気もしてきた。

そして、漏れちゃってると感じるなら、愛は漏らしていく。
愛は「漏らして」もきっと誰も困らないと思うから。

「溢れている」を感じて伝えてくれたかわいい、そして三日月のような彼女に心から感謝です。ありがとう。大好きだよ。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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そのまま持ち帰ってもらえたら嬉しいです。

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よかったらこちらのnoteもどうぞ

▽空気のようにあふれている愛に気づいた時

▽言葉にして言えなかった私の起源

▽ただともにあることだけでも愛


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