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翻訳論からみる谷崎純一郎・三島由紀夫・中村真一郎の『文章読本』(4)翻訳漢語の功罪(2)「関数」と「因数分解」

(↑のつづき)

第二に、西欧語から漢語への翻訳は、一般の日本人の知的活動にも少なからぬ悪影響を与えました。

つまり

無秩序な翻訳漢語の氾濫が、わたしたち日本人の知識の習得を、意味もなく困難にしているのです。


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わたくしごとで恐縮ですが、わたしは中学生のとき、数学の勉強にたいへん苦労しました。

たとえば、

「関数」という数学用語があります。

教科書では、少しばかりの説明があったあとに「これを関数と呼ぶ」と書いてあります。

しかしわたしから見ると、そこに説明されているのは、どうみても「数」ではありません。

それに、その前についている「関」とは、いったい何でしょうか。

ひょっとすると、「数の関所」なのでしょうか。

でも、それであれば、「関数」ではなく「数関」とでもすべきではないか・・・

いろいろと考えたうえ、わたしはクラス一番の秀才に「おい、関数って、なんか、言葉としておかしくないか」とたずねました。

すると彼は「これは数学の定義なんだから、言葉としてどうこうということじゃないんだ」という、じつにまっとうな答えを返してくれました。

なるほど、とは思いましたが、しかしそれでもどうにも納得ができません。

「言葉としてどうこうということではない」とは、どういうことなのか。

というよりは、そんなことでいいのか。

そこらへんに、もやもやとしたものが残りました。

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「因数分解」の場合も疑問は同じでした。

「因数」に「分解する」といいますが、実際にやっていることは、ずらずらと並んでいる数字や文字を、いくつかのカッコのなかにまとめ直しているだけのことです。

とすると、それぞれの「カッコ」が、つまり「因数」なのでしょうか。

しかしそうすると、「カッコ」のどこが「数」なのか・・・

いわゆる理科系の人からみれば、これはじつにバカバカしいお話なのかも知れません。

しかし、「関数」や「因数」が「数」の一種であるという感覚は、漢字を使う人間としては、きわめて健全な言語感覚なのです(この点についてはあとでご説明します)。

そして、

まっとうな日本語感覚を捨て去らなければ数学の基本的な概念さえ身につかないということであるならば、これは私たちにとって、たいへんに大きな問題なのではないでしょうか。


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