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#230 「備える」の意味

大きな地震が起きるたびに、インフラの現場に携わる人間として考え込むテーマがある。災害への備えだ。社会の土台を支える仕事において、これほど重く、避けて通れない課題はない。

世間で言う「備え」には、性質の異なるふたつの側面がある。ひとつは、起こり得るリスクを洗い出し、事前に準備を整えておくこと。事態を予測し、マニュアルを磨き、設備を強固にし、備蓄を蓄える。「想定内」の網をどこまで広く、緻密に張れるかという備えだ。

もうひとつは、想定を超える事態に見舞われたとき、最悪の破局だけは回避すること。完璧な対応など望めない状況で、いかに被害を最小化し、事業や社会が息を吹き返せる「再起可能な状態」に踏みとどまれるか。あらかじめ引かれたレールの外側で発揮される備えである。

災害が起きるたび、「想定外だった」という言葉が批判の標的になる。だが、インフラを運営する組織の現実として、災害対応だけが日々の本業ではなく、投入できるリソース(予算、時間、人員)には限りがある。限りがある以上、どこかで「ここまでを想定としてカバーする」という境界線を引かなければ、組織は成り立たない。境界を引く行為そのものは、冷たく映るかもしれないが、実際には極めて現実的な意思決定である。

ただし、ここには条件がつく。「想定外」と呼ばれるものには、実は二種類が混ざっている。ひとつは、人間の予測が本当に及ばなかったもの。もうひとつは、予測はできたが、コストや優先順位の判断で意図的に境界の外に置いたものだ。後者は、想定した上での取捨選択にすぎない。それを「想定外」の一語で括ってしまえば、記録も説明も要らないことになってしまう。

つまり、境界線を引く行為が正当性を持つのは、「何を、なぜ、どういう根拠で外したのか」が残され、外部から検証できる状態にあるときだけだ。問われるべきは、その線をどう引いたかが誰にも見えないまま放置されている状況のほうだろう。責任は結果よりも、境界を決めたプロセスの側にある。

そして、本当の試練はやはり境界の外側で起きる。どれほど精密に想定を置いても、自然はその線を越えてくる。そこから先で効いてくるのは、紙のマニュアルや最新の設備よりも、人と組織の側に蓄えられたものだ。ただ、それを「訓練と教育とカルチャー」の一言で片づけてしまうと、何も言っていないのと同じになる。

具体的には三つあり、事前に関係者で合意をしておくことが必要だ。

① 誰がどこまで決めて良いかという権限の事前設計
② 判断を仰げないとき、現場が拠って立つ基準
③ 何を守り、何を捨てるかの優先順位

1つ目の備えが、何をするか?を条件別に定めたものの集合であるとすれば、2つ目の備えは、判断の拠り所そのものを定めておくことにあたる。

現場が最も迷うのは、すべては守れないと悟った瞬間だろう。何をすべきかわからないときよりも、何を諦めるかを選ばされるときのほうが、人は動けなくなる。そこで背中を押してくれるものがあるとすれば、平時に言語化され、共有された判断の型である。柔軟性という言葉は、その場の機転を連想させる。だが実態は、あらかじめ用意された型の厚みに近い。

だからこそ、「想定外」という事態そのものを責め立てても意味がない。境界を越えられたという事実は、人間の予測の限界を示したにすぎない。問うべきは、その線の引き方に説明責任が果たされていたか、そして越えられた先で踏みとどまる備えがあったか、である。

想定外は、批判するための落ち度ではなく、次の時代の「新しい想定」を作り上げるための材料なのだ。境界を引き直す割り切りと、越えられたときに粘る柔軟さ。このふたつを同時に持ち続けることこそが、私たちが目指すべき「備える」ということの本質ではないだろうか。

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