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相沢ハルが死んだ日。⑥【創作大賞2025】

前回の話はこちら⇓⇓

※この小説では、時間軸が過去に向かって進みます。

※最初から読んでも最後から読んでもストーリーをお楽しみいただけます。



2025年4月18日

優弥は今年もまた、マタイ受難曲を聴きに来ていた。

クラシック鑑賞が趣味の優弥は、年末の第九と四月の受難節コンサートには必ずコンサートホールを訪れていた。
どんなに無駄な出費が良くないと分かっていても、音楽にかけるお金だけは誰にも言われたくない。

日々の食費を切り詰めてでも、年に二回のコンサートはマストだ。

第九は一年間頑張った自分への年末のご褒美に。

マタイ受難曲は、自分を置いて「死」を選んでいった恋人・親友への弔いの気持ちを込めて。

優弥の中での年中儀式とも言える、貴重な機会であった。


優弥にはかつて芸大を志し、本気で音楽一本で食べて行こうと思っていた時期があった。

結局、紆余曲折あって看護師の道に落ち着いたが、今でも地域のサワナミ市民吹奏楽団に所属し、サックスの名手としてある程度の名を馳せている。


ハルとの親睦を深めたのも、この吹奏楽団のおかげだった。

家族を亡くして塞ぎがちだった彼女を、定期公演会に招待した。

もちろん、入院患者と接するのは病院内のみというのが鉄則だ。

自分にできることはただそばにいるだけ、と分かっていたのだが、ハルのことはどうしても気になってしまい、自分のプライベートにまで誘ってしまったのだった。

案の定、ハルは演奏に心癒されたと言い、以降、優弥の演奏会に足繁く通うようになり、ついには自分も合唱隊に所属した。

そういうわけで音楽を通じて深まった仲のため、この二年ほど、ハルも第九とマタイ公演には同席していた。

ハルはいつも明るいくせに、マタイ受難曲を聴くとポロポロ涙を流す。
キリストの受難にそんなに感情移入するのか、高い音楽性に感銘を受けるのかは不明だが、どうやら何か辛い記憶を呼び覚ましては泣いているようにも感じられた。

今年も例に漏れず泣き出したので、用意していたハンカチをサッと渡した。
ハルは「ありがとう」と小さく呟くと、涙を拭った。
優弥は深くは詮索せず、そばで寄り添う姿勢に努めた。
誰にだって人には言えない辛いことの一つや二つ、あるだろう。
滅多に弱気な姿を見せないハルだ。芸術にどっぷり浸かり、涙を流すことが何らかのリフレッシュにもなるかもしれない、と優弥は考えていた。


コンサート終了後、泣いていた時とはうって変わってスッキリした様子のハルが話しかけてきた。

「今年もマタイを優弥と聴けてよかった。また泣いちゃってごめんね。来年も一緒に来たいな」

「もちろん。また来年も一緒だし、何ならしわくちゃのお爺さん、お婆さんになってからも来ような。クラシックのコンサートなら、幾つになっても楽しめるさ」

優弥は意識的に、「また来年も」という部分に、強く想いをこめて言葉を発した。

「優弥は80歳のおじいちゃんになっても、サックス吹き続けてよ。そんなに音楽好きなんだから、続けないともったいない。ずっと聴いていたいくらい、本当に素敵な音色だもの」

「サントリーホールの後にそれを言われるとプレッシャーだな」

「もう、サントリーホールとサワナミ市民吹奏楽団はまた全然別物でしょ」

「分かってるって。85歳の団員もいるもんな」

「そうそう。生涯現役でいこうよ。約束だよ」

「じゃあ、それはお互いにな」

ハルと小さな約束を重ねるたびに、彼女の未来に幸あれ、と心から願っていた。

自分の置かれた立場でできることに限りがあることを理解しつつ、最大限の人生の寄り添いを誓っていたつもりだ。

優弥は自分でもつくづく複雑怪奇な人生だな、という自覚はあったが、きっと天から見ても、「彼女を純粋に大切にしたい」という想いを持つ限りは、バチは当たらないだろう、と心のどこかで信じていた。



2025年3月17日

大切な家族の命日。

ハルはナツミと共に、墓参りに来ていた。
相沢家の墓は駅から少し離れた丘の上にあるため、車を出してくれるという優弥の好意に甘えさせてもらった。
マメな優弥は、ついでだから、とお墓周りの掃除まで手伝ってくれた。

突然の家族との別れ。
ナツミもこうして手を合わせて祈ることができるまでに大きくなった。
不思議なもので、子どもの成長を通して、月日の流れる早さを感じる。

「ご家族に届くといいね」
帰りの車の中で、優弥がポソッと呟いた。
気を利かせたのか、それ以上のことは話さず、車内にアップテンポなミュージックをかけていた。

優弥には「生きている人」の匂いがする。
必死なまでに懸命に生き、大切な家族を護ろうとしている「生者」の匂い。
例えて言うならば、ランニングで汗を流した後の清涼感のような。
本人は泥臭いと思っているかもしれないけれど、ハルにはそれがとてつもなく生命力・躍動感に満ちたものに感じられた。

反対に、自分には「死」の匂いがこびり付いている。少なくとも、ハル自身はそう感じていた。

あの、生死を彷徨う瞬間に感じた「死」の匂い。
生々しいほどに近く、ありえないほど長い3日間の記憶。
家族の命と引き換えに、私の命を召してくださいと祈り続けた60時間。

願い虚しく、昏睡状態の家族は目を覚ますことなくこの世を去り、ハルは一人この世に残された。

一人きり、と言っては語弊があるかもしれない。ハルの周りには、まだ何も知らない幼子のナツミがチョロチョロと這い回っていた。

「ねえ、ママ。なんで泣いてるの?一緒に歌おうよ」
そう言ってくれた娘の無邪気な笑顔。あの子がいたから、死を選ばずにここまで生きてきた。

――いや、嘘だ。正確には、何度も死を選ぼうとした瞬間があった。

道路でトラックの前に飛び出そうとしたことも、ドラックストアで入手した睡眠薬を大量服薬しようとしたこともあった。

それでもどうしても、残される娘のことを思うと、それができなかった。

自分がいなくなれば、この子は天涯孤独の身になってしまう。
孤児院かもしれない。
心に傷を負い、学校でいじめられるかもしれない。
結婚で苦労するかもしれない。
そんなありきたりな親心が、ハルをこの世に繋ぎ止めていた。


それに、自分が今ここで死ぬ事は、罪を認めたことになるのではないかと思った。まるで、キリストを金貨十三枚で売ったユダのように。

家族を殺したのは自分です、と後世に知らしめるような愚かな広がりにはしたくなかった。

そこには虚偽が溢れていることを知っていたから。
たとえ世間でどう言われようと、現実世界のハルの実感とは、大きく異なっている。

真実は、声を上げなければ葬り去られる。

身の潔白を証明したいなら、どんなに生き恥を晒してでも生き続け、やがて時が経って話せる機会を待つしかない。

そんな未来にまで自分の命があるかは分からなかったが、とにかく目の前の生きる道を進まなきゃ。

死の腐敗臭のする底なし沼を手掻きで泳ぎきり、なんとしてでも生の岸辺に辿り着かねば……!

誰にも分からない崖っぷちで必死の抵抗をしているようだった。
優弥の勤める南原病院に搬送されて入院した後も、まるで彼岸から、三途の川を逆流して泳ぎ着いたような感覚が、しばらく続いていた。



(⑦へつづく⇓⇓)



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