『法の外の生命線 探偵、柊雪人(ひいらぎゆきと)の受難』 【第2幕:葛藤】現場の矛盾と、走る戦慄
【第2幕:葛藤】現場の矛盾と、走る戦慄
他県へ逃亡した可能性も考慮しつつ、借用書に書かれた前住所から痕を追った。
人間がその足跡を完全に断つのは、現代社会において容易ではない。だが、今回のターゲットである「桜 美咲」という女の徹底ぶりは、柊の十数年からなる探偵キャリアの中でも三指に入るものだった。
「金を貸したまま逃げられた。裁判を起こすために住所を知りたい」、そう数日前、事務所にやってきたあの物腰の柔らかい男の、困り果てた顔が浮かぶ。
提示された免許証も、誓約書のサインも私立探偵法に基づく審査をクリアした正当な理由のある、よくある身元調査の依頼――。
柊はそう疑わずに調査を引き受けた。
だが、いざ始めてみると異常だった。
住民票の閲覧制限、携帯電話の解約、SNSの全削除。普通ならここで手詰まりになる。柊でなければここで調査終了だろう。
しかし柊は、「調べ屋(情報屋)」を通し、彼女が重度の喘息持ちであること、そして「webデザイン」のスキルがある――という僅かな手がかりを得たことで、彼女の「生活の生命線」を手繰り寄せたのだ。
そこからは早かった。通常業務通りの速度で美咲の個人情報を次々とひっぱりだしていく。
身分証不要、手渡し現金支給のグレーなwebデザインの仲介業者。その帳簿を、かつての貸しを原資に覗き見させてもらい、彼女が偽名を使ってリモートで仕事を請け負い、報酬を「私書箱」経由の現金書留で受け取っていることを突き止めた。
その私書箱がある地方都市へ飛び、一週間の張り込みを経て、柊はようやく、この二階建ての古びたアパートにたどり着いたのだ。
(ついに見つけた。あとは潜伏先の確認(居住実態の証拠)を押さえれば、依頼主への報告書が完成する――)
しかし、異変に気づいたのは、深夜二時を回った頃だった。
初夏の生ぬるい夜気の中、軽自動車の運転席からカメラのレンズを向けた柊は、ファインダー越しにわずかに眉をひそめた。
アパートから出てきた美咲は、地味なフード付きのパーカーに、深く被ったキャップという姿で、手には洗濯物の入ったプラスチックの大きなカゴを持っていた。
一見すれば、どこにでもいる「夜型のアパート住まい」の女性だ。だが、彼女の動きには、二十代の一般女性にはおよそ不釣り合いな「染みついた警戒」があった。
アパートの階段を降りる際も彼女は決して足音を立てない。
まるで何かに怯えているような挙動で、外へ出る一歩手前で、完全に影に身を潜めたまま、街路灯の光が届かない暗闇のルートを視線で入念になぞる。
歩き出してからもそうだった。スマートフォンを手に持ってはいるが、画面は暗いまま。位置情報を掴ませないために、電源ごと落とされている。
(何かが……おかしい)
柊のプロとしての嗅覚……、そして元警察官だった頃の勘が、奇妙なノイズを捉えていた。
ただの一般人が、借金取りや元カレを怖がって逃げているだけの動きではない。
彼女の歩き方は、まるで「警察の捜査網」や「プロの追跡」をあらかじめ想定し、その死角を正確に縫うように動いているのだ。
目的地のコインランドリーに入る直前、彼女は不自然に足を止め、ガラス越しに店内の反射を利用して背後を確認した。
柊がわずかに身を引くと同時に、彼女の鋭い視線が、柊の黒い軽自動車のフロントガラスをまっすぐかすめていく。
背中に、冷たい汗が流れた。
そして、あの大人しそうで、地味な依頼人の男の顔が、再び脳裏をよぎる。
(あの男は、本当にただの『金を貸した男』なのか……? 彼女の警戒の仕方は異常だ)
美咲が乾燥機に洗濯物を放り込むのを見届けながら、柊の手は、いつもならすぐに回すはずの「調査完了」の電話ボタンの上で、ぴたりと止まっていた。
(本当にこのボタンを押していいのか? )
警察官だった頃の直感が脳内でアラートのように鳴り響く。「押すな! 」と。
「そうだ。まだ見つけたばかりだ。もう少し様子をみるべきだな」
◇ ◇ ◇
「――桜美咲の足取りですが、少し手こずっています」
都内の寂れた喫茶店で柊は、向かいに座る依頼人の男――藤村に嘘の進捗を告げ、琥珀色の珈琲に砂糖を落とした。
藤村は相変わらず、サイズの合っていない地味な既製服に身を包み、いかにもおとなしそうな一般人の顔で「そうですか……」と肩を落とした。
「あの、やっぱり難しいんでしょうか。裁判を起こしたくても、彼女の住所がわからないと、僕の貸したお金が……」
すがるような目。掠れた声。完璧な被害者のそれだった。
だが、今の柊の目には、その「完璧さ」そのものが不自然極まりないノイズとして映り始めていた。そして、一度火のついたノイズは消えるどころか、増していくばかりだ。
「いえ、目星はついています。ただ、妙なんですよ」
柊は珈琲カップを置き、わざとゆっくりと言葉を紡いだ。
「彼女の警戒心が、一般人のそれじゃない。スマホは常時機内モード、尾行を撒くための死角を完全に把握している。まるで……警察の捜査網か、プロの追跡から逃げ慣れているような動きだったんです。藤村さん、彼女は本当にただの元交際相手ですか?」
そう言って柊は揺さぶりをかけた。
その瞬間、藤村の目元が微かにピクリと跳ねた。
おとなしい被害者の仮面の奥から、一瞬だけ、すべてを見透かすような冷徹で鋭い「捕食者の目」が覗いた。
だが、それも一瞬で顔を潜める。藤村はすぐに困惑したように笑うと、
「さあ、僕にはよくわかりませんが……」と首を横に小さく振った。だが、あの「一瞬の変貌」を、柊は見逃さなかった。
(間違いない。この男は何かを隠している。それも、致命的な何かを)
「……そうですか。では、引き続き洗ってみます」
店を出て藤村を見送った後、柊はすぐに自分の軽自動車に乗り込んだ。
ここからは「依頼の遂行」ではない。ノイズの正体を確かめる為、探偵のプライドと身の安全を賭けた、依頼人の「逆尾行」だった。
藤村は自分が『追う側』だと確信しているのだろう。バックミラーを気にする素振りすらなく、大人しい足取りで地下鉄の駅へと消え、いくつかの路線を乗り換えていった。柊は距離を保ち、人混みに紛れながら、その背中をじっと見据え続けた。
やがて、藤村がある地方都市の駅で降りた。
そこは、都心から少し離れた、古くからの住宅街と官公庁が並ぶ街だった。
藤村は駅から十分ほど歩き、周囲を気にする風でもなく、ある建物の敷地へと入っていった。
柊は足を止め、電柱の陰からその建物を見上げて、息を呑んだ。
高規格のコンクリート壁。屋上に見える無線アンテナ。そして正面に掲げられた、見覚えのある桜の代紋。
――所轄の警察署だった。
(なぜ、一般人の男が警察署へ入っていく……?)
まさか、被害届でも出しに来たのか? そう一瞬考えたが、藤村が向かったのは一般の受付窓口がある正面玄関ではなかった。
彼は慣れた足取りで、敷地脇にある「職員専用」の通用口へ近づき、ポケットから取り出したセキュリティカードをリーダーにかざした。電子音が鳴り、扉が開く。藤村はその奥へと消えていった。
柊の心臓が、早鐘を打ち始める。
冷たい汗が背中を伝い、嫌な予感が脳内を支配していく。
柊は警察署の裏手が見えるコインパーキングに身を潜め、望遠レンズを構えた。ターゲットが再び現れるのを、祈るような気持ちで待ち続ける。
三十分後。
職員用玄関の扉が開き、一人の男が出てきた。
柊はレンズのピントを合わせた。ファインダーに映ったその姿を見た瞬間、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
そこにいたのは、先ほどまでの冴えない一般人の男ではなかった。
折り目の正しくついた濃紺の制服。
胸元に光る階級章――巡査部長。
そして腰の帯革には、警察手帳と、黒光りする本物の拳銃が収まった「サクラ M360J」が装備されていた。
「うそだろ……」
柊の口から、乾いた声が漏れた。想像だにしていなかった展開に思わず口元を手で覆う。
藤村と名乗った男は、同僚の警察官と親しげに二言三言言葉を交わすと、署の前に停まっていたパトカーの運転席へと乗り込んだ。先ほど喫茶店で見せたあの「冷徹な目」のまま、慣れた手つきでハンドルを握り、パトカーを走らせていく。
その時、すべてのピースが、最悪の形で噛み合ってしまった。
美咲が怯えていた理由。国家権力クラスの追跡を想定したあの異常な警戒心。
そして、なぜ藤村が探偵法をすり抜ける完璧な偽造身分証を用意できたのか。現場の警察官なら、職務質問や事件処理で一般人の個人情報を手に入れるなど造作もないことだ。
あの男は、市民を守るべき「現役の警察官」であり、同時に職権をフルに悪用して女を追い詰める「怪物(ストーカー)」だったのだ。
そして自分は――その怪物の手足となり、怯える被害者の居場所を完全に突き止めてしまった。
手元にあるスマートフォンが、ポケットの中で重い塊のように感じられた。
自分が犯してしまった取り返しのつかない過ちの大きさに、柊はただ、激しい戦慄に震えるしかなかった。
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