【note論】 純粋さは、読む前から働き始める
noteを読んでいると、こんな一文に出会うことが
ある。
「この記事はAIを使わず、自分で書いています。」
なんとなく、好感が持てる。
丁寧に書いたんだな、という気がする。
別の記事では、こんな一文もある。
「この記事はAIを活用して執筆しています。」
これも、なんとなく好感が持てる。
正直に書いてくれているんだな、という気がする。
この二つ、言っていることは正反対なのに、
どちらも「好感が持てる」と感じた。
もう一つ、気になることがある。
どちらの宣言も、
記事の中身については何も語っていない。
AIを使ったかどうかは、
記事が面白いかどうかとは関係がない。
AIで書いた記事が面白いことがある。
人間だけで書いた記事がつまらないこともある。
「どうやって書いたか」は、
「記事が面白いこと」を保証しない。
それでも、この宣言は読み手側に機能している。
読む前から、何かを感じさせるからだ。
似たような感覚を、別の場所でも経験したことが
ある。
手作りクッキーと工場で作られたクッキー。
食べる前から、手作りの方に価値を感じる。
日本製というラベルがあると、なんとなく安心する。
エリート政治家と、地元出身のたたき上げの政治家。
地元出身のたたき上げの方がいい政治をしてくれる
気がする。
内容を確かめる前に、出自だけで判断している。
これらに共通するのは、
「純粋さ」への信頼だ。
余計なものが混じっていない、本物の経験がある、
正統な手続きを経ている。
そういうものを、人は直感的に「良いもの」と
感じる。
この純粋さへの信頼は、よく見ると二種類ある。
一つは「汚染されていない」という安心感。
手作りや日本製はここだ。
異物が混じっていないことへの信頼で、
どちらかといえば身体的な感覚に近い。
もう一つは「本物である」という感覚。
AI批判やたたき上げ信仰はここに近い。
温度がない、オリジナリティがない、
現場を知らない。
そういう言葉で語られる。
汚染というより、何か大切なものが欠けている
という感覚だ。
根っこは少し違う。
でも共通点がある。
どちらも、結果の妥当性はわからなくても
判断できる根拠を与えている。
「AIを使っていません」と宣言する人は、
純粋さで評価される読者がいると知っている。
「AIを使っています」と宣言する人は、
正直さで信頼を得られる読者がいると知っている。
どちらも、社会の中に純粋さへの信仰があることを、
肌で感じているからこそ標榜する。
純粋さへの信仰は個人の感覚のように見える。
しかし、それは社会に埋め込まれている。
誰かが純粋さをアピールし、
誰かがそれに反応することで、
信仰はさらに強くなっていく。
「AIを使っていません」と書けば、
文章は、少し人間らしく見える。
「AIを使っています」と書けば、
書き手は少し正直に見える。
どちらにしても、まだ文章は読んでいない。
純粋さは、読む前から働き始めているのだ。
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