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『法の外の生命線 探偵、柊雪人(ひいらぎゆきと)の受難』 【第4幕:決戦】探偵の覚悟と、命がけの罠

【第4幕:決戦】探偵の覚悟と、命がけの罠



 決行のその日は天候が悪く、激しい雨が、他県の安アパートのトタン屋根を叩いていた。
 深夜二時。周囲の目が減る時間を選んで、ひいらぎはアパートから五十メートルほど離れたワンボックスカーの車内にいた。助手席に置いたノートパソコンの画面には、美咲の部屋、二〇二号室に仕掛けた隠しカメラの映像がリアルタイムで映し出されている。

 美咲自身は、柊が手配した街外れの寂れたビジネスホテルの一室に避難させてある。この部屋に葛西が踏み込み、偽装された毛布を剥ぎ取った瞬間、その不法侵入の映像と、これまでの偽造身分証などの証拠一式が、週刊誌のリーク窓口やSNSへ一斉に自動送信される手はずになっていた。

 正面突破の通用しない国家権力を保持する葛西に対し、ひいらぎが選んだ「社会的抹殺」の罠。あとは、怪物が罠にかかるのを待つだけだった。

 だが――画面の中の部屋は、不気味なほど静まり返ったまま、予定の時刻を過ぎても一向に動く気配がない。

(……遅い。何かがおかしい)

 プロの勘が、心臓を不快に揺らす。やがて、言いようのない不吉な予感が全身を支配した。
 葛西が手配した白のレンタカーは、確かに一時間前にこの付近の防犯カメラに映っていたはずだった。職務シフトを見ても、奴が動くならこの時間帯しかない。
​ その時、柊のスマートフォンが震えた。
 画面に表示されたのは、美咲を避難させているビジネスホテルの客室の番号だった。慌てて通話ボタンをスライドさせる。

「美咲さん! 何かありましたか!? 」

『――あぁ、ひいらぎさん? 彼女みさきなら、今ちょっと手が離せないみたいだよ』

 受話器から聞こえてきたのは、美咲の声ではなかった。
 低く、どこか酷くたのしげな、あの喫茶店で聞いた「物腰の柔らかい男」の――いや、仮面を脱ぎ捨てた葛西かさいの声だった。
​ 柊の全身の血の気が一瞬で引いた。

「葛西……! なぜそこにいる!! 」

『探偵さん、僕を素人だとでも思ったの?』

 受話器の向こうで、葛西が小さく笑う声がする。その背後で、衣服が擦れる音と、猿ぐつわを嵌められた美咲の「んぐ、んー!」という必死の悲鳴が微かに漏れ聞こえた。

『お前ら探偵が使うグレーなネットワークなんてね、警察(うち)の生活安全課やサイバー課がいつも目を光らせているゴミ溜めみたいなものなんだよ。お前が裏でどの情報屋に金を掴ませて、どこのビジネスホテルを偽名で押さえたか。職務用端末からログをちょっと手繰たぐれば、筒抜けなんだよね』

 葛西の声から、温度が消える。

『アパートにカメラなんか仕掛けて、面白い悪戯を考えていたみたいだけどさ。……残念だったね。警察官を敵に回すっていうのは、国家のインフラすべてを敵に回すってことなんだよ』

「待て、葛西!  彼女には手を出すな! 」

​『明日の朝、僕は普通に制服を着て交番に出勤する。彼女は「精神的に不安定になって自ら失踪した」ことになる。……じゃあね、探偵さん。仕事の邪魔をしたペナルティ、今からそっちの車に届くから』
​ 
ツーッ、ツー、と無機質な切断音が響く。
 
 同時に、ひいらぎが乗るワンボックスカーのフロントガラスを、凄まじい光が照らし出した。
​ いつの間にか車の真後ろに、一台の車両が音もなく急接近していたのだ。バックミラー越しに見えたのは、赤色灯を激しく明滅させた、本物のパトカーの姿だった。
 スピーカーから、葛西の「同僚」である警察官の、容赦のない怒号が響き渡る。

『前のワンボックス、運転手!  エンジンを切って両手を上げろ!! 』
​ 
 葛西は、柊を動けなくするために、身内の警察官に「不審車両がいる」と通報を入れてハメたのだ。
 情報力も、組織の動員力も、すべてにおいて怪物かさいのほうが一枚上手だった。
​ 秒読み段階だったタイムリミットは、一瞬にしてゼロになった。美咲の命が、風前の灯火の前に晒されている。
 ひいらぎは怒号を上げる背後のパトカーをバックミラーで睨みつけると、ギアをローに叩き込み、アクセルを限界まで踏み込んだ。
​ 激しいタイヤの摩擦音とともに、柊の車が雨の夜の闇へと狂ったように走り出す。公権力から逃亡する「犯罪者」へと身を落とした瞬間だった。
 
 追尾してくるパトカーの赤色灯が、バックミラーの中で激しく明滅し、サイレンの音が雨音を切り裂いていく。
 柊は歯を食いしばり、十数年の探偵業で叩き込んだ地方都市の「抜け道」の記憶を総動員した。民家の軒先をかすめるような細い私道、街灯すらない農道のぬかるみの中を敢えて走らせる。パトカーの車体が侵入できない狭路へ強引にワンボックスを滑り込ませ、追跡の目を一瞬だけ眩ませる。

 すかさずヘッドライトを消灯し、寂れたコインパーキングの影に車を滑り込ませた。サイレンの音が遠ざかっていくのを確認するや否や、柊はダッシュボードから道具を取り出す。重たいバールを一本ひったくると、雨の夜の街へと飛び出した。

 美咲が囚われているビジネスホテルまでは、ここから走って三分。
 エレベーターを待つ時間すら惜しい。柊は非常階段を駆け上がり、美咲の部屋である三〇五号室の前にたどり着いた。
​ ドアノブに手をかける。施錠されている。柊は迷わず、手にしたバールをドアの隙間に力任せにねじ込んだ。

「おおおおおッ!!! 」

 プロの意地を込めた咆哮とともに、自重をかけてへし折るようにこじ開ける。金属が悲鳴を上げて弾け飛び、柊は勢いよく部屋の中へと転がり込んだ。
​ 薄暗い部屋の奥。
 ベッドの上には、両手両足を太い結束バンドで縛られ、口を粘着テープで塞がれた美咲が横たわっていた。その首筋には、葛西の手によって、すでに透明な劇物の入った注射器が突き立てられようとしていた。

「そこまでだ、葛西……!! 」

 柊がバールを構え、声を荒らげる。
​ 葛西はゆっくりと首を巡らせ、柊を見た。
雨合羽を脱ぎ捨てたその姿は、やはりあのサイズの合わない冴えない一般人の服だった。だが、その顔に浮かぶ笑みは完全に狂気に染まっている。

「本当に来たんだ。しぶといね、探偵さん。でも、遅かったよ」

 葛西は注射器をベッドに放り出すと、腰の後ろから素早く、警察支給品ではない市販の頑強な「特殊警棒」を引き抜いた。引き絞るような風切り音とともに、ジャキンと金属の音をあげ警棒が冷たく伸びる。

「探偵風情が、本物の『プロ』に勝てると思っているのか? 」
​ 
 次の瞬間、葛西の身体が弾むように動いた。

(速い――!!! )
 
 警察学校で叩き込まれ、現場で磨かれたであろう実戦的な逮捕術の動きだ。無駄のない踏み込みから、柊の脳天を目がけて容赦のない一撃が振り下ろされる。
​ ギィィィン! と金属同士が激突する不快な音が室内に響いた。柊はバールで辛うじて受け止めたが、衝撃で両腕の骨が軋み、後ろへよろめいた。
 葛西はその隙を見逃さない。容赦のない前蹴りが柊の腹部にめり込み、柊は壁際まで吹き飛ばされてデスクの椅子をなぎ倒した。

「がはっ……!! 」

 肺の空気を強制的に吐き出させられ、視界がチカチカと明滅する。

「お前たちがやっているのは、ただの覗き見とコソ泥の延長だ」

 葛西は冷酷な足取りで近づいてくる。警棒の先端が、床を擦って耳障りな音を立てる。

「俺たちは国家から暴力を許された●●●●●●●●●●●、本物のプロなんだよ。お前がここで死んでも、俺が『職務質問中に狂暴な探偵に襲われ、正当防衛で無力化した』と言えば、組織は俺を守る。どうやってもお前の負けなんだよ、柊」
​ 
 美咲がベッドの上で、涙を流しながら「んー! んー!」と必死に身をよじっている。
​ 力の差は歴然だった。格闘術の技術も、年齢的な肉体の衰えも、柊が圧倒的に不利。まともにやり合えば、数分と持たずに撲殺される。

(……だがな、クソやろう)

 柊は口の中に溜まった血を床に吐き出し、バールを杖代わりに毅然と立ち上がった。その目は、まだ死んでいなかった。

(綺麗に勝とうなんて、ハナから思っちゃいねえんだよ)

 柊は倒れた椅子の脚を掴むと、それを葛西の顔面に向けて力任せに投げつけた。葛西がそれを警棒で叩き落とした一瞬の隙。柊は姿勢を低くし、肉弾戦を挑むかのように、葛西の懐へと猛然とタックルを仕掛けた――。
 
 道具さえなくなれば、ここからはお互いの実力のみだ。
 
「――がはっ、クソがッ!  」

 柊の捨て身のタックルは、葛西の強固な体幹を捉えた。二人の身体はもつれ合い、ビジネスホテルの安っぽいテレビ台をなぎ倒しながら床へ激突する。
​ 馬乗りになろうとする柊だったが、葛西の対応は冷酷かつ的確だった。
 下からの容赦ない膝蹴りが柊の脇腹をえぐり、鋭い打撃音が響く。柊が苦悶に顔を歪めた隙に、葛西は首筋を掴んで床に叩きつけ、逆に柊の胸元を完全に押さえ込んだ。

「しつこいんだよ!! このクソ探偵が……! 」

 葛西の顔から、さっきまでの余裕が消えていた。髪を振り乱し、完全に「獣」の目になった葛西が、特殊警棒を逆手に持ち替えて柊の顔面に振り下ろそうとする。
​ その刹那、柊はボロボロになった顔で、ニヤリと血に染まった歯を見せて笑った。

「……勝負ありだ、巡査部長」

「何? 」

 葛西が不審に思った瞬間、部屋の中に「ピーーー」という甲高い電子と、ザザッという激しいノイズが響き渡った。
 音の出所は、葛西の腰の後ろ――雨合羽の下に隠されていた、警察支給の本物の「デジタル無線機」だった。

『――おい!  葛西!  聞こえるか!  今お前、どこにいる!? 』

 無線機のスピーカーから、割れんばかりの音量で声が響く。それは、葛西の所属する所轄署の当直長(警部)の声だった。
 さらに、無線からは他のパトカーの警察官たちの驚愕した声や、本部通信指令室の無線が、完全に混線した状態で次々と漏れて聞こえてくる。

『全局、全局! 現在、巡査部長の警察無線ラインから、一般女性の監禁および劇物使用を示唆する音声が、全チャンネルに同時割込みで自動暗号配信されている!  至急、発信元のGPSを特定しろ! 』

 葛西の顔は強張こわばり、動きが完全に凍りついた。

「な……なんだこれは……。なぜ、無線が……」

「お前が……さっき俺と床でもつれ合った時だ……」

 柊は激痛に耐えながら、右手に握られていた小さな『器具』を床に落とした。それは、探偵仲間の裏ルートから手に入れた、特定の周波数を強制同調させてパルスを送り込む、違法な高出力モジュールだった。

「お前は、警察の無線が『完璧に暗号化された強固なシステム』だから、外部からは絶対に傍受も介入もできないと過信していた。……だがな、その『完璧な無線機』の送信ボタンを、外部からの強力な電波で強制的に『押しっぱなし(常時送信)』にして、お前の胸元のマイクに細工をすることに成功したらどうなる? 」

 ひいらぎが、美咲の部屋にいる葛西と通話していたあの時。柊はただ怒鳴っていたわけではなかった。葛西の声を、自分のスマホで『最高音質の録音データ』として完全に記録していたのだ。
 そして、先ほどひいらぎが懐のスイッチを入れた瞬間、その録音データー……葛西が美咲を脅し、自分の犯罪を嬉々として自白していたあの生々しい狂気の音声が、葛西自身の警察無線機を通じて、県警全体の全警察官の耳へとリアルタイムで大爆音で強制配信されたのだ。

「身内の通信なら、お前らの上層部も、サイバー課も、絶対に無視できない。揉み消す間もなく、今、県内すべてのパトカーがお前の『自白』を聞いた。……お前が信じた警察のインフラが、お前を今、完全に包囲したんだよ」

「貴様ぁぁぁぁぁッ!! 」
​ 
 葛西が絶叫し、警棒を振り上げたその瞬間――。
​ バン! と激しい音を立てて部屋のドアが完全に蹴り破られた。
「動くな!  警察だ!  葛西、警棒を捨てろ! 」
 
 なだれ込んできたのは、防刃ベストを着込み、拳銃を構えた本物の機動捜査隊員たちだった。無線ジャックのGPSによって、ホテルの位置は数秒で割り出されていたのだ。
​ 
 部屋を埋め尽くす無数のライト。同僚たちの冷徹な号令。
 葛西はなおも美咲に手を伸ばそうとしたが、背後から三人がかりで床に組み伏せられ、激しい金属音とともに、その両手首に「本物の手錠」がガチリと嵌められた。

「離せ! 俺は警察官だぞ! 職務質問中だ!」
 
 狂ったように吠える葛西は、首元を押し付けられるようにして部屋から引きずり出されていった。
​ 外の雨は、いつの間にか上がっていた。
 柊は救急隊員に肩を貸されながら、ホテルのロビーへ降りてきた。全身アザだらけで、肋骨にひびが入っている。
​ ロビーのソファには、毛布に包まれた美咲が座っていた。
 彼女は柊の姿を見るなり、立ち上がり、深く、深く頭を下げた。その目からは、二年間彼女を縛り付け続けた恐怖の涙が、ようやく枯れるように溢れ出ていた。

「……ひいらぎさん」

「もう、大丈夫です。警察組織のすべての無線にあの音声が流れた。今度こそ、身内の保身すら不可能な『現行犯の怪物』として、奴の警察としての立場は奪われる。二度と、警察のシステムがあなたを追うことはありません」
​ 
 柊は痛む身体を抑えながら、不器用な笑みを浮かべた。

 翌朝、新聞やニュースには『現役警察官、ストーカー容疑で緊急逮捕』の文字が躍るだろう。そして同時に、違法無線電波を使用した、いち探偵事務所への厳しい強制捜査のメスも入るはずだ。柊の探偵としてのキャリアは、今日ここで完全に終わる。
​ だが、パトカーの赤色灯が遠ざかっていく夜明けの街を見つめる柊の胸には、確かなプロとしてのプライドが残っていた。
​ 法の網を悪用する怪物に対し、「法の外側」から泥をかぶって立ち向かった。
 差し込んできた朝日の光を浴びながら、探偵は静かに最後のタバコに火をつけたのだった。
 

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