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私の英語学習50年(41)英語教育に目覚める(2)

(↑のつづき)

教育学部の英語教授法の講義は、期待はずれだった。

先に文学部の先生方の講義は予想以上に良いと述べたが、英語教授法の講義はその逆だった。

文学部の先生方の独自性あふれる文学講義と異なり、英語教授法の講義にはオリジナルな考えというものがなかった。

講義ではダイレクト・メソッド、オーラル・メソッド、コミュニカティブ・アプローチといった英米でつくりだされた英語教授法が次々と紹介されていった。

それだけである。

既存の学説の解説など本の数冊も読めばわかる。

そうではなく、私が求めていたのは一人一人の先生から生まれ出てくる独自の知的達成物である。

それが文学部の先生方の講義からは確かに感じられた。

だがこの教育学部の英語教授法の講義からは感じられない。

欧米でつくられた英語教授法をただ紹介しているのみである。

私が知りたかったのは、次のようなことである。

そもそも、それらの欧米生まれの英語学習法は、私たち日本人英語学習者にとってどのような意味を持つものなのか。

それらの学習法は、日本人のためだけに作られたものではないのだから、日本人学習者にとっては不都合な部分が数多くあるはずである。では、それはどのような部分なのか。

そしてそれを改善して日本人にフィットしたものにするためには、何をどのようにすればよいのか。

日本人がつくった日本人のための英語教授法や英語学習法は、存在するのか。あるとすれば、それはどのようなものか。

もしそれを新たにつくるとすれば、それはどのようなものであるべきか。

こうしたことが、この教育学部の英語教授法の講義では、まったく語られなかったのである。

これには落胆した。

同時に、たいへんなことに気づいた。

早稲田はまがりなりにも日本の知性を代表する教育機関のひとつである。

そこでこうした英語教授法の講義がまかり通っている。

とすれば、その他の大学の英語教授法の講義もそれほど変わらないのではないか。

とすれば、これはゆゆしき事態である。

英語教育のトップ層がこんな状態であるなら、日本人が日本人として英語をマスターすることなど不可能である。

これはなんとかしなければならない、と思った。

と同時に、この状況を変えられるのは自分ではないか、と思った。

まあ、ずいぶんと大きく出たものだなあ、と読みながら苦笑している方も多いことだろう。

そのとおりなのだが、しかしそのときには実際にそう思ったのだから、仕方がない。

その結果、たとえば、高校教師をしながら英語教育研究をやっていくという人生のあり方もあるのかな、などと思ってしまった。

だがこれが高校教師という職業の倫理性と重要性を軽視したあまりにも軽薄な考えであったことは、その後に実際に高校教師になってみて痛いほどにわかった。

いまとなれば、まさに汗顔の至りというほかはない。

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