【成瀬 日本語・英語・翻訳講座】日本語編(36)日本語の語彙構造(4)日本語は人間関係にこだわりすぎ
(↑のつづき)
続けて渡辺の意見をみてみよう。
具体的に、人称代名詞を振り返ってみよう。英語の話す人々にあっても、親しい聞き手をそうでない聞き手、あるいは気の張る発話の場とそうでない場、などの区別は間違いなく意識されているはずである。それは物腰・態度・表情など言語外のかたちに現れようとし、言語内的にも用語・言い回しの選択となって現れるだろう。
だが、人称代名詞にかぎっていえば、英語では、そうした意識の捨象のすえに得られる第一人称者・第二人称者という抽象的な対象的意義にI・youという形式があてがわれるのであった。
これは主体的意義の側からいうと味も素っ気もないことで、だんだん親密度が回復されていく有様が「わたし・あなた」から「僕・君」へ、さらに「俺・お前」へと切り替わっていく過程にありありと言語化される面白さなど期待すべくもないけれども、社会生活において極めて重要と思われるこれら人間関係に応じた主体的意義を思い切りよく捨てるとは、まことにしたたかな言語というほかないだろう。
こういう言語からみれば、日本語は人間関係にこだわりすぎだといわれるかも知れない。

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IやYouをどう訳すかは英日翻訳者にとって最大の課題の一つである。
「私」とするか「僕」とするかだけで文章全体の印象はがらりと変わる。
翻訳者としてまさに頭の使いどころ、腕の見せどころである。
しかし「私」とするか「僕」とするかだけで全体の印象ががらりと変わってしまうということは、逆にいえば
日本語はニュートラルな表現ができない
ということでもある。
日本語で表現をした瞬間、そこにはなんらかの人間関係がすでに表現されてしまっているのだ。
そうした人間関係を捨象した、たんなる「第一人称」は日本語では表現できない。

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英語ではそれが可能である。
もちろん、英語の世界でも人間関係はあるが、言語表現上ではそれをきれいさっぱりと捨て去ってしまった。
これについて渡辺は「社会生活において極めて重要と思われるこれら人間関係に応じた主体的意義を思い切りよく捨てるとは、まことにしたたかな言語というほかないだろう」と述べ、「こういう言語からみれば、日本語は人間関係にこだわりすぎだといわれるかも知れない」と述べている。
これほど人間関係にばかりこだわっていては純粋な認識には不向きなのではないかということだ。
そしてそのことが「こと認識に関するかぎり、対象的意義にエネルギーを集中しようとする言語、すなわち英語やフランス語や中国語のほうが、はるかに勝れているといわざるを得ない。日本語において温かくはぐくみ育てられてきた主体的意義が、認識には余分のものとしてマイナスに作用するからである。日本語は伝達の言語としてはまことによくできた言語だが、認識の言語としては残念ながら出来がよくないのである」という渡辺のコメントへとつながっていく。
日本語とは英語やフランス語や中国語のような「したたかな」言語ではなく、もっともっと「うぶな」言語なのだ。
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私たちは日本人であるから日本語が「認識の言語としては出来がよくない」などといわれるとよい気はしない。
しかしその前に「相手への心遣いや自分の心情の動きに敏感に反応する日本語は、話し手の姿をありありと伝えるという長所を英語やフランス語や中国語に対して誇ってよいと思われる」というコメントがあるのだから、これでさらに認識の面まで優れているなら、日本語はスーパーな言語ということになってしまう。
そんな虫のいい話はないのが当たり前と考えたほうがよい。
それよりも、日本語のこうした弱点をきっちりと認識し、それを克服する方向へと努力するべきではないだろうか。
(つづきは↓)
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