翻訳論からみる谷崎純一郎・三島由紀夫・中村真一郎の『文章読本』(1)
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谷崎純一郎・三島由紀夫、中村信一郎の『文章読本』は、物書きや日本語研究などを目指すひとであれば、まず読んでいるはずの必携図書です。
読んでいないひとがいれば、ぜひ読んでください。
ただ、
この三冊の名著が、翻訳文体の解説に大きな比重を置いていることには、あまり注目が集まっていないような気がします。
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谷崎純一郎の『文章読本』は、昭和9(1934)年に発刊されたものですが、その内容は、いま読んでもけっして古めかしいものではありません。

でも、表記方法はずいぶんと変わりましたね。
そのため、いまの人間には少し読みにくくなっています。
これは、あの戦後の醜悪な国語改革のせいです。
谷崎の『文章読本』には、翻訳に関連するコメント部分が多々あります。
たとえば、次のようなところです。
系統の異なる二言語のあいだには決して超えることのできない壁があるのだから、そのことをつねにしっかりと認識しなければならない。
現在(昭和初期)では日本語は西洋語の長所を充分に取り入れてしまったのだが、逆にその反動でさまざまな混乱が起っているのでそれを修正しなければならない。
系統の異なる二言語のあいだには決して超えることのできない壁がある。
日本語は西洋語の長所を充分に取り入れてしまったのだが、逆にその反動でさまざまな混乱が起っている。それを修正しなければならない。
どちらもまったくの正論なのですが、これらがいまでも解消されていないことに驚きます。
90年以上前の課題がいまもなお残されているのですから、わたしたちは、いったい何をしていたんでしょうかねえ。
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ではつづいて、三島由紀夫の『文章読本』と中村真一郎の『文章読本』をみてみましょう。
まず、三島です。
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三島由紀夫の『文章読本』の発刊は、昭和34(1959)年です。
もう、ずいぶんと昔のことになりました。
翻訳についての部分ですが、まず三島はフランス文学の専門家でもありますから、翻訳が日本語に与えた影響を谷崎よりはずっと肯定的に捉えています。
ひとことでいえば、
それまで論理性に乏しかった日本語が翻訳文を通じて論理性を身につけることができた
ということであります。
ただし、それでも
三島の翻訳文に対するコメントからは、翻訳文に対する少しばかりの警戒感もみえます。
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いっぽう、同じくフランス文学の専門家である中村伸一郎の『文章読本』(昭和50(1975)年発刊)になると、
そうした翻訳文への警戒感が、ほとんど消えてなくなります。

逆に、
谷崎に濃厚に現われている和文体に対する愛着が、中村の文章からは、もはやほとんど感じられない
ことは、注目に値します。
つまり極端な言い方をすると、
中村にとっては、翻訳文体こそが自分の文体であり、和文体は他人の文体であるかのようです。
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じつは、いまのわたしたちにとっても、翻訳文体のほうが和文体よりずっと近しい感じがするのではないでしょうか。
たとえば、泉鏡花の文章は(例が古くてすみません。でもこの頃の作家で本当に純粋な和文体の文章を書くひとが思いつかないのです)、読んでみるとまるで古典、いや外国語の文章を読んでいるようです。
ひょっとすると、現代日本語への翻訳が必要かも知れません。
いまのわたしたちが、日本の伝統からいかに遠ざかってしまったかを痛感せざるを得ません。
(つづきは↓)
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