「自然の状態」測定が企業経営を変える:TNFD・GRI・SBTNが描く共通言語
2026年4月、ネイチャーポジティブ分野における新しい文書が公開されました。自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)、グローバル・レポーティング・イニシアティブ(GRI)、そしてサイエンス・ベースド・ターゲット・ネットワーク(SBTN)という3つの主要なフレームワーク・基準設定機関が共同で発表した「自然の状態測定に関するディスカッションペーパー」です。本稿は、TNFD・GRI・SBTNが2026年4月に公表した「Discussion paper on state of nature measurement」に基づき、日本企業・金融機関の視点から分析・解説したものです(原文のパブリックコンサルテーションは2026年6月4日まで実施されています)。本稿では、このディスカッションペーパーの内容を速報します。本日も楽しんでいってくださいね!
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第1章:なぜ今「自然の状態」測定なのか
TNFD とオックスフォード大学が2025年に実施した大規模なエビデンスレビューによれば、自然関連リスクが企業や経済に与える財務的影響の実例は、世界中で600件以上も確認されています。食料生産へのインフレーション圧力、水資源不足による供給途絶、環境汚染に起因する法的責任リスクなど、業種や地域を超えて企業価値を直撃する事象が発生し続けています。
これまで生物多様性の測定には、多種多様な指標・手法が乱立していました。企業は自社の状況に合わせて最適な指標を選択しようとしても、どれが「正解」なのか判断がつきません。こうした「フラグメンテーション問題」を解決するために、Nature Positive Initiative(NPI)を中心とした国際的なコンセンサス構築プロセスが2年間にわたって進められ、TNFD、GRI、SBTNを含む27の主要機関が参加し、企業・金融・科学・市民社会という異なるステークホルダーの視点を統合しながら、「最小限かつ信頼性の高い」指標セットの開発が進められ、その成果物が、本ディスカッションペーパーで提案されている「自然の状態アウトカム指標」です。
本ペーパーの重要な貢献のひとつは、「自然の状態」測定が企業・金融機関においてどのような用途で活用されるかを、4つのユースケースに体系的に整理した点にあリます。

(1)アセスメント(評価) 組織が自社の直接操業およびバリューチェーン全体にわたって、自然への依存度と影響を特定・評価するプロセス。TNFDのLEAPアプローチやSBTNのステップ1・2がこれに該当します。
(2)開示(ディスクロージャー) 外部のステークホルダー(投資家、取引先、規制当局、地域社会など)に対して、自然関連の情報を報告・公開するプロセス。TNFD勧告やGRI基準に基づく報告がこれに当たります。
(3)移行計画(トランジションプランニング) KMGBFが想定する「ネイチャーポジティブ」への移行に向けて、組織としてどのように対応・貢献していくかを定める中長期計画の策定。気候変動における「ネットゼロ移行計画」に相当します。
(4)目標設定(ターゲットセッティング) 科学的根拠に基づいた定量目標を設定し、進捗をモニタリングするプロセス。SBTNのターゲット設定ガイダンスが中心となります。
重要なのは、TNFD、GRI、SBTNという3つのフレームワーク・基準が、同一の指標セットを共有することで、企業・金融機関が複数のフレームワークに効率的に対応できるようになる点です。

第2章:概念的基盤——自然の状態とは何か
2.1 生態系の規模と状態
「自然の状態(state of nature)」という概念は、国連環境経済統合勘定(UN SEEA)の生態系勘定の体系に基づいて定義されています。その構成要素は大きく分けて2つあります。

生態系の規模(Ecosystem Extent) 特定の空間的範囲において、各生態系タイプが占める面積と分布状況を指します。例えば、熱帯雨林が何ヘクタールあるか、サンゴ礁が何平方キロメートル広がっているか、といった定量的な把握が該当します。規模の変化は、生態系の「量的」な側面を捉えます。
生態系の状態(Ecosystem Condition) 生態系の質と機能性を指します。これはさらに「組成(composition)」「構造(structure)」「機能(function)」という3つの下位概念に分解できます。
組成:その生態系を構成する種の種類と相対的な豊富さ
構造:植生の高さ・密度、土壌層の厚さ、水文学的パターンなど物理的構造
機能:栄養循環、炭素固定、水浄化など生態系が発揮するプロセス
規模と状態を合わせて把握することで、生態系資産(ecosystem assets)の「ストック」を評価できます。このストックが、企業が依存する生態系サービスの「フロー」を生み出す基盤となります。

2.2 種の絶滅リスクと個体群サイズ
生態系レベルの指標に加えて、NPIフレームワークでは種レベルの指標も重視されています。

種の絶滅リスク(Species Extinction Risk) IUCNレッドリストの分類に基づき、絶滅危惧種や生息域が狭い種に特に焦点を当てた指標です。STAR(Species Threat Abatement and Restoration)メトリクスなどが代表的なツールとして活用されています。
種の絶滅リスク測定が重要な理由は複数あります。
第一に、絶滅危惧種は生態系組成の重要な要素であり、その存在が生態系サービスの供給能力に直結する場合があります。例えば、水質浄化や栄養循環を担う淡水産二枚貝の多くは、IUCNレッドリストで絶滅危惧種に分類されています。
第二に、種の絶滅リスクを測定することで、その地域に存在する影響要因(impact drivers)を特定できます。例えば、密猟が特定の種に脅威を与えている場合、そのモニタリングを通じて対策の優先順位付けが可能になります。
第三に、絶滅危惧種は「指標種」あるいは「傘種」として機能する場合があります。その存在と個体数が高い生態系状態を反映する、あるいは他の種の分布パターンを代表する役割を果たします。
第四に、種の絶滅リスク低減はKMGBFの根幹を成す目標であり、企業が気候変動と同様に移行リスクを評価するうえで不可欠な指標となります。
種の個体群サイズ(Species Population Size) 特定種の個体数を継続的にモニタリングする指標です。企業の依存関係、リスク、機会に直接影響する場合に特に重要となります。
例えば、水産業界においては商業魚種の資源量が直接的なインプットであり、持続可能な漁獲量の管理・認証と密接に関連しています。沿岸域では、牡蠣やムール貝などの礁形成二枚貝が、水質浄化・海岸保護・他種の生息地提供など複合的な生態系サービスを担っており、その個体群動態は企業の依存関係評価において中核的な情報となります。

2.3 生態系サービスとの連関
「自然の状態」測定は、それ自体が目的ではありません。企業にとっての真の価値は、自然の状態変化が生態系サービスの供給能力に与える影響を理解し、自社のビジネスリスク・機会に結びつけることにあります。
生態系サービスは一般に3つのカテゴリーに分類されます。
供給サービス(Provisioning Services) 食料、木材、淡水、医薬品原料など、自然から直接得られる物質的な恩恵です。
調整・維持サービス(Regulating and Maintenance Services) 気候調整、水質浄化、洪水緩和、花粉媒介、土壌形成など、生態系が発揮する調整機能です。
文化的サービス(Cultural Services) レクリエーション、精神的価値、美的価値、教育的価値など、人間の文化・精神生活に関わる恩恵です。
本ペーパーでは、自然の状態変化が生態系サービス供給能力に与える影響を示す具体例が多数紹介されています。
例えば、森林の樹冠被覆率と土壌浸透率は、降雨が河川に流入する速度を制御し、洪水リスクの調整に寄与します。世界銀行の試算によれば、ブラジル・セラード地域における植生被覆の損失は、パラグアイ川流域の洪水リスクを年間4,600万ドル増加させたとされています。
また、野生花粉媒介者の個体群減少は、農業生産性に直接影響します。Nature Ecology & Evolution誌の2024年研究によれば、花粉媒介者の訪問不足は世界各地の作物システムで収量制限要因となっており、作物種の多くが「花粉媒介者制限」状態にあります。
マングローブ林の植生高さと密度は、その前面面積と波エネルギー吸収能力を規定し、沿岸洪水リスクの緩和に貢献します。マングローブの生態系構造の変化は、沿岸域で操業する企業の物理リスクを左右する重要な要因となります。
2.4 サイトレベルとランドスケープ/シースケープレベル
NPIフレームワークでは、測定スケールを「サイトレベル」と「ランドスケープ/シースケープレベル」に区分しています。この区分は実務上非常に重要な意味を持ちます。
サイトレベル 企業が直接管理・操業する拠点や、バリューチェーンの特定地点における測定です。自社の活動が自然の状態に与える影響を評価し、その変化をベースラインと比較して追跡することが主眼となります。
ランドスケープ/シースケープレベル サイトを取り囲む広域の生態的文脈における測定です。多くの生態系サービスは、サイトを超えた広域スケールで提供されるため、依存関係とそれに伴うリスク・機会の評価において不可欠な情報となります。
例えば、製造拠点が河川から取水している場合、その取水可能量は上流域の森林被覆・土壌状態・降水パターンに依存します。サイトレベルで測定可能な自社の水使用効率だけでなく、ランドスケープレベルでの流域全体の水資源状況を把握しなければ、水関連リスクを適切に評価できません。
また、ランドスケープ/シースケープレベルでは「コネクティビティ(連結性)」と「フラグメンテーション(断片化)」という構造的属性も重要になります。生態系間の連結性が低下すると、生物の移動・遺伝子交流・栄養塩循環が阻害され、生物多様性と生態系サービスの供給能力が長期的に低下します。
第3章:アセスメントにおける自然の状態測定
3.1 TNFDのLEAPアプローチにおける位置づけ
TNFDが推奨するアセスメント手法は「LEAP(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)アプローチ」として体系化されています。各フェーズにおいて、自然の状態測定は異なる役割を果たします。

Locateフェーズ(位置特定) 自社の直接操業およびバリューチェーンにおいて、自然関連の依存・影響が大きい「センシティブロケーション」を特定する段階です。ここでは、生態系の健全性・生物多様性の重要性を示す広域データを用いたスクリーニングが行われます。例えば、IBAT(Integrated Biodiversity Assessment Tool)を用いて、操業拠点周辺の保護地域・Key Biodiversity Areas・IUCNレッドリスト掲載種の分布を把握します。あるいは、Biodiversity Intactness Index(BII)やSTARメトリクスを用いて、生態系の健全性と種の絶滅リスクへの貢献度を評価します。

重要なのは、Locateフェーズでの測定は「優先順位付け」が目的であり、すべての拠点に対して詳細な測定を行うことではない点です。数百・数千の拠点を有するグローバル企業にとって、最初からすべてを詳細評価することは現実的ではありません。まずはスクリーニングで重要な拠点を絞り込み、リソースを集中投下すべき場所を特定します。
Evaluateフェーズ(評価) Locateで特定した優先拠点において、自社の依存関係と影響を詳細に評価する段階です。ここでは、より高い空間的・時間的解像度での測定が求められます。

影響評価においては、自然の状態指標の「変化」を、影響要因(impact drivers)との関連で理解することが目標となります。時系列データやベースライン比較を通じて、「実現された影響(realised impacts)」を定量化します。時系列データが入手できない場合は、Locateフェーズで使用したスクリーニングデータを用いて「潜在的影響(potential impacts)」を推論することも認められています。
依存関係評価においては、生態系サービスの「供給能力」を支える自然の状態を測定します。適切な空間スケール(service sheds:サービス流域)を設定し、企業が依存するサービスの安定性を評価します。
Assessフェーズ(査定) 依存関係と影響を、財務的なリスクと機会に結びつける段階です。ここでは、Evaluateで得られた定量データを、シナリオ分析や財務モデルと統合します。
Prepareフェーズ(準備) 評価結果に基づいて、対応戦略・目標設定・開示方針を策定する段階です。ここでも自然の状態指標は、目標の設定とモニタリングにおいて中核的な役割を果たします。
3.2 SBTNのアセスメント・優先順位付けにおける位置づけ
SBTNのターゲット設定プロセスにおいても、自然の状態測定は「Step 1:Assess(評価)」と「Step 2:Prioritise(優先順位付け)」で中心的な役割を担います。

SBTNは「圧力ベース(pressure-based)」のターゲット設定アプローチを採用しています。これは、企業活動が自然に与える圧力(土地利用変化、汚染、資源採取など)を対象として目標を設定し、その削減を通じて生物多様性アウトカムに貢献するという論理構造です。
ただし、圧力ベースであっても、「自然の状態」データは目標設定の文脈化・優先順位付けに不可欠です。企業活動が生態系に与える圧力が同程度であっても、その生態系がすでに劣化状態にあるか、それとも高い健全性を維持しているかによって、対応の優先度は異なります。
SBTNのガイダンスでは、自然の状態指標を2つのカテゴリーに分類しています。
一般的な生物多様性状態指標(General Biodiversity State of Nature Indicators) 特定の企業圧力とは独立に、生物多様性の全体的な状態を把握する指標です。種の絶滅リスク、種の豊富さ、生態系の健全性・完全性などが含まれます。これらの指標は、企業活動が影響を与えている地域の生態系が「すでに劣化しているか、絶滅危機にあるか、あるいは比較的健全か」を把握するために用いられます。
圧力感応型状態指標(Pressure-Sensitive State of Nature Indicators) 特定の環境圧力に応答する生態学的属性を示す指標です。生態系の構造と規模、水の利用可能性と水質、土壌の質、生態系の組成と生態学的機能などが含まれます。これらの指標は、企業活動と生態的変化をより直接的に結びつける役割を果たします。
Step 2の優先順位付けにおいては、以下の3要素を総合的に考慮して、ターゲット設定の対象とすべき拠点・生態系・圧力を決定します。
企業圧力の大きさ
影響を受ける拠点の自然の状態
社会的・生態学的・戦略的考慮
重要な圧力が脆弱な生態系・絶滅危惧種と重なる地点が、最優先のターゲット設定対象となります。

3.3 アセスメント実務における企業事例
本ディスカッションペーパーでは、実際に自然の状態測定をアセスメントに活用している企業事例が多数紹介されています。日本企業を中心にいくつかの事例を詳しく見ていきましょう。

明治ホールディングス 食品・医薬品を扱う明治ホールディングスは、国内61の製造拠点を対象に、IBATを用いた生物多様性感度評価を実施しました。各拠点から半径3kmの範囲をスクリーニングし、保護地域・Key Biodiversity Areas・IUCNレッドリスト掲載種との近接性を評価しています。その結果、サプライチェーンの主要7商品群における「ホットスポット」地域を特定しました。

この事例で特筆すべきは、自社の直接操業だけでなく、調達先の生態学的文脈まで評価対象を拡大している点です。食品メーカーにとって、原材料調達地域の生物多様性状態は、長期的な供給安定性に直結するリスク要因となります。
王子ホールディングス 製紙・包装材料・林産品を扱う王子ホールディングスは、WWF Biodiversity Risk Filterを用いて、最大の操業エリアにおける生物多様性の重要性、生態系の健全性(人為的影響からの回復度)、土地利用変化、生態系サービス供給能力、水ストレスを評価しました。この評価により、より詳細な分析が必要な優先地域を特定しています。

さらに、同社は木材チップのサプライヤー拠点についても同様の分析を実施しました。その結果、複数のサプライヤー拠点が環境的に脆弱な地域に位置していることが判明しました。これを受けて、王子ホールディングスは生物多様性への配慮をサプライヤー管理アプローチに組み込み、「環境行動計画2040」の一環としてサプライヤーエンゲージメント強化の目標を設定しています。この事例の特徴は、自社の直接操業だけでなく、サプライチェーン上流の木材調達先まで評価対象を拡大し、その結果を具体的なサプライヤー管理方針に反映している点です。
三井物産 総合商社の三井物産は、TNFD開示において、Biodiversity Intactness Index(BII)とGlobal Forest Watchデータを組み合わせた生態系状態評価を実施しました。BIIは、現在の種の豊富さが「最小限の人間圧力下での期待値」と比較してどの程度維持されているかを示す指標であり、人為的影響による生物多様性の損失を定量化できます。

また、STARメトリクスを用いて、各事業拠点が世界の種の絶滅リスクに対してどの程度寄与し得るかを評価しました。分析の結果、評価対象拠点の約10%が、保護地域またはKey Biodiversity Areasから500m以内に位置していることが判明しました。これらの情報を総合して、LEAPアプローチの次段階で重点的に分析すべき事業活動・拠点を特定しています。
日清食品 即席麺を中心とする日清食品は、主要原材料(パーム油、カカオ、小麦など)の調達に伴う自然関連影響をスクリーニングするため、ENCOREと大規模生物多様性データセットを組み合わせた評価を実施しました。Mean Species Abundance(MSA)メトリクスを用いて、生産関連の影響要因が各調達地域の生物多様性にどの程度影響を与えるかを定量的に評価しています。

MSAは、原生状態と比較した現在の平均種豊富度を示す指標であり、土地利用変化や農業集約化に対する感度が高いです。食品メーカーが調達する農産物は、その生産過程で生態系に大きな圧力をかける可能性があり、MSAはその影響を可視化するうえで有用なツールとなります。
ニッスイ(日本水産) 水産物の漁獲・養殖・加工・販売を手がけるニッスイは、2025年のTNFDレポートにおいて、LEAPアプローチのLocateフェーズで生態系状態指標を開示し、自社の直接養殖拠点における優先地域を特定しました。同社は、生態系タイプに応じた複数の指標を活用しています。陸域生態系についてはBiodiversity Intactness Index(BII)と哺乳類移動確率(MMP)、淡水生態系については河川分断化指標、海洋生態系についてはサンゴ礁・マングローブ・海氷・藻場・塩性湿地・砂泥底など6つの生態系タイプの平均状態指数を用いて評価を行っています。

また、種の個体群モニタリングについては、サプライチェーンで使用する海洋資源の状況を評価するため、定期的な資源調査を実施しています。ニッスイ本体と36のグループ会社が取り扱う天然・加工海産物の取扱量に基づいて資源調査を実施し、「海洋生物の100%を持続可能に管理された資源から調達する」というコミットメントを支えています。水産業界にとって、海洋生態系の状態と魚種資源量は事業の根幹に関わる依存関係です。ニッスイの事例は、業種特性に応じた多様な生態系指標の活用と、調達目標との連動を示す好例といえます。
住友林業 森林・木材事業を中核とする住友林業は、TNFDのLEAPアプローチを適用して、自社の森林資産と調達先の生態学的評価を実施しています。同社のケースでは、森林生態系の状態評価が事業の根幹に関わるため、Vegetation Condition Assessment(VCA)など森林特化型の評価手法も活用されています。
伊藤忠商事 伊藤忠商事は、TNFDベースの開示において、IBAT・WWF Biodiversity Risk Filter・水リスクフィルターを組み合わせた包括的なスクリーニングを実施しています。商社のビジネスモデルは多様なセクターにまたがるため、複数のツールを組み合わせたポートフォリオベースの評価アプローチが採用されています。
第4章:開示における自然の状態測定
4.1 TNFDの開示フレームワークにおける位置づけ
TNFDの開示勧告において、自然の状態に関する指標は「Metrics and Targets B」で規定されています。現状のTNFDフレームワークでは、自然の状態指標は「プレースホルダー(placeholder)」という位置づけであり、開示が「奨励」されるものの、具体的なメトリクスは定義されていませんでした。
これは2023年のTNFD勧告公表時点において、生態系状態と種の絶滅リスクに関する標準化されたメトリクスがまだ存在しなかったためです。TNFDは、ナレッジパートナーとの協力によるメトリクス開発を継続することを表明していました。
TNFDの開示メトリクス体系は、3層構造になっています。
コアグローバルメトリクス(Core Global Metrics) すべての組織に対して、「comply or explain(遵守または説明)」ベースで開示が期待されるメトリクスです。セクター横断的な比較可能性を担保する役割を持ちます。
コアセクターメトリクス(Core Sector Metrics) 各セクター固有の重要課題を反映したメトリクスです。TNFDのセクター別ガイダンスで定義され、当該セクターに属する組織には「comply or explain」ベースでの開示が期待されます。
追加メトリクス(Additional Metrics) 組織の具体的状況に応じて、関連する場合に開示が推奨されるメトリクスです。組織固有の「マテリアルな自然関連課題」を最も適切に表現するために用いられます。
現状のプレースホルダー指標では、生態系状態(C5.0)として「生態系の状態(規模・範囲・状態)」、種の絶滅リスク(同)として「種の絶滅リスク」が掲げられていますが、具体的な計測方法や報告単位は未定義でした。
今回のディスカッションペーパーは、このプレースホルダーを「具体的なメトリクス」に置き換える提案を行っています。
4.2 GRI基準における要件
GRIは、2024年に発行したGRI 101「生物多様性」において、自然の状態に関連する複数の開示要件を設定しています。
Disclosure 101-1 生物多様性損失の停止・反転に向けた方針・コミットメントの記述です。目標・ターゲット・進捗測定指標を含みます。これらは、組織活動が寄与する直接的要因(direct drivers)だけでなく、自然の状態変化と生態系サービスへの影響にも関連し得ます。
Disclosure 101-7 組織の活動が影響を与える生態系、および組織が依存する生態系に関する情報です。具体的には、影響を受ける生態系タイプ、生態系の状態、影響を受ける種に関する情報の開示が求められます。
GRI 101では、組織がマテリアリティ評価に基づいて、どの情報が自社にとって最も重要かを判断することが求められます。ただし、情報の決定有用性(decision-usefulness)を担保するため、セクターや地域特性に応じた柔軟な適用が認められています。
4.3 ESRSにおける要件
2025年11月に公表されたEuropean Sustainability Reporting Standards(ESRS)の改訂ドラフトにおいても、自然の状態に関する開示要件が強化されています。
ESRSはダブルマテリアリティ(財務的重要性と影響的重要性の両方)アプローチを採用しており、自然の状態サブトピック(生態系状態など)が重要と判断された場合には、事業体固有のメトリクス開示が求められます。
TNFDとESRSの間には相互運用性(interoperability)が確保されており、TNFD勧告に沿った開示を行うことで、ESRSの要件も相当程度満たすことが可能です。今回のNPIメトリクス統合により、この相互運用性がさらに強化されることが期待されます。
第5章:移行計画における自然の状態測定
5.1 ネイチャー移行計画の位置づけ
気候変動分野における「ネットゼロ移行計画」と同様に、自然分野においても「ネイチャー移行計画(Nature Transition Plan)」の策定が求められるようになっています。TNFDは2025年に「Guidance on Nature in Transition Plans」を公表し、信頼性の高い移行計画の要素を定義しています。
ネイチャー移行計画の目的は、組織がKMGBFで想定される「2030年までの生物多様性損失停止・反転」および「2050年までの自然の完全回復」という移行シナリオに対して、どのように対応・貢献するかを明示することです。
移行計画は、以下のような要素を含むべきとされています。
自然に関する依存・影響・リスク・機会の評価結果
短期・中期・長期の目標設定
目標達成に向けた具体的な行動計画
リソース配分と投資計画
ガバナンス体制と責任者
進捗モニタリングと報告の仕組み
5.2 移行計画における自然の状態測定の役割
自然の状態測定は、移行計画において複数の役割を果たします。
優先順位付け 限られたリソースを最も効果的に配分するため、依存・影響・リスク・機会の優先順位を決定する際の根拠として用いられます。生態系の状態が劣化している地域、種の絶滅リスクが高い地域に対応を集中することで、投入リソース当たりの自然へのポジティブな貢献を最大化できます。
目標設定 移行計画には定量的な目標が含まれるべきであり、自然の状態指標はアウトカムベースの目標設定に活用されます。例えば、「2030年までに管理面積の30%で生態系状態を'良好'レベルまで回復させる」といった目標は、生態系状態測定なしには設定・追跡できません。
進捗モニタリング 計画が意図したとおりに進捗しているか、アウトカムが実現しているかを確認するため、自然の状態指標を定期的に測定・報告します。特に、圧力削減(impact driver削減)とアウトカム改善(state of nature改善)の因果関係を検証するうえで、両方のデータが必要となります。
ステークホルダーコミュニケーション 投資家、規制当局、地域社会などのステークホルダーに対して、移行計画の信頼性と進捗を示すエビデンスとして活用されます。
5.3 移行計画における企業事例
Iberdrola(スペイン電力大手) Iberdrolaは、2040年ネットゼロ達成を目指す気候移行計画を策定しており、これは人と自然の両方に対するポジティブな成果を目指す「ジャストトランジション」アプローチに基づいています。気候行動計画と生物多様性計画が統合的に策定され、後者は「2030年までに種と生態系へのNet Positive Impact達成」という目標を掲げています。
同社は、生物多様性に関する「ネットバランス会計フレームワーク」を採用しており、種と生態系へのポジティブ・ネガティブな影響を定量化する2つの指標を設定しています。
生態系指標は、「施設設置前後の生態系の規模と状態の変化を、等価ヘクタールで測定」するものです。土地利用、植生被覆、保護種の存在などの指標を通じて、生態系状態を評価しています。
種指標は、「種への影響と保全活動のバランスを測定」するものです。潜在的または実際の影響データと保護カテゴリーを用いて種インデックスを算出し、優先的な活動を特定しています。
また、IUCNレッドリスト、国内・地域の保全リストを用いて、操業地域における絶滅危惧種の特定を行っています。
National Trust(英国) 英国のNational Trustは、遺産保全を目的とした慈善団体であり、多くの歴史的建造物と景観を管理しています。同団体の移行計画は、2030年ネットゼロ達成を目指し、スコープ1・2・3の排出削減と、土地管理を通じた炭素吸収・貯留の増加という2つの柱で構成されています。
特筆すべきは、自然の状態測定が気候目標達成に直結している点です。劣化した泥炭地や農地は炭素の放出源となり得ますが、健全な生態系(樹木、淡水生息地、海洋環境など)は自然の炭素吸収源として機能します。
同団体は、生息地タイプ(状態を含む)と樹齢をGISで把握し、Natural Englandの生息地炭素レビューやWoodland Carbon Codeの固定モデルと組み合わせて、炭素ストックとフローを定量化しています。この評価は、「Restore Nature」という野心の一部として、気候レジリエントで自然豊かなランドスケープの創出を目指す泥炭地・沿岸システム・コネクティッドランドスケープの修復活動に結びついています。
第6章:目標設定における自然の状態測定
6.1 圧力ベースターゲットと状態ベースターゲット
自然関連の目標設定には、大きく分けて2つのアプローチがあります。
圧力ベースターゲット(Pressure-Based Targets) 自然損失を引き起こす直接的な影響要因(impact drivers/pressures)の削減を目標とするアプローチです。例えば、「サプライチェーンにおける森林転換をゼロにする」「水使用量を30%削減する」「窒素・リン排出量を50%削減する」といった目標が該当します。SBTNのターゲット設定方法論は、主にこの圧力ベースアプローチを採用しています。企業が直接コントロールできる活動(生産・調達・物流・廃棄など)に焦点を当て、そこから発生する環境圧力の削減を定量化します。このアプローチの利点は、目標の測定・追跡が比較的容易であり、企業の行動と直接紐づく点にあります。
状態ベースターゲット(State-Based Targets) 自然の状態そのものの改善をアウトカムとして目標とするアプローチです。例えば、「管理面積における生態系状態を'良好'レベルまで回復させる」「重要種の個体群を安定化または増加させる」といった目標が該当します。状態ベースターゲットは、圧力削減の「結果」として生じるべき自然へのポジティブな効果を直接測定します。しかし、自然の状態は企業活動だけでなく、気候変動、他の事業者の活動、自然の固有ダイナミクスなど、多くの要因に影響されます。そのため、企業が状態ベースターゲットの達成をコントロールすることは容易ではありません。
6.2 SBTNにおける位置づけ
SBTNのターゲット設定フレームワークでは、「AR3T(Avoid, Reduce, Restore, Regenerate, Transform)」と呼ばれるアクション階層が定義されています。
Avoid:自然への新規影響を回避する(例:自然生態系の転換を行わない)
Reduce:既存の圧力を削減する(例:水使用量を削減する)
Restore:劣化した生態系を修復する
Regenerate:人為的システム(農地など)において生物多様性を向上させる
Transform:ビジネスモデルそのものを変革する
このうち、Avoid・Reduce・Regenerateは主に圧力ベースのターゲットに、Restoreは状態ベースのターゲットにそれぞれ対応します。
SBTNのStep 3「Set Targets」では、Step 1・2で得られた評価・優先順位付けの結果に基づき、AR3Tの各アクションカテゴリーに対応した定量目標を設定します。ここで、自然の状態データは「文脈化」と「優先順位付け」の役割を果たします。
例えば、土地利用変化の削減目標を設定する際、その対象地域がすでに劣化した生態系か、それとも高い健全性を維持する生態系かによって、目標の野心レベルや達成のアージェンシーが異なります。STARメトリクスを用いれば、各地域での土地利用変化回避が世界の種絶滅リスク低減にどの程度貢献し得るかを定量化でき、目標設定の科学的根拠を強化できます。
企業のState of Nature活用法:5つのポイント
最後に、本稿のまとめとして、この指標の活用の5つのポイントとしてまとめてみます。
1. スクリーニングで「どこから手をつけるか」を決める
全拠点を詳細評価するのは非現実的
IBAT・STAR・BIIなどで優先拠点を素早く絞り込む
リソースを集中投下すべき場所を特定してから深掘りする
2. 圧力削減の「効果検証」に使う
圧力ベース目標(水使用削減、森林転換ゼロ等)は設定しやすいが、本当に自然が改善したかは別問題
State of Nature指標で「圧力削減→状態改善」の因果関係を検証する
3. 依存リスクの「早期警戒」に使う
生態系の状態悪化は、将来の供給途絶・コスト増のシグナル
調達地域の生態系状態をモニタリングし、リスクが顕在化する前に対応
4. ステークホルダーへの「説得力」を高める
「Xヘクタール植林した」(アウトプット)より「生態系状態がY%改善した」(アウトカム)の方が説得力がある
投資家・規制当局・地域社会への説明責任を果たす武器になる
5. 「ネイチャーポジティブ」の証拠にする
KMGBFは「損失を止め、反転させる」ことを求めている
State of Nature指標なしに「反転」を証明することは不可能
早期に測定を始めた企業がベースラインを持てる
一言でまとめると
「どこに集中すべきか」を決め、「本当に効果が出ているか」を検証するためにState of Natureを使う。
測定指標が出たからといって、測定そのもの自体が目的ではありません。行動の優先順位付けと効果検証のツールとして活用するのが適切な使い方といえます。開示の解像度を高める手段が増えたわけですから、せっかくですから、挑戦してみたいですよね。
