心と言葉の翻訳(20)文体(1)「心と言葉の翻訳」で「文体」は扱えるのか
翻訳は人間の仕事である。それは心と心をつなぐ営みだからである。機械には言葉と言葉はつなげても、心と心をつなぐことはできない。心と心をつなぐことができるのは、ただ人間だけだ。
言葉ではなく、人間を中心に据えた翻訳観――それが本書をつうじて流れる通奏音である。
(↑のつづき)
文体
「心と言葉の翻訳」で「文体」の翻訳を考える際には、その前提として、次の3つの問題点に対する対応を明確にしておかなければならない。
「心」の翻訳であるにもかかわらず、なぜ「文体」を扱えるのか、
文体は文化と密接に関係するため、本質的に翻訳はできないのではないか、
文体を「分析」すること自体、不可能ではないか。
以下、この3点への対応を考える。

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「心と言葉の翻訳」で「文体」は扱えるのか
まず、「心」の翻訳であるからには、そもそも言葉の要素である「文体」については扱えないのではないかという点について考える。
「心と言葉の翻訳」では、言葉でなく心を翻訳することを前提としている。
したがって、言葉そのものの持つ個性や特徴としての文体を翻訳の対象とすることは、たしかに前提と矛盾することになる。
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しかし、ここで「文体」という概念をもう少し広げて、それを
「言葉の持つ個性や特徴」
ではなく、
「言葉の持つ個性や特徴が書き手/読み手の心に与える影響」
だと再定義をしよう。

そうすれば、「心と言葉の翻訳」のなかでも、文体の翻訳を扱ってもおかしくはなくなる。
実際、こうした考え方にあわせて、「心と言葉の翻訳」では、
たとえば
丁寧表現(日本語での「である」体と「ですます」体の区別や敬語や丁寧語の利用など)については、
「言葉の持つ個性や特徴が書き手/読み手の心に与える影響」
ではないとして、
「文体」の翻訳に含まず「モダリティ」(情意)の翻訳として取り扱うことにしている。
[1] 心と言葉の翻訳モデルは、サピア=ウォーフの仮説やクワインの翻訳の不確定性など、翻訳の本質的不可能性を示す意見を否定していない。
それを尊重しつつも、翻訳という行為には新たな価値を生み出す力があると心と言葉の翻訳モデルでは規定する。
(つづきは↓)
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