相沢ハルが死んだ日。⑫【創作大賞2025】
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※この小説では、時間軸が過去に向かって進みます。
※最初から読んでも最後から読んでもストーリーをお楽しみいただけます。
2023年5月3日
あの日。死の淵から逃れ出て、わずか数か月の位置をふらふら彷徨っていたハルの耳に、生命の力を再び注ぎ込むような音色が、風の如く聞こえてきた。
忘れもしない、GWのハマオカ公園。
ハマオカ公園は春は桜の花見客で賑わい、休日は市民バンドや大道芸人などで賑わう、市の名所の一つだ。
その公園の中心部に響き渡る、プロ顔負けの、爽やかな音。
音楽鑑賞が趣味だったハルには、その音色が普通のレベルを遥かに超えていることがすぐに分かった。
中央噴水前の特設ステージには、どんどん人だかりができていく。
どうやら、皆が同じくその音色に吸い寄せられるように集まってきていた。
「サワナミ市民吹奏楽団 GW特別公演」との幟とともに、お揃いの制服に身を包んだ団員たち。
ちょうど一人の男性が「ニュー・シネマ・パラダイス」のソロパートを演奏しているところだ。
鮮やかで、まるで生き物のように伸びやかな旋律を描くサックス。
そのサックスの演奏者こそ、優弥だった。
意志の強そうな眉に、強い目力。
病院外でマスクを外すと、その端正な顔立ちがさらに際立っている。
ステージ上には、優しく穏やかなだけでない、大胆な表現者としての優弥がいた。
序盤はまるで大切な人をあやす囁きのように、丁寧で包み込むようなサウンド。かと思いきや、後半のサビでは一気にダイナミックな波が押し寄せる。
縦横無尽な演奏を、空に音符を描くかのように軽やかにこなしていく。
繊細で豊かな表現に満ちた優弥の演奏に、ハルは釘付けになった。
ソロパート終了後、次の演目が始まってからも、ハルの耳には、優弥の奏でる音がこだましていた。
終演後、優弥はハルを見かけるとすぐに駆け寄り、声をかけた。
「ハルさん、ありがとう。来てくれたんですね」
「もちろんです。優弥さんに誘われるなんて、嬉しくて。行くに決まっているじゃないですか。あの、ソロ演奏とっても良かったです。音が生き物みたいに軽やかに動いていきましたね!」
「音が生き物みたい?面白い表現だね。実はあまり練習時間が取れなくて。本番までちゃんと音が出るが不安だったんだけど、無事にできて良かった」
「そうなんですか?全然そんな風に見えなかった。本当に美しくて、ずっと聞いていたい音色でした。優弥さんの人柄が乗っているんだろうなあ」
「そう言っていただけて嬉しいよ。どうする?ハルさんも入る?」
「ずっと考えてたんですけど、今日の公演を聞いて決めました!ぜひ入団したいです」
こうしてハルは、初めて優弥の演奏を聴いたその足で、サワナミ市民吹奏楽団の門を叩いたのだった。
ずっと孤独に塞ぎ込んでいるよりも、優弥の軽やかな旋律をそばで聞いていたい。
そんな淡い希望を胸にしていた。
2023年4月15日
退院が決まったハルの病室を優弥が訪れていた。
「退院おめでとうございます」
「ありがとうございます!優弥さんと会えなくなるのは寂しいけど……」
優弥も同じ気持ちだった。本当は患者と直接の関係を築くことは規則違反に当たるのだが、去り際にサワナミ市民吹奏楽団のGW定期公演のチラシをサッと手渡した。
「時々、地域の吹奏楽団でサックスを吹いているんです。気分転換になるかもしれない。よかったらぜひ、お越しください」
このまま職場と家庭の行き来だけの人生だと息が詰まると考えた優弥は、以前嗜んでいた趣味のサックスを再開することにしたのだった。
演奏会のチラシを手にしたハルは、顔がパッと明るくなった。
「サックスいいですね!私も吹いてみたいです。ピアノなら昔やっていたけど、サックスはやったことないなあ」
「そうですか。じゃあ、ピアノでもやります?いつでも誰でも入れる楽団ですので」
「いえ、ピアノもそんなに上手くないもので、やるとしたら歌かなあ?」
「合唱団も、随時募集中ですよ。歌はいいですよね。なんというか、開放感があって」
「そうですね、気分転換になるかなあ、いいかも」
「GW公演も、きっと癒しに繋がると思います。いつも頑張っているハルさんの姿に沢山元気をいただいたから、僕も少しでも力になれたら嬉しいです」
壮絶な体験を経て入院してきたにもかかわらず、ハルは気丈に振る舞い、病院のスタッフにも笑顔を向けてくれていた。
その笑顔に優弥は何度も救われた。
はじめて会ったはずなのに、不思議とはじめての感じがしない。
むしろ、遠い昔から、よく知っていたような気がする。
優弥はハルに、不思議な運命のときめきを感じていた。
そして、この胸の高鳴りは、誰にも知られてはならない秘めるべき事だということも、自分なりに分かっていたはずだった。
2023年4月3日
「松村さんは奥様とか、いらっしゃらないのですか?」
軽い社交辞令のつもりで聞いた質問だった。
それが、この後大きな問題を引き起こすことになるとは、ハルは知る由もなかった。
優弥の答えは、「妻と呼ぶべき人が以前はいましたが、今はいません」だった。
単純なハルは、この発言を「バツイチ」だと理解した。
「そうなんですね、なんだか聞いちゃってすみません」
「いえいえ、本当のことですから、いいんですよ」
「ということは、お子さんは?」
「二歳の男の子がいます。今はもっぱら、実家の両親と僕が面倒を見ていて。両親も共働きなので、なかなか頼めないんですが、サックスの時間だけは、自分にとって夢に浸れる大切なものなので」
「そうですか。うちの娘も同じくらいなので分かります。ここ数年は私も子育てでいっぱいいっぱいで。でも、いくつになっても、大切にできる趣味があるって素敵ですよね」
ハルは、目の前にいる優弥の雰囲気がとても優しく穏やかで、どこか初恋の人を思わせるような風貌であることに強く惹かれていた。
ヒリヒリと痛む火傷の後遺症が、優弥の寄り添いにより、癒されていく。
思い出したくもない心の傷が疼く時も、優弥の声を聞くことで前を向いて生きている気がする。
人生って辛いことばかりじゃない。
生きていれば、新たな出会いが用意されているなんて、幸せな事だ。
こんな素敵な方と出会えたなんて、嬉しい。
お子さんのところだけ気をつけつつ、少しずつ仲良くなっていってもいいのかな、と自然と思える相手だった。
すべてを失い、病院から再スタートしたハルの真っ白な人生は、松村優弥という存在によって、少しずつ彩られていった。
2023年3月23日
「相沢ハルさん。この度担当になりました、松村優弥です。何か不便な事や、お痛みなどありましたら、いつでもナースステーションにご連絡くださいね」
優弥はハルに初めて声をかける前、なんと声をかけるべきか、しばらく考えあぐねていた。
ICUから一般病棟に移ってきた患者だった。
火傷と酸欠により意識消失し、一時期生死の境を彷徨っていたが、幸いにして意識が回復し、病状が安定してきていた。
すると、優弥の心配をかき消すように、意外にもとても明るい声で返事が返ってきた。
「松村優弥さん、はじめまして。相沢ハルです。私、こういう入院はじめてなので、ちょっと慣れないところもあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
幸いにして火傷は腕や脚の一部分であり、ハルの透明感のある顔立ちは、病人とは思えないものだった。
「そうですか。あの、この度は本当にご愁傷さまで……」
すると、ハルは首と手を横に振って、優弥にニッコリと微笑んで見せた。
「そんなに気を使わないで下さいね。私、ナツミと生きているだけでも奇跡だと思っているんです。生かされていることに、感謝だなあ、って。だから、生き延びて皆さんと出会えたことにも、感謝しています」
火事による一家全焼。両親・祖父は助からず、同居していた相沢ハル・ナツミ親子のみ生き延びたという事実。
そして、その事実が、ハルに好奇の目が向けられる原因となっていた。
実際、ハルが入院した際には、近くの病室から、ヒソヒソ話が聞こえてきたものである。
「ねえ、あの子でしょ?一家全焼の」
「ああ、あのテレビでやってた。悲惨ねえ」
「両親に恨みがあって放火したんじゃないかって噂もあるらしいわ」
「怖いわねえ。どうして夜中なのに、あの母子だけ助かったのかしらね」
「やっぱり、火をつけて逃げたんじゃないの」
……こんな会話が至るところで繰り返されていた。
優弥はこうした噂を聞く度に胸が痛くなり、当事者のハルの耳に入らないことを祈るばかりだった。
優弥が見るかぎり、ハルは天真爛漫で、とても両親を殺すために放火するような女性には見えない。
記憶が定かでなく、真実は闇の中であるとはいえ、ハルだってこうして火傷を負って入院しているのだ。
それに、娘のナツミちゃんは母親の腕に庇われていたために、軽症であったと聞いている。
娘を命懸けで護る母親だ。他の家族を助けられなかったことは、さぞや無念に違いない。
彼女だって被害者であるはずなのに、心無い噂を立てられているのが辛かった。
自分ができることは一体何だろう?
彼女のためにできることは一体……。
傷ついた人を放っておけないその気持ちが、優弥に看護師と患者との一線を越えさせたのかもしれない。
(⑬へつづく⇓⇓)
