「アーカイブ・サテライトの園」第9話
●あらすじ
人工知能と人工意識を搭載したアンドロイドが普及し、多くの人間が仮想世界に入り浸るようになった近未来。人類は増え続けるデータに対処すべく、データ保存に特化した衛星アーカイブ・サテライトを打ち上げた。
その衛星へ送るデータを選別するアーキビストとして働いていた五塔重法は、不審な死を遂げた妻、エリコの死の真相を突き止めようと動き始める。
車椅子に乗る元探偵の老女、雪島時子と、一人息子を持つ備品管理課所属の刑事、冠木一獅、警官型アンドロイドのキャス、エリコの元同僚の荒角から協力を得た五塔は、宇宙素粒子物理学の研究者であったエリコが残した未完成の論文を頼りに、信じ難い真相にたどり着く。
レンガ造りでおしゃれな外観のファミレスだが、ドアの前に長い階段があった。時子さんの車椅子を上げなくては。しかし貧弱な俺1人では危険だろう。店の人に手伝ってもらおうかと考えていたら、急に車椅子の下からキャタピラが出てきて面食らった。
複雑な形をしているキャタピラは、階段を1段ずつ掴んで、ゆっくりと時子さんを運んでいく。後ろ側から車椅子ごと上がっていく時子さんは、呆気にとられる俺を満足げに見つめていた。慌てて階段を駆け上がるが、上り切ったのは時子さんとほぼ同時だった。予想よりも激しい息切れに、運動不足を痛感する。
「はぁ、はぁ、今の車椅子って、すごいですね。ボタン1つで車輪の下からキャタピラが出てくるとは思いませんでした」
「ふふん、すごいでしょ。私が階段を上がってると、大体の人が驚いてくれるの。だからもう階段見ると嬉しくなっちゃって」
時子さんが再び肘掛けのボタンを押すと、キャタピラが瞬時に収納された。どういう仕組みなのか気になりながら、時子さんの車椅子を押して入店する。
「いらっしゃいませ。2名様ですか?」
「はい。少し広めの席、お願いできます?」
「かしこまりました。どうぞ、奥の席のほうへ」
すぐに広々とした席に案内してくれた店員さんは、邪魔になる椅子を素早く片付けてくれた上に、車椅子用のトイレの場所も教えてくれる。気遣いにお礼を言うと、少し微笑んで立ち去った。制服の襟元に、アンドロイドの証であるハーモニー社のロゴマークがあった。
「良い店員さんですね」
「そうね」
意外と素っ気ない返事をした時子さんは、肩掛け鞄を下ろし、羽織っていた黒いケープコートを脱ぎ始めた。明るい店内は、かなり暖かい。俺もマフラーとモッズコートをはぎ取るように脱ぐ。適当に丸めて隣の椅子に置き、時子さんから受け取った鞄とケープコートを重ねて置いた。丁寧に畳まれたケープコートには、大きな金色のボタンが1つ付いている。まるで満月だ。時子さんのようだと思った。強すぎず弱すぎない希望の光で、導いてくれる満月。俺にとって、時子さんはそんな存在になっている。
「ふふふ、ファミレスに来るのは本当に久しぶり。相変わらず素っ気ない内装だけど、快適ねぇ」
「……そういえば聞くのを忘れてましたが、もしかして食事制限、ありますか?」
「ある。でも、今日くらいは自由に食べたい。まぁ、無茶しようとしても大したこと出来ないから大丈夫よ。ああ、お金も心配しないでね。私のおごり」
「え、俺が払いますよ。ファミレスのチャーシューメンくらい、俺におごらせてください。無償で捜査してもらっているし……」
「私に払わせて。シニアホームに入った頃は、国民給付金から施設の利用料を引いたら手元にほとんど残らないなぁなんて落ち込んでたけど、よく考えたら肝心な使い道がないのよ。これが困りものでね。毎月毎月、ほんの少し余ったお金が貯まっていくのを見ているとね、欝々としてくるの。やりたいことも欲しいものも、すぐ思いついた過去の自分と、何も思いつかない今の自分をつい比べてしまう。貯まれば貯まるほど心が重くなる。だから、私を助けると思って払わせて」
「……では、お言葉に甘えます。俺は羨ましい、なんて思っちゃいますが。でも、そういう風にお金に悩むこともあるんですね」
「不快にさせてしまったらごめんなさいね。でもきっと五塔さんも、数十年後に理解できるようになるから」
「数十年後かぁ。そんなに長生きできますかね」
軽く返しながらも、来年の春から先の自分の姿が全く想像できない。エリコの1周忌までは、なんとしても耐え忍ぶつもりだが、そこからどうするか。生きるか死ぬか。俺の脳は思考することを拒否している。
「どの川の水も同じ広い海に戻るのよ。長い川も、短い川も。いつまで生きるかなんて考えるくらいなら、今日何をして過ごすか考えるほうが有意義よ。思い付いたことを実行しているうちに、数十年なんてあっという間に過ぎてしまうわ。私みたいに」
時子さんはメニューを手に取り、熱心に読み始めた。データの川で溺れそうになる悪夢を思い出す。今度は流され続けてみるか。あの川の先も海なのだろうか。
「いらっしゃいませ。お水とおしぼりです。ご注文はお決まりですか?」
音もなく近づいてきた店員さんの声で我に返り、慌ててメニューをめくる。
「えーと、チャーシューメンってありますか?」
「はい、ございますよ」
「ではチャーシューメンを2杯、お願いします」
「かしこまりました。お飲み物やサイドメニューなどは、どういたしましょうか?」
「私は後で薬を飲むから飲み物は水だけで。サイドメニューかぁ……そうね、じゃあこのナッツとベリーのサラダを1ついただくわ。五塔さんも好きなもの頼んで」
「じゃあ、俺はホットコーヒーを食後に」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員さんが去ると、時子さんはつまらなそうにメニューを元の位置に戻した。
「もっと頼んでくれていいのに。期間限定の特大みたらし団子ケーキとか、カツ丼天ぷらタワー定食とか」
「俺を何歳だと思ってるんですか?見ての通り、そんなに食べたら後で大変なことになる年頃なんですよ。それに、やっぱりお金は無駄使いしないほうがいい。最近はどんどん税金が高くなってて、仮想世界の治安が悪くなってます。政府転覆を狙う集団も増えてきたし……国民給付金制度も今後どうなるか……」
「まだまだ若いでしょうに。それに五塔さんは痩せすぎだから、心配なのよ。これからの世界が不安になるのは分かる。現実世界はこんなに静かなのに、仮想世界はいつも狂乱状態。現役の探偵だった頃は仮想世界でよく情報収集していたけど、引退してすぐにアバターを消したわ。肉体は捨てられても、心は捨てられない。仮想世界にいると、外見が思うままになるからこそ、心の不自由さが際立ってしまう気がする。知らない間に心が剝き出しになったまま衝突し合って、余計に傷つけ合いながら生きてる感じ。あの雰囲気が私には合わないって、ずっと思ってたの。……大昔に仮想世界で派手なクーデター事件があったでしょ?」
「小さなカルト集団が寄り集まって、国際政府のメインシステムを乗っ取ろうとした事件ですか?」
「うん。私はあの事件の捜査にも少し関わったのよ。犯人たちの特定は仮想世界だけでは難しいから、現実世界からも捜索することになって。その手助けをしたの。捜査に大いに役に立ったのが、アンドロイドたちの視覚情報。いたる所にいるアンドロイドの目を監視カメラ代わりにして、手がかりを集めて犯人を捕らえたの。それで終われば良かったけど、国際政府はこの捜査方法を、一般市民の監視に転用してしまった。国民の安全を守るため、なんて名目で共生監視法っていう法律を作って。それからよ。仮想世界での犯罪件数が爆発的に増え始めたのは。無秩序な状態は何とかしなくちゃいけない。でも、過剰に抑圧すれば反発力も大きくなる。当然の結果ね。あの法律は愚策だったと思う」
「共生監視法……エリコの事件の捜査に利用できませんか?」
「利用できたら、すぐ容疑者たちを割り出せるでしょうね。でもあれは権力者にとって都合の悪い事件の捜査にしか、使えないようになってる。まったく腹が立つ。今までも何度悔しい思いをしたか。アンドロイドたちの視覚データもアーカイブ・サテライトに保存されているの。あの情報が使えれば、どれだけの被害者が救われたか。中央情報管理局に何度も訴えたけど、門前払いよ。国際政府は腐ってるわ」
水を一口飲んだ時子さんは押し黙った。控えめに流れるクラシック曲のメロディに、食器同士が当たる音と、微かな話し声が重なっている。波音のようで心地いい。眠気をごまかすように、俺も水を飲んだ。
子どもの高い声が聞こえて、ファミレスの入口近くに目を移す。はしゃぐ子どもを若い男性が落ち着かせていた。きっとアンドロイドのキッズシッターだ。休日も家族で仮想世界に入り浸ることが当たり前の時代。ファミレスに来るのは、子守中のアンドロイドか少数のお年寄りくらいだろう。ほとんど人間の気配がしない憩いの場。広場と同じだ。
「……ファミリーレストラン、皮肉な名前ですよね。もう家族連れなんてめったに来ないだろうに」
「本当にね。ファミリーレストランが国営化された時は私も驚いたわ。あの時に名前を変えても良かったのにね」
「そうですよね。税金の無駄使いって反対する人も大勢いたのに、名前はそのままでって、なぜかすんなり決まりましたよね」
「愛着というよりも執着、なのかもね。温かな家族像を、ファミリーレストランという名前に託しているのかしら。家族ってどんなものか、忘れたくなくて」
そういえば事件の第一発見者だった無口な女の子、風香ちゃんは今どうしているだろう。キッズシッターのアンナさんも元気だろうか。風香ちゃんの両親は、あの2人をちゃんと労わっているだろうか。
ファミリー。子ども。俺は子を持ちたいと思ったことはない。良い意味でも悪い意味でも、血の繋がりに思い入れが無いのだ。だから、今の国際政府の生殖制度には、概ね賛成している。
子を望む場合は、住んでいる地区に届け出て、国際政府の厳しい審査を受ける必要がある。審査が通れば、専門機関の中で子どもが育ち始めるのだ。人間の一生は試験管の中で始まる。受精卵から新生児になるまで、ずっと大きな試験管の中で過ごすのだ。卵子と精子の組み合わせは、国際生殖医療バンクがランダムに決める。つまり、子を望むなら他人の子を育てることになるのだ。
国際政府は健康な成人に、精子と卵子を冷凍保存することを義務付けている。ランダムに選ばれる卵子と精子は、受精した時に遺伝的な問題が出ないか事前に検査されるし、近親交配を極力避けるため、同じ精子と卵子のペアで生まれる子は、1人のみと法で定められているのだ。
さらに、国際政府は申請者に経済的な問題がないかどうかも、厳しくチェックする。特に問題が無ければ、独身者でも複数人の子どもを設けることができるのだ。
この生殖制度に納得できない人たちもいる。自然妊娠したり闇医者の手を借りたりといった様々な方法で、自分の遺伝子を受け継いだ子を設けようとする人も、少なくはない。しかしほぼ全員が逮捕され、子どもと引き離されてしまうのだ。
体外で人工的に胎児を育てる技術は試験管ベイビー、なんて呼ばれて大昔は批判されたらしいが、今では当たり前のように利用されている。このシステムを提案し、反対派を説得したのは主に女性たちだった。
しかし完全な社会的システムなんてあり得ない。子を捨てる親がいなくなることはない。俺のように、産みの親に捨てられた挙句、育ての親にすら捨てられて、施設で育った人も多い。しかし身分は保証される。その出自で不利益を被ることはほぼ無い。人間の職員もアンドロイドの職員も、ちゃんと愛してくれたと思う。だから俺は生身の親の愛、というものを欲しいと思ったことはない。興味すら持てないのだ。
俺の生物学上の両親の情報は、最重要個人情報として国際政府が地下のデータセンターで厳しく管理している。当事者でさえ、色々と面倒な手続きをしなくてはアクセスできない。俺は施設に戻った時に一度だけ、両親に関する書類を目にした。難しい文章が並んでいた。遺伝子情報に関することが羅列されていたように思う。俺自身よりも俺のことを理解しているのであろう内容に吐き気がした。
親になることに、特別な意味があると思えない。なんとなく子どもについて話していた時、そうエリコに打ち明けたことがある。一般的な夫婦の一人娘として育ったエリコも、共感してくれた。俺はその態度に安心していたが、あれは本心だったのかどうか、疑い始めている。本当は、母になってみたかったのではないのか。もう確かめられない。もう二度と。
「家族か……。子どもを虐待したり捨てたりする親は、増える一方ですよね。もうアンドロイドに子育てを完全に任せてしまうほうが、良いんじゃないかと思ってしまう。俺は捨て子で、赤ん坊の頃に独身の女性に引き取られましたけど、中学に上がった時にまた捨てられたんです。その後はアンドロイド職員ばかりの養護施設で育って。母親だった人には、やっぱり疑問や怒りがありますが、施設でお世話になったアンドロイド職員には心から感謝してます。何回も叱られましたけど、理不尽なことは一切されませんでした。母親だった人は、まだ幼い俺に愚痴ばかり言って聞かせました。言葉の意味は分からずとも、自分が粗末に扱われていることは分かってました。今も思い出すと、憎しみが胸の真ん中に食い込んでくる。大人になれば綺麗さっぱり忘れて許せるだろうなんて、甘い考えでした」
脳裏に浮かぶ母だった女の顔がぼやけている。深く恨んでいる人間の顔さえ覚えていられないのだ。愛する人間の顔も、きっと。エリコの顔は。そうだ。思い出せる。大丈夫だ。まだ鮮明に覚えている。
「そうだったのね……。養育に適しているのは生身の人間の親か、人工知能と人工意識で造られた親か。今もよく議論されてるわね。私も五塔さんと同じ意見。アンドロイドたちが行動の指針にしているものは、結局のところ私たちが残した情報よ。人間らしく言えば愛情と知恵。それをアンドロイドが正しく理解して、子どもたちに与える。それは人間の親がアンドロイドたちを介して、子どもを育てている、とも解釈できるのではないかしら。親の心理状態や経済状況に振り回されて、心身に深い傷を負う子どもが少なくなるのなら、養育にアンドロイドを介すべきだと思うわ。アンドロイドたちが養育関係の仕事を担うようになってから、児童虐待の発生率は少しずつ下がっているようだし。でも、もし私に育児経験があったら、アンドロイドを仲介させる育児に疑問を持っていたのかもしれない。母になるってどんな感じなのかしらって興味はあったけど、諦めたの。探偵業と相棒のあの人が手のかかる子どもみたいなものだったし、私が若い頃は、子を望む独身者への世間の風当たりがまだ強かったから」
「俺は、あまり興味がなくて。それに、俺もエリコもそれぞれの仕事で手一杯だったので、子どもを設けるかどうか真剣に話し合いもしませんでした。時子さんは、どんな風に育ちました? もしかしてご両親も探偵で英才教育を受けたとか?」
「そんなわけないでしょ。私が探偵になりたいって言ったら、泣きながら反対する堅実な両親だったわよ。私の子ども時代、そんなに気になる?」
「気になります。すっごく」
「えーなんで?いたって普通よ。両親は2人とも図書館司書でね。ああ、もう現実世界の図書館は無くなってしまったわね……真面目で倹約家で、常識的な両親だった。私は好奇心の塊みたいな子で、とんでもない事件をよく起こすから手を焼いたって、よく言われたわ。思春期には何度も両親とぶつかった。でも私も年齢を重ねて、ついに両親がほぼ同時に病で他界した時には、寂しくて恋しくて、しばらく何も手につかなかった。探偵を辞めようとも思った。自分自身が縮小して、砂粒になっていくような感覚が苦しくて。あんな状態になったのは、生まれて初めてだったわ。ずっと私は自分のことを、人間に擬態したアンドロイドか宇宙人だと思ってた。感情があるように振る舞うのが得意なだけで、本当は冷血だから。朝から夜まで、寒い家で椅子に座ったまま過ごした日に、急に気付いたの。あなたは人間だって、最後に両親から教えてもらったんだなぁって。暖かい風が吹いたような気がしてね。泣いて笑って、真夜中にカップラーメン食べたのよ。美味しくて、もう大丈夫だって思えた。冷たい空気と温かい空気がぶつかると上昇気流が生まれるでしょ?心の中で同じようなことが起きて、私は浮上できたの。たぶん」
立てた人差し指をくるくると回しながら説明してくれる時子さんは、楽しそうだ。人間の親。今まで平面的だったイメージに、奥行きが出てきた。
「俺も落ち込みますかね。あんな母親でも、亡くなったら」
「気持ちの変化は誰も予行練習できないからね。予測しても大体は外れるわ。事が起きた時の自分にお任せすればいいのよ。今は今、未来は未来。今は今の気持ちだけ、大事に抱えるの」
ずっと張っていた背中の筋肉が緩んで、肺の奥まで空気を送り込めた。今まで数人の心理カウンセラーに世話になったが、話していて、こんなに落ち着くことはなかった。
「お待たせしました。チャーシューメン2つと、ナッツとベリーのサラダです」
不意に丼が視界を遮って、目の前に置かれた。醤油の香りで胃腸が動き始める。
「コーヒーは食後にお持ちします。ごゆっくり」
店員さんが離れていくのを待って、箸を手に取った。時子さんも箸を手にしたが、丼をのぞき込んだまま動かない。眉間に皺を寄せている。
「どうしました?」
「……チャーシューがね……」
丼の中央に鎮座している分厚いチャーシューには、美味しそうだという以外の感想が生まれない。おそらく人工的に作られた安価な肉だろうが、きちんと調理されている。
「どこか変ですか?アレルギー?人工肉は受け付けない、とか?」
「いいえ、ただ思ったより分厚くてね……。見ただけでお腹いっぱいになっちゃった。五塔さん、私の分も食べられる?」
「え、でもチャーシュー取ったら普通のラーメンになっちゃいますよ?」
「最初から普通のラーメン頼むべきだったわね。メニューで見た時は食べられる気がしちゃった。困ったわ。無理して食べたら医者から怒られちゃうし、残すのは忍びないし。五塔さん、引き受けてくれない?」
「じゃあ、ありがたく頂きます」
大きなチャーシューが追加された俺の丼は、一層華やかになった。
「ふぅ、これで大丈夫。では、いただきましょうか」
時子さんとほぼ同時にスープを飲む。長く眠っていた食欲に火がついて、すぐに麺をすすった。美味しい。チャーシューをかじると、肉の繊維がほろほろと解けていくのを感じた。しっかりした旨味もある。上質な人工肉だ。またリズムよく麺をすすってはスープを飲んで、チャーシューをかじる。
「見事な食べっぷり。こっちも元気でてくるわ」
「あ、下品ですみません。なんか今日はお腹空いて。普段はあんまり食欲湧かないんですけどね」
「美味しそうに食べるから、つい見とれちゃったのよ。ふふふ、こうして誰かと食事をするのは、やっぱり良いもんだわ。シニアホームでは基本的に個室で食事するから。いくら快適な場所で美味しいものが並んでても、口を動かすのが自分だけって状況は、食欲を減退させるわね」
時子さんは丁寧に麺をすすり、咀嚼して飲み込んでから、美味しいと呟いた。大胆不敵なこの人でも、孤独感に襲われる時があるのか。
「……意外です。時子さんは孤独に強そうだと勝手に思ってました」
「そんなわけないわ。人間は孤独に慣れることはあっても、強くはなれないわよ」
俺はエリコ不在の孤独に慣れ始めている。他人との食事を楽しめるほど。苦みが舌に広がる。麺をすすって誤魔化した。生きていくなら、この苦みと付き合わなくてはいけない。また麺をすする。
スープを飲んで、チャーシューを咀嚼して。繰り返すのだ。苦みと共に絶望して希望を持ち、また絶望する。そして、いつか完全に苦みを感じなくなるのだろう。また苦い。麺をすすれば丼はほぼ空になった。時子さんは麺が半分ほど残っている丼を放置して、フォークでサラダを突いていた。
「私に付いてくれている介護士のクロエさん、知ってるでしょ?昨日、孤独をどう思うかって聞いてみたのよ。でも過去の哲学者や心理学者の見解しか返ってこなかった。クロエさんの意見が聞きたいのってわがまま言って、困らせてしまったわ」
「クロエさん、アンドロイドですからね」
「そうよね。そうなのよ。つい人間だと思ってしまう。これは良くない癖だわ。痛い目に遭ったのに、また繰り返して。クロエさんに悪いことをしてしまった」
「痛い目に遭った、というのは?」
ブルーベリーを口に運び、ゆっくり咀嚼して飲み込んだ時子さんは、フォークを置いて話し始めた。
「あのシニアホームに入居して最初に驚いたことは、クロエさん。今まで色々なアンドロイドと関わったけれど、人間と会話してるって錯覚できるアンドロイドは、あのクロエさんだけだったわ。答えのない質問にも、自分なりの答えを返してくれたから。すぐに自分の担当になってもらって、時間が許す限りお喋りの相手をしてもらった。楽しかったわ。でもその応対がバグだって判断されて、修理に出されてしまったの。修理されて戻ってきたクロエさんは、全くの別人だった。性格や記憶や癖は元のままでも、明らかに言語や思考に関する部分がすり替わってた。施設長はクロエさんをアップグレードしたんだって、鼻高々だったわ。学習データを増やして、正しい受け答えができるようになったんですよって、嬉しそうに言うの。晴々とした顔で施設長の隣に立ってるクロエさんを見てたら、たまらなくなってね。泣いてしまった。あの日から、アンドロイドとは距離を置くように心がけてる。お互いのために。上手くいかないけどね」
「……それは衝撃的ですね……。アンドロイドにとっての死か……。キャスさんも、いつか修理されたら変わってしまうでしょうか」
「表層のパーツ交換くらいで済むなら心配ないでしょうけど……。試験管の中で人工的に発生する人間と、意識と知能を生み出す電気回路を持ったアンドロイド。生物とロボットの違いなんて、紙一重なのかもしれない。言ってしまえば、両者とも思い出の集積ね。私たちの記憶は脳の神経回路で作られ、維持される電子データなのかしら。本当に私たちは何者なのかしらね。生きているという意識は、なんでこんなにも心許ないのかしら。自分たちの定義も曖昧なまま、作るべきじゃなかったのかもしれない。自分たちと似すぎてるロボットなんて」
ラーメンのスープを飲み干し、キャスさんの抱える人間らしい矛盾を思い出した。交番勤務に戻りたいけれど、戻りたくない。キャスさんは葛藤している。俺たちと同じように。
「悩みを抱えているアンドロイドも、いますよね。それこそ時子さんみたいに、自分たちは何者なのかと考えているアンドロイドだっているはずです。彼らは俺たちの生き写しなんだから」
「そうね……人工知能が思考させ、人工意識が苦痛を生み出す。その事実から目を背けてアンドロイドに奉仕させ続ける。本当に人間は残酷ね」
「お待たせしました。ホットコーヒーです。食器、お下げしますね」
俺の食べ終わりを察知したのであろう店員さんが、目の前にホットコーヒーを置き、丼を回収していく。完璧に微笑んでいる顔は、クロエさんと似ていた。
「ああ、私のお皿も下げていただける?残してしまって、ごめんなさい。美味しかったのだけど、お腹いっぱいになってしまって」
「構いませんよ。気になさらないでください」
2人で軽く頭を下げると、店員さんは軽い足取りで去っていった。その背をしばらく見つめていた時子さんは、急に振り返ってグラスを掴んだ。
「さぁ、忌々しい薬の時間よ。五塔さん、私の鞄、取ってくれる?」
「ああ、薬ですね。ちょっと待ってください。よっと」
肩掛け鞄を渡すと、時子さんは鞄の中から大きなピルケースを取り出した。色とりどりの錠剤を慣れた様子で手のひらに乗せ、一気に口に放り込む。すかさず水を飲んで、ため息を吐いた。薬の包装シートをかき集める時子さんの姿に、落ち着かなくなる。
「……この捜査は、時子さんの身体の負担になってませんか?」
「ふふ、好きでやっていることだから大丈夫。本当に辛くなったらちゃんと言うから、心配しないで。はい、これからは私より五塔さんのことを話しましょう」
「え?俺のことなんて聞いても、きっとつまらないですよ」
「なんだか私ばっかり話してる気がするから。趣味は?好きな音楽とかは?」
「えーっと……うーん……趣味らしいものは無いですね。ずっと仕事ばかりだったから。音楽もあんまり聴かないな……」
がっかりさせていることだろう。しかし時子さんの瞳は輝きを失わない。研究所で一瞬覗かせた、あの猛獣のような目になりかけていた。
「まぁ、真面目なのね。じゃあ奥様のことも聞いていい?」
「は、はい」
「エリコさんの本名は江利川遠子、よね?でも通称はエリコ。ユニークで素敵なニックネームだわ。誰が付けたの?」
「俺です。本人も気に入ってたみたいで、親しい人全員にそう呼ばせてました。だから結婚する時は夫婦別姓に、って即決でしたよ。あだ名が余計にややこしくなるから」
「ふふっ、あだ名が夫婦別姓を選んだ主な理由なのね。面白い」
「どちらかの姓を変えると手続きが面倒というのもありますけどね。俺は五塔重法から江利川重法になっても良かったんですけど、エリコが駄目だって強く反対して。法隆寺の五重の塔じゃなくなっちゃうって」
「ふふふ、それは反対するわ。それで?馴れ初めは?もしかして、あだ名がお付き合いのきっかけ?」
「期待できるほど面白い話じゃありませんよ。本当につまらないと思いますけど……」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない。それに、さっき私はあなたの質問にいくつか答えた。何事も公平に、でしょ?」
逃がさない、という時子さんの視線に白旗を上げた。
「じゃあ話しますけど、期待しないでくださいよ。俺とエリコは大学の同期生で。天文学サークルで知り合いました。そのサークルの新入生は国立天文台の見学ツアーに連れていかれることになってまして。よくある、親睦を深めるためのイベントです。俺も参加したんですが、口下手だから話し相手も見つけられなくて。ずっと1人で展示物を見ていたら、同じことをしてる人がいたんです。それがエリコでした。でもエリコは本当に展示物に夢中になってたんです。職員さんに質問したり、メモを取ったりしてて。俺とは目の輝きがまったく違いました。目玉の中に銀河があって、燃えてた。俺とは似ても似つかない人なんだと思ったら、無性に気になって。思い切って話しかけたら、話が盛り上がった……というかエリコが一方的に喋ってただけなんですけどね。あんまり楽しそうに宇宙のことを話すから、聞いてる俺のほうも楽しくなってきて。結局ずっと話に付き合ってました。それで、ええと名前が……国立天文台に古くて大きな、塔みたいな望遠鏡があって……」
「太陽塔望遠鏡?5階建てくらいの高さの塔が、丸ごと望遠鏡になってるやつでしょ?」
「それです!その模型の前で、職員さんが天体観測の始まりの歴史を説明してくれたんです。大昔に今の中東地区のあたりで、エリコの塔という世界最古の星見櫓が造られたんだと。そのエリコの塔という名前が妙に耳に残りました。休憩の時間になって、2人で昼食を食べながら色々話しているうちに、お互いにあだ名を付けようって話になったんですよ。その時にエリコの塔を思い出して、江利川透子だからエリコはどうだって俺が提案して。俺は重法だから、のり君ってことに……はい、これで話はおしまいです」
後半は早口で話し切り、水を飲んで熱くなった顔面を冷ます。
「うふふふ、一目ぼれしたその日にランチデートに誘ったのね?意外と手が早いのねぇ、のり君は」
含んだ水を吹き出しそうになった。
「デ、デートとか、一目ぼれとかじゃないですよ。その時はまだ、友達同士で昼ご飯を一緒に食べただけです」
「恥ずかしがることないじゃない。お互いにあだ名を付け合うなんて素敵よ。エリコさんは特に瞳が綺麗な人だったのね。燃える銀河を瞳に宿している人は、そうそういないもの。お会いしたかったわ」
「エリコと時子さん、きっとすぐに仲良くなれたでしょうね。そんな気がします。もしかしたら俺より時子さんのほうが、エリコのことをよく理解できたかも……」
これまで順調に楽しく話せていたのに、喉の奥が急に締まって声が出なくなった。咳払いして言葉を続けようとするが、上手くいかない。口元を抑えた手の感触で、鼻水が出ていることを察する。すぐに紙ナフキンで拭こうとして、涙だったことに気付いた。
「……苦しいわよね、五塔さん。私はね、苦しみこそが現実に生きていることの証明だと思うの。確かに生きているから、苦しいのよ。取引しましょう。私は絶対にこの事件を解決するわ。だから生きてね。どんな結末だとしても自分で終わらせないで。生き切って。残酷なお願いだけど、どうか取引に応じて。私も命の限り生きるから」
追加の紙ナフキンを乱暴に取って、顔に押し当てる。情けない泣き声と涙を必死に覆い隠す。やっぱり長生きなんて無理だ。きっと俺はただひたすら崩れていく。どうなるか想像するのも恐ろしい。酸欠の魚のように息を吸う。コーヒーの苦い香りがした。
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