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【note論】 書かなかったことも、読まれている

LINEの既読スルーが気になるのは、返信がないからではない。返信がないことを、こちらが勝手に読んでしまうからだ。

「忙しいのか」「怒っているのか」「関心がないのか」

情報はゼロのはずなのに、受け取る側は何かを受け取ってしまう。沈黙は、かなり雄弁だ。

しかも厄介なのは、返信しなかった側に、かならずしもそこまでの意図がないことだ。「たまたま忙しかっただけ。」それでも、受け取った側は想像する。言葉がない場所に、勝手に意味を置いてしまう。

会議での沈黙も似ている。誰も発言しない。ただ、部屋の空気だけが少し重くなる。言葉がないのに、全員が何となく感じている。むしろ全員が黙っている瞬間の方が、饒舌に語っていることがある。

沈黙は、情報の欠如ではない。受け手に解釈を丸投げする、かなり強いメッセージだ。

人は、空白をそのまま空白として放っておくのが苦手だ。何も書かれていない場所を見ると、何かが隠れているように感じる。何も言われていない場所に、何か言われたような気がしてしまう。

Noteでも、同じことが起きている。

読み手は読んでいるけど、スキはしないとか、コメントもしないことも珍しくない。読んだことは伝えている。でも、それ以上は踏み込まない。その距離感が、言葉なしに届いている。読み手もまた、沈黙でコミュニケーションしている。

書き手も同じだ。あるテーマには触れない。時事問題は書かない。肩書きを前に出さない。書けば書くほど、隠せるものもある。

肩書きを書けば、文章ではなく肩書きが読まれる。「この人はこういう立場だから、こう言っている」というフィルターがかかる。書かないことで、内容だけと向き合わせることができる。

ただし、読み手は「見せていない」ことも読み取る。「この人は、そういうことは書かない人なんだ」という印象が、記事を読むたびに積み重なっていく。書き手が書いたものだけが読まれているわけではない。書かなかったものも、読まれている。

正直に全部書けばいいわけでもない。見せなくてもいい自分を晒すリスクがある。正直さがノイズになることもある。書かないことは逃げではなく、読み手への配慮であり、コミュニケーションの設計そのものだ。

ただ、厄介なことがある。

何を書かないかは、書き手が選べる。でも、書かなかったものがどう読まれるかは選べない。

配慮のつもりが冷たさに見えることがある。余白のつもりが、単なる空白に見えることがある。読み手は勝手にそこへ意味を置く。そしてその意味は、書き手の意図とは少しずれている。

言葉を尽くしても誤解されるし、黙っていても何かを読まれる。

空白は、思ったよりうるさい。



この記事自体、野暮だと思った人がいるだろう。
そのとおりだ。書かなかった方がよかったかもしれない。


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