『法の外の生命線 探偵、柊雪人(ひいらぎゆきと)の受難』 【第3幕:絶望】システムの限界と、迫る決行
【第3幕:絶望】システムの限界と、迫る決行
「――おい! 止めろ! ! まだ送信するな!! 」
パトカーを見送った直後、柊は軽自動車に飛び乗り、怒鳴るような声で事務所の若手調査員に電話をかけていた。受話器の向こうで、若手が怪訝そうな声を返す。
「え? 何をですか? 柊さん、さっき業務システムに『調査完了』のチェック入れましたよね。うちのシステム、完了フラグが立ったら自動で依頼人に報告メールが飛ぶ仕様ですよ? ……あ、今ちょうど送信完了になりました」
頭を殴られたような衝撃が柊を襲った。
「……送信された、のか? 」
「はい。先ほど、藤村さんの登録アドレス宛に『桜美咲の潜伏先住所・写真付き報告書』が添付されて自動送信されましたが……何か不都合でも? 」
最悪の状況に愕然とする。「終わった」、と。
指先が急速に冷たくなっていく。柊は若手の問いに答えず、スマートフォンの通話を一方的に切った。
最悪の牙が、美咲に向けて放たれてしまった。情報が藤村の手に渡った以上、一刻の猶予もない。柊はハンドルを強く握りしめ、パトカーが消えた方向とは逆の県警本部の方向へと車を急発進させた。
一時間後。柊は県警本部の「総合相談窓口」の、アクリル板で仕切られた狭い相談室にいた。
対応したのは、いかにも定年間際といった風情の、頭の禿げ上がったベテランの相談員だった。
「――ですからね、柊さん。あなたが仰っていることは、あまりにも突飛すぎるんですよ」
相談員は、柊が差し出した名刺と、手書きのメモを老眼鏡越しに見つめながら、困ったように溜息をついた。
「現役の警察官……葛西でしたっけ? それが、他人の身分証を偽造して、探偵にストーカー行為のための依頼をした? しかも、その警察官が女性を殺害しようとしていると? ……あのねぇ、私達警察の人間がそんなことをするはずがない、とは言いませんよ。ですがね、現時点でその『葛西巡査部長』が、その女性に対して何か具体的な実害を与えたんですか? 殴られたとか、部屋に押し入られたとか」
「実害が出てからじゃ遅いんだ!」
柊は思わず強く机を叩いた。
「相手は本物の個人情報をいくらでも手に入れられる現役の警官だ! 私の事務所のシステムから、たった今! 被害者の住所がそいつに渡ってしまった。数日以内に間違いなく何かが起きる! 」
「落ち着いてください、柊さん」
相談員のトーンは、まるで狂人をなだめるかのように冷ややかだった。
「あなたは探偵だ。守秘義務があるはずの依頼人の情報を、こうして警察に持ち込んでいる。見方を変えればね、探偵業者が依頼人との間に何らかのトラブルを起こし、腹いせにその依頼人を陥れるために『現役警察官のストーカーだ』と虚偽の通報をしてきている可能性だってあるわけです。身内の人間を調べるにはね、それ相応の『確たる証拠』が必要なんですよ。あなたの『勘』だけでは、本部は動かせない」
「証拠なら、あの男が偽名を使って書いた誓約書がある! 」
「ですが、身分証のコピーは本物の別人のものなんでしょう? 筆跡鑑定をやるにしても、それだけで現役の警察官をストーカー容疑で強制捜査することなんてできません。現時点では、ただの『男女間の金銭トラブル』の域を出ない。まずは当事者同士で話し合っていただくか、弁護士を通してください」
マニュアル通りの、完璧な拒絶だった。
警察という組織は、身内の不祥事に対して異常なほど腰が重い。ましてや、まだ何も「事件」が起きていない段階では、探偵の告発など「悪質な嫌がらせ」として処理されるのがオチだった。
下手にこれ以上騒げば、葛西の耳に届き、「職務上の捜査で探偵を使っただけだ」と言い逃れの工作をされるか、組織的に揉み消されるのが目に見えている。
市民を守るはずの精巧なシステムが、身内を守るための巨大な防壁へと裏返っている。
誰も動かない。誰も動けない。動こうとすらしない。
西日に照らされた警察署の重苦しい建物を仰ぎ見ながら、柊は、自分が直面している「司法の限界」という底なしの絶望に、激しい眩暈を覚えるのだった。
柊は警察に通報しようとするが、葛西は身内。かつ、現時点で「実害(暴力や不法侵入)」が起きていないため、警察は「探偵と一般人の間のトラブルの可能性もある」として動かない。
探偵には厳格な守秘義務(探偵業法第10条)があり、弁護士のような特権(押収拒絶権)もない。下手に動けば、葛西に職務上の捜査と言い逃れされるか、揉み消されてしまう。
柊は「被害が出るまで誰も動けない」という司法とシステムの限界に直面したのだった。
「被害者になるかもしれない人間に、寄り添おうともしないのか――」
◇ ◇ ◇
「あ、所長おかえりなさい。今日はお早いですね」
「ああ――」
探偵の理念は「依頼者への誠実さと寄り添い」「徹底した秘密義務」「事実の追求」そして、「法令遵守と社会的責任」だ。
犯してしまった致命的なミスに絶望しながらも、美咲を救うべく頭をフル回転させ、この最悪の事態を回避する為の策を練る。
一刻を争う状況だった。すぐさま行動に移さなければならない。ここまで葛西が入念に計画をしていたということは、すなわち美咲の命が危うい、と言う事だ。
まだ、こちらの動きを知られていない可能性は高い。
その日の深夜。柊は、再びあの他県にある古びたアパートの前にいた。
昼間の茹だるような暑さは消え去り、代わりに不気味なほど冷たい夜気が、木造の建物を包み込んでいる。
柊は、自分が最悪の「裏切り者」であることを自覚していた。自分の指先ひとつで、この部屋の「鍵」が、怪物の手に渡ってしまったのだ。せめて、葛西がここに現れる前に、彼女をここから逃がさなければならない。
軋む外階段を静かに上り、二〇二号室の前に立つ。インターホンは鳴らさず、ドアを三回、小さくノックした。
「……桜美咲さん。夜分にすみません、探偵の柊といいます」
返事はなかった。しかし、ドアの向こうで張り詰めた気配が微かに動いたのを柊の耳は捉えていた。柊はドア越しに、声を潜めて語りかけた。
「あなたを追ってきた探偵です。ですが、今はあなたを害するつもりはありません。……あなたの『前の交際相手』を名乗る男から依頼を受けました。地味で、物腰の柔らかい男です。ですが、先ほど私は、あの男が制服を着てパトカーに乗る姿を見ました。所轄の、葛西という巡査部長ですね? 」
その名を口にした瞬間、ドアの向こうの空気が凍りついたように静まり返った。
数秒の後、ガチャリと内鍵が外れる重い音が響いた。ゆっくりと開いたドアの隙間から、暗がりの防犯チェーン越しに、美咲が顔を覗かせた。
昼間見たフードは深く被ったままだが、その隙間から見える瞳には、恐怖を通り越した全てを諦めたような酷い冷徹さが宿っていた。
「……やっぱり、見つかってしまったんですね」
美咲の声は、掠れていたが驚くほど冷静だった。だが、その目元には明らかな疲労の色と深い陰を落としていた。
「探偵さん。あなたを責めるつもりはありません。プロを雇われたら、私に勝ち目なんてない。そんなことわかっていました。……でも、一つだけ教えて。あの人は、もうすぐここに来るの? 」
「私の事務所のシステムで、今日の夕方、この場所の住所が自動で送信されてしまいました。おそらく、次の彼の休みか、勤務の合間に動くはずです。決行まであと数日もない。……美咲さん、今すぐ荷物をまとめてここを出てください。今度は私が、彼の足がつかない安全な避難先を手配します。今度こそ、絶対に“足跡”を残さない場所を――」
捲し立てるように急かす柊を、美咲はただ、酷く冷めた目で見つめていた。そして、自嘲気味に小さく鼻で笑った。
「別の場所? そんなの意味ないですよ。私がどこへ逃げても、あの人は絶対に私を見つけ出す。だって、あの人は警察官で……この国の『システム』は、そういう風にできているんですから」
「どういうことですか? 」
柊が眉をひそめると、美咲は防犯チェーンを外し、柊を部屋の中へと招き入れた。
ワンルームの狭い室内には、最低限の家具と、数台のパソコンがあるだけだった。カーテンは遮光のものが完全に閉め切られ、部屋の明かりはデスクライト一つだけ。彼女がどれほど社会の光を避けて生きてきたかが一目でわかった。
美咲はパイプ椅子に深く腰掛け、小さく息を吐き出しながら、語り始めた。
「二年前、あの人の異常さに気づいたんです。最初はただの、嫉妬深い恋人だと思っていました。でも、私のスケジュールを分単位で把握している。おかしいと思ってスマホを調べたら、警察が使うような高度な追跡アプリが仕込まれていました。別れを切り出したら、あの人は笑いながら言ったんです。『僕から逃げられると思っているの? 』って」
美咲の細い指先が、膝の上でかすかに震えていた。
「怖くなって、私は隣の県の大きな警察署の『ストーカー相談窓口』に駆け込みました。スマホの履歴も、脅迫めいたメッセージの画面も全部見せて、必死に訴えたんです。相手が現役の警察官だから、本当に怖いんですって。……対応した警察官は、すごく親身になって話を聴いてくれました。『大丈夫ですよ、私たちが守りますから』って。被害届の手続きをして、対策を講じると約束してくれた。私は、ようやく救われたと思いました。……それが、すべての間違いだったんです」
美咲はそこで言葉を切り、デスクライトの薄暗い光をじっと見つめた。その横顔には、仄暗い絶望が張り付いていた。
「私が警察署を出た、そのわずか二時間後でした。私の携帯に、あの人から電話がかかってきたんです。出たら、あの人はものすごく愉しそうな声で言いました。
『美咲、さっき〇〇署の生活安全課に行ってたんだって? 担当した〇〇って奴、頼りなさそうな顔してただろ。僕の文句、いっぱい言えた? 』って」
柊は、息をすることすら忘れていた。背筋に激しい寒気が駆け抜ける。
「警察のシステムにはね、市民からストーカーやDVの相談を受けると、その内容や被害者の情報、現在の連絡先、避難先の情報まで、すべてが『内部データベース』に記録されるんです。そして、そのデータベースは……現役の警察官であれば、自分の管轄じゃなくても、職務用端末からいつでも、誰でも、合法的にアクセスできるんですよ」
美咲の声が、小さく震える。
「あの人は、私が別の警察署に助けを求めたという『相談実績』のアラートを組織内のシステムで感知したんです。そして、職権を使ってそのログを開き、私が警察にだけ教えた『新しい引っ越し先』も、『新しく変えたばかりの電話番号』も、すべて手に入れた。……警察に助けてもらおうとすればするほど、私の最新の情報が、あの人の端末にリアルタイムでアップデートされるんです。私が国を信じて行った『公的な手続き』のすべてが、あの人に私の居場所を教える、一番確実な罠になっていた。これが、この国のシステムのバグです。ほんとうの話しなんですよ、これ」
柊は、言葉を失って立ち尽くしていた。
警察という巨大な組織が、市民を守るために作り上げた精緻なネットワーク。被害者を救うための相談記録。
それが、身内の「捕食者」にとっては、これ以上ない完璧な『合法の逆探知ツール』と化していたのだ。美咲がどれだけデジタル足跡を消し、グレーな業者を使って闇に潜んでも、たった一度「警察」という公的な光に触れた瞬間、その位置情報はストーカーの元へ自動で送信される。
「だから、警察には二度と頼らない。相談した瞬間に、私が今どこにいるかが、あの人のスマホに通知されるから」
美咲は、感情の消えた目で柊を見上げた。
「探偵さん。あなた、私を別の場所に逃がすって言いましたよね。でも、その移動中に私が事故に遭ったら? 体調を崩して救急車を呼んだら? ……病院も、救急も、すべての公的な記録は警察と繋がっている。あの人がその気になれば、数クリックで私の居場所は上書きされるんです」
深夜の狭いワンルームに、重苦しい沈黙が満ちていく。
柊は、自分が対峙している絶望の深さを、本当の意味で理解した。
法は動かないのではない。法と組織の「正しいシステム」そのものが、美咲を絞め殺す絞首刑の縄として機能しているのだ。
美咲を救う手段は、もう、公的な世界のどこにも残されていなかった。
◇ ◇ ◇
美咲のアパートを後にしたその足で、柊は狂ったように動き始めた。
警察が動かないなら、自分の「裏のネットワーク」をフル回転させて怪物の動向を監視するしかない。探偵としてのキャリアで築いた地元の情報屋、グレーなレンタカー業者、夜間救急の事務員に至るまで、手当たり次第に金を掴ませ、網を張った。
そして、葛西に情報が渡ってから四十八時間後。
柊のスマートフォンに、新宿の違法民泊や裏レンタカーを仲介している男から、一本の連絡が入る。
『……おい柊、お前の言ってた「サツの男」、ビンゴだ。今さっき、うちの系列のタコ部屋(足のつかない闇レンタカー)で白のワンボックスを手配していったぞ。偽名の免許証、それもお前が言ってた合成写真のやつだ』
心臓がドクンと強く跳ねた。
(もう、行動に移し始めたか――)
「車種とナンバーは」
『相模ナンバーの白のセレナ。バックドアの右下に擦り傷がある。……それだけじゃねえぞ。その男、うちの若い衆から「手外れ(てはずれ)」を買い叩いていきやがった』
手外れ――裏社会の隠語で、出所が一切不明の、足のつかない犯行道具のことだ。
「……何を買った? 」
『結束バンドの束、プロ用のスタンガン、それと――農薬の成分が入った劇物の小瓶だ。あれは完全に“現場”で使う道具だぞ。おい柊、あのサツ、本気だぞ。拉致るか、その場で殺る気だ』
耳の奥で、ドクドクと不快な血流の音が響く。
葛西の目的は、美咲を連れ去るか、あるいはその場で無理心中を遂げるか……。
いや……、自殺にみせかけた殺害の可能性のほうが高いだろう。葛西はそんな人物だ。
あの男は蛇のように執念深く、自己中心的で冷酷な人物だ。
用意周到な行動は、それを証明している。
支給された警察の装備品(拳銃や手錠)を使えば、組織的な追跡を受けてすぐに足がつく。だからこそ奴は、現場の警官の知識をフルに悪用し、警察の捜査網に引っかからない「民間人の犯罪」を低俗に模倣しているのだ。
さらに、柊が別のルートから手に入れた、葛西が勤務する所轄署のシフト表が頭をよぎる。
――明後日の木曜日。葛西は「非番」になっている。
間違いない。決行は明後日の深夜。残り時間は、四十八時間を切っていた。
柊は夜の首都高速を走りながら、おかしくなりそうな頭を必死に抑えていた。
今から葛西の前に立ちはだかって「すべて知っている」と告げたところで、相手は現役の警察官だ。「探偵が不当な脅迫をしてきた」と職権で柊を現行犯逮捕し、その隙に美咲の元へ向かうだろう。
美咲を今すぐ別の場所に移動させても、奴がレンタカーでアパートに乗り込み、部屋が空だと知れば、即座に警察のデータベースを叩いて美咲の「次の足跡」を逆探知する。そうなれば、今度こそ完全に逃げ場を失う。
通報しても無視され、逃げても追いつかれる。
司法も、警察組織も、美咲の首に絞首刑の縄がかけられ、その踏み台が外される「その瞬間」まで、絶対に動かない。
(クソがっ……! )
ハンドルを握る柊の両手に、じっとりと脂汗が滲む。
目の前のフロントガラスに、深夜二時のコインランドリーで、プロの死角を縫うように歩いていた美咲の、全てを諦めたような瞳がフラッシュバックした。
『この国のシステムは、そういう風にできているんですから』
正攻法は、完全に塞がれた。
美咲を救う方法は、もう一つしか残されていない。
葛西が「法の網」を完璧にかいくぐって美咲を殺しに来るのなら、自分もまた、すべての社会的地位、探偵の看板、そして「法の内側の人間」としての人生を捨てるしかない。
奴が警察のルールを逆手に取る怪物なら、こちらは「法の外側」で、その怪物を狩る「プロ」になる。
車窓を流れる街灯の光が、柊の顔を無機質に照らし出す。
彼の目から、迷いが完全に消えていた。
柊はスマートフォンを取り出すと、美咲ではなく、ある「裏の繋がりのある男」の番号をタップした。
「柊だ。……大至急、用意してほしいものがある。警察の鑑識でも追えない、最悪の罠を仕掛ける道具だ」
決行の夜まで、あと二日――。
柊は探偵として、自ら泥をかぶり、法の外へと足を踏み入れる覚悟を決めた。
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