相沢ハルが死んだ日。④【創作大賞2025】
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※この小説では、時間軸が過去に向かって進みます。
※最初から読んでも最後から読んでもストーリーをお楽しみいただけます。
2025年6月30日
「里美さん、奇跡的に目を覚ましましたよ!」
担当看護師からの興奮冷めやらぬ電話を受け、優弥は伸弥を連れて、久しぶりに見覚えのある病院を訪れていた。
東海病院。この病院を訪れる時、いつも優弥は憂鬱な気分に押しつぶされそうになる。
過去の暗闇と対決するような場所。
定期的に行く必要があるとはいえ、訪問予定があるだけで、数日前から気が滅入りそうになる。
せめてもの救いは、病院が美しい海辺に近い立地であることだろう。
四年間、意識の戻らなかった妻。
伸弥を産んだ後、重度の産後うつになった彼女は、ある夜、優弥に暴言を吐き捨てて家を抜け出し、トラックの前に飛び出した。
幸いにして一命は取り留めたが、脳の大部分に損傷を受け、遷延性意識障害、つまりは植物状態のまま眠っていた。
一説によれば、この状況で数年も生き長らえることが難しいという。
「里美さん、よく頑張られていますね。彼女がここまで生きていることが奇跡です」
そう担当医師からは話を聞いていた。
ただ、産後うつとはいえ、優弥に対して、数々の人格否定とも言える暴言を吐いていた妻だ。
「この役立たず」
「たいしたことできねえくせに、父親ヅラして気持ち悪いんだよ」
「あんたなんかと結婚しなきゃよかった。人生間違えたわ」
「死ねよ」
いくらノイローゼ末期とはいえ、優弥に対して言って許される言葉の限度を超えていたと思う。
正直なところ、目の前でトラックに飛び出されたことも、さらには四年間も意識不明な状態になっていることにも困惑していた。
それでも、伸弥にとってはたった一人の母親だと思い、グッとこらえて入院補助や伸弥の面会に務めていた。
彼女が再び目を覚ます日があるのかは誰も分からない。
そして、延命治療費の方もかなり厳しい状態になってきている。
最近では父の認知症が進み、入院の可能性が出て来た。
息子の伸弥はADHDの診断を受け、定期的に療育施設を訪れている。
自分も看護師として病院勤務しており、時々睡眠障害のために通院していることを考えると、松村家はつくづく病院に縁のある家系だな、と優弥は自虐気味に考えていた。
自分だけは倒れるわけにはいかない。
その想いだけで、この数年間、何とか生きて来た。
正直なところ、妻の意識が戻り、意思疎通を図ることは諦めていた。
もう四年も経つのだし、よっぽどのことがない限り難しいだろう、というのが、医者と優弥たちの共通認識となっていたのだ。
そんな出口のない空洞の四年の間に、出会ったのがハルだった。
ハルとの日々は、重苦しい優弥の日々に、軽やかな楽しみを与えてくれていた。
里美の存在は、ハルには敢えて伝えていなかった。
だが、里美の意識が戻るということは、ハルとの関係を整理する必要が出てきていた。
大変申し訳ないことだが、優弥は嬉しい気持ちよりも前に、当惑していた。
ハルに何と言おう?
話していなかったことは、罪になるのだろうか。
ハルの心は、大丈夫だろうか。
戸籍上の妻が目を覚ましたというのに、ハルのことばかり想いが行ってしまう自分は、罪深い人間なのかもしれない。
こんな時、どう生きるべきかが分かる人間になりたいものだ。
「こちらです」
看護師に誘導され、優弥は伸弥の手を引きながら、恐る恐る、里美のいる病室に入った。
確かに、今までと違った兆候が見られる。
里美の目が開いていた。ほんの少しではあるが、指が動いている。
こちらの様子に気づくでもなく、宙を見つめている。
「里美……?」
声をかけてみたが、里美の目は宙を見つめたまま、返事は帰ってこない。
「お母さん?お母さん!」
伸弥がベッドに近づき、声を張り上げる。
が、里美から答えが返ってくることはない。
そこへ、看護師が躊躇いがちに言葉を添える。
「意識が戻ったといっても、お話できる状態になるには時間がかかるでしょう。あまりがっかりなされないでくださいね」
面会はあっけなく終わった。
優弥は自分でもこの先、どうしたら良いかが分からなかった。
自分は一体何がしたい?
人として倫理的に正しい道って何だ?
どの選択をしても、誰かを傷つけてしまう。
何のために生きている?
……そうだ、鎌倉に行こう。
優弥のなかで、唐突な小旅行計画が、パチンと閃いていた。
すべての人間関係から、逃れたかった。
2025年6月13日
「わぁ、キレイだね」
百貨店のショーウィンドウに飾られた新作ペアリングを、ハルは小動物のように目をキラキラさせて見つめていた。
やはり女子なのだろう。指輪に一定の憧れがあるというのがすぐに見て取れた。
「もうすぐ誕生日だし、指輪でも買う?」
釘付けになっているハルの様子を愛しく思い、優弥は思いきってプレゼントすることにした。
ハルは「え?」と驚いた目で優弥を見上げている。
「……いいの?」
「うん、いいよ」
ハルの当惑した表情がふっと緩み、少女のように屈託のない微笑みが広がった。
本当はそんな出費のできる状態ではないのだが、出会ってから三年目になる誕生日だ。支えてくれたことへの感謝の気持ちを、優弥はどうしても表したかった。
「いらっしゃいませ」
少し緊張気味のハルの手を引いて、ジュエリー店内に入る。
すぐにお目当てのデザインが見つかった。
「このデザインとかお洒落じゃない?気になってるんでしょう?」
ハルが先ほど見つめていたペアリングは、細身のシルエットの中にさりげなくダイヤモンドが入っている。
「うん、綺麗。『二人の想いを繋ぐデザイン』だって」
「たしかに、そろそろお揃いのものがあってもいい頃かもしれないね」
「ほんとに?あ、もしかして、婚約指輪的な?」
「まあ、ハルにそういう願望があるならどうぞ」
「ホントにいいの?」
「いいよ。記念だし。ブルガリとかじゃなくてごめんだけど」
「いや、全然いいよ。優弥がジュエリー系を買ってくれることが奇跡でしょ」
「何それ」
「お待たせいたしました。奥の御席へどうぞ」
店員に店の奥へと通され、用意されたソファに座る。
「こちらのリングですが、ペアでご使用されますか?」
「ええ、まあ、そういうとこで」
「記念にお二人のイニシャルやメッセージを入れることもできますが、いかがいたしましょう?」
「じゃあ、『From Y to H』で」
慌ててハルも付け加える。
「あ、じゃあ、もう一つは『From H to Y』で」
「かしこまりました。刻印してまいりますので、少々お待ちください」
店員はニッコリと会釈し、奥へと去って行く。
ハルは落ち着かずにきょろきょろと店内を見渡していた。
狐につままれたような、不思議な気持ちだった。
指輪というと、何か神聖な気持ちになりそうなものだ。
将来のことをあまり言わない優弥にしては珍しい行動だが、時にはこんなことがあってもいいのかもしれない。
とりあえず、気分が変わらないうちに、いただけるならいただこうかしら。
お金は大丈夫なのだろうか?
まあ、そんなことをこの場で質問するのは野暮だろう、と静かにすることにしたが、ほんの少しだけ優弥の状況を聞いてみた。
「サックスのメンテナンス代とか、養育費とか大丈夫?」
「それとこれは別。まあ、どちらも未来への投資ってところは一緒だけどね」
優弥はいたずらっぽく、ニヤリと笑った。
我ながら、こんな大胆な行動に出るとは思ってもいなかった。
もう、誰とも必要以上に責任の生じる関係にはならない。
そう決めていたはずの優弥だったが、ハルには一歩踏み出さずにはいられない、強く惹かれる何かがあった。
(⑤につづく)⇓⇓
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