春藤佳奈監督 『アポカリプスホテル』 : 偽善に耐えられない〈弱さ〉
テレビアニメ評:春藤佳奈監督『アポカリプスホテル』(2025年・全12話)
本作は、一昨日までは、その存在さえ知らなかった作品である。本年4月から6月まで日本テレビで放映されたものだが、私の「note」のプロフィール記事のコメント欄に、この作品を紹介する下のようなコメントを下さった方がいて、番組配信サービスのABEMAテレビで再放送していたのを、無料視聴したのだ。
けつかく
2025年10月6日 15:14
年間読書人氏にSFアニメ「アポカリプスホテル」お勧めします、詳細と評判は検索願います。abemaTVであと2日ほど公開されています。

「けつかく」氏がこのようなコメントを下さったのは、たぶん、私がその前日(2025年10月5日)に「ポスト・アポカリプスの世界」を描いたアニメ『けものフレンズ』の作品論をアップしたからであろう。
失礼ながら確認させていただいたところ、「けつかく」氏のこのアカウントは、まだ「note公式」をフォローしているのみで、フォロワーもゼロの、極めて新しいアカウントだというのがわかった。
つまり、このアカウントは、私に『アポカリプスホテル』の存在を知らせるために、わざわざ作られたものだという蓋然性が低くないのである。
「けつかく」氏は、上のコメントで、ご自分の評価を語ってはおられず、これはきっと「あなたなら、どう評価する?」という含みがあったためであろう。言うなれば、一種の「試験」でもあれば「挑戦」なのだと感じたので、私も「それでは」と、本作『アポカリプスホテル』を見ることにしたのである。
したがって、「ポスト・アポカリプスもの」だという理由だけで、本作『アポカリプスホテル』を見たわけでは、決してなかったのだ。
○ ○ ○
さて、では全話視聴してどうだったかというと、これはなかなかの良作で、見て損のない作品であった。
しかしながら、「残る作品」かと言えば、そこまでのものでもないというのが、私の感想であった。
そのあたり感触は、「けつかく」氏への、下のようなレスにも示されていると思う。
年間読書人
2025年10月7日 01:28
> けつかくさん
おすすめいただいた『アポカリプスホテル』、全話楽しく視聴させていただきました。 なかなか良い作品でした。
主人を待ち続けるロボットの話って、わりとよくあるパターンだとも思うんですが、あの設定は切ないですよね。まさに私のツボでもあります。 また、ぽん子が可愛いのも良かった。
ただ、全体としては、いささかまとまりに欠く感じもありました。でも、良作だとは思います。 おすすめ、本当にありがとうございました。
なお、良かったら、下のリンク集にまとめてある、ロボットもののマンガや小説のレビューをお読みいただければ幸いです。 マンガ『ぽんこつポン子』のレビューもあります。偶然のポン子つながりですが(笑)。 https://note.com/nenkandokusyojin/n/nd308451b4262
本作『アポカリプスホテル』の魅力は、明らかで、要は「いい話」だということになるだろう。
そのあたりの魅力を語ったレビューとしては、「Google」に寄せられた、次のような評価が、最も端的なものであろう。
次元大介
4 か月前
何だか切なくて
何だかほっこりして
何だかクスッとなるアニメ
銀河楼で癒されたい
ハエトリロボ可愛いです
ただし、本作については「評価が分かれている」という見方もあって、否定的な評価としては「何も起こらない」というのが、あるらしい。
しかし、こうした評価の多くは、たぶん「第1話」だけを見てのものなのではないかと推測される。それで視聴をやめてしまった人も少なくないのだろう。
しかしながら、この「何も起こらない」というのは、本作が「ポスト・アポカリプスもの」であるからには、ある意味、当然のことなのだ。
と言うのも、アポカリプス(黙示)とは、聖書の「ヨハネの黙示録」などに描かれた「神と悪魔(善の勢力と悪の勢力)の最終戦争(ハルマゲドン)」などによる世界の終わり(終末到来)の様子を、黙ってそのまま示したもの、というほどの意味であり、したがって「ポスト・アポカリプス」とは、「最終決着がついた後」の世界、言い換えれば「終末」世界のことである。
当然、そんな「終わった世界」おいては、「ドラマ(葛藤)」など発生しないし、存在しないはずなのだ。
ただし、本作『アポカリプスホテル』で描かれる「ポスト・アポカリプスの世界」とは、『けものフレンズ』で描かれたような「世界最終戦争による、人類の死滅後の世界」ではなく、「謎のウィルスの蔓延によって、人類が宇宙へ脱出した後の不在世界」である。
これがなぜ「アポカリプス」の世界になるのかと言えば、この「霊長類だけを対象にした致死性ウィルスの蔓延」というのは、「神の最終的な裁き(最後の審判)」だと解し得るからだ。
本作の中では、特に人類が「悪いことをした」とは描かれていないけれども、それでも人類の文明は、神に裁かれて「エデン追放」の憂き目を見た。「人類の文化」は否定されたと、そう考えうるのである。
で、人類が宇宙へと去っていった後には、ロボットたちが残されており、人類から「その後の管理」を託されて、主人である人類の帰還する日を待って、永遠の時とも言える時間を、もくもくとその役目を果たしていた一一というのが、本作の世界設定であり、物語な発端なのだ。

したがって、本作は、大筋においては大きなドラマは起こらず、帰るあてもない主人を待ち続ける「けなげなロボット」たちの姿を描いた作品なのだと言えよう。
言うなれば、帰らぬ主人を駅頭で待ち続けた「忠犬ハチ公」だとか、南極に置き去りにされながらも主人の帰還を待ち続けたタロとジロを描いた映画『南極物語』(1983年)などの系譜に連なる「泣かせる作品」なのである。
だが、本作『アポカリプスホテル』は、そのような「基本設定」の上に立ちながらも、第2話以降は、そうした「静謐な世界」からは徐々に外れて、にぎやかなドタバタも起こる世界へと変質していく。
一一というのも、宇宙人(地球外生命体)がホテルの客としてやってくるようになるからだ。
つまり、残されたロボットたちの「ルーチンが繰り返されるだけの静謐な世界(死の世界)」ではなくなるのである。
以上のような本作の発端は、次のように紹介されている。
『未知のシダ植物由来とされるウイルス様物質の大気中濃度増加によって存亡の危機に立たされた人類が、地球を脱出してから長い年月が経過した。無人となった銀座にあるホテル「銀河楼(ぎんがろう)」では、従業員ロボットのヤチヨたちがオーナーの帰還と客の来訪を待ちながら日々の業務をこなしていた。100年ぶりに銀河楼に訪れたのは地球外生命体だったが、ヤチヨはホテルの威信をかけて客をもてなすべく奮闘する。』
(Wikipedia「アポカリプスホテル」)
このホテリエロボットのヤチヨは、漫画家の竹本泉が原案デザインをした美少女型のホテルメイドだったなのが、仲間の人型ロボットたちの経年劣化による活動停止を受けて、今や、このホテル銀河楼の「支配人代理の代理」を務め、各種の作業ロボットたちを指揮して、客の来ないホテルを、それでも通常どおりに運営しながら、「いつか必ず戻るから、それまでは頼む」と言って宇宙に去った支配人の帰還、そして人類の帰還を待ち続けていたのだ。
そんなわけで、本来なら、本作の基本設定では、ドラマは発生しない(客が来ない=ドラマの要素が加わらない)ので、ドラマらしいドラマには発展しないのだが、宇宙人が客としてやってきたことで、ドラマが動きはじめる。
第2話に初の宇宙人客が登場し、彼(?)が去った後、第3話では、以降重要なレギュラーキャラクターとなる「タヌキ星人の一家」がやってくる。



タヌキ星人の本来の姿は、地球のタヌキとほぼ同じなのだが、ただしその知能は人間よりも少し上くらいの感じで、言葉も喋れば、タヌキらしく変身能力もある。
だから、物語の舞台である「ホテル銀河楼」には、人間に化けてやってきたのであり、その後、正体がバレた後も、基本は人間体ですごしているし、この一家(父・母・娘・息子・祖母)の幼い娘であるポン子が、ヤチヨに憧れてホテル銀河楼で働くことになり、さらには、宇宙人の客も徐々に増えてくることで、物語が新たなステージへと移るのだ。
したがって、主人公はヤチヨであり、サブメインはポン子だと言ってもいいだろう。それに、ゲストキャラである宇宙人たちが絡んで、個々のドラマが展開するのである。
ヤチヨはロボットだから、基本的には「融通の効かない真面目キャラ」であり、その真面目さや健気さが、見る者に、ある種の「痛ましさ」を感じさせて、同情心を喚起する。
その一方、第1話がそうであったように、それだけでは話が暗くなりすぎるので、ポン子を筆頭にタヌキ星人一家がドタバタを含めた「明るい笑い」を作品にもたらし、ヤチヨを想うポン子の優しさが、見る者をホッコリともさせれば、感涙を誘いもするのだ。

そんなわけで、本来なら「ドラマらしいドラマが起こらないはずの世界において、それでも泣かせる話が展開するので、思わずグッと来る」から素晴らしいと、高く評価する人がいる。
しかしその反面、「何も起こらない」あるいは「話が地味だ」と不満を鳴らす人もいて、それが「評価が二分されている」という見方にもなるのだが、この二分した評価については、その意味を分析した評論も書かれている。
「おうち時間シアター」というサイト所掲の、下の無署名記事「『アポカリプスホテル』評価は賛否両論?面白さと“つまらない”の声を徹底分析」が、それである。
しかしながら、一読してわかるのは、この記事は明らかに『アポカリプスホテル』を肯定する立場から書かれており、その趣旨は「本作は、見かけ上は地味な作品だが、取り残されたロボット、特にヤチヨの心情を慮れば、味わい深い作品である」という趣旨のものでしかない。
一一だが、そんなことは「当たり前」の話であり「見たまま」でしかなく、『徹底分析』なんてものでは、ぜんぜんない。
人類に置き去りにされたロボットたち、特にヤチヨの健気さや、その「切ない気持ち」を察して、見る者も切なくなるというのは、言うなれば本作『アポカリプスホテル』の作り手の「狙い」そのものであって、こう見てほしいと作られた作品を、その「狙い」どおりに見ているだけなのだから、鑑賞態度としては「何の曲もない」とも言えるものでしかないのだ。要は「右を向け右と言われて、右を向いているだけ」なのである。
そこが問題なのだ。
したがって、本作『アポカリプスホテル』について、一歩踏み込んだ「鑑賞」をしようとした場合、当然ひっかからなければならないのは、第7話に登場する「神の杖」のエピソードということになろう。
「神の杖」とは、今でいう「陰謀論」として語られてきた、アメリカの秘密宇宙兵器のことである。
宇宙の攻撃衛星から打ち出される金属棒が原爆並みの威力を発揮すると考えられたもので、この金属棒というところから、神の下す鉄槌としての杖ということで、「神の杖」と呼ばれるようになったようだ。

で、これがどうして本作『アポカリプスホテル』と絡んでくるのかというと、一一銀河楼へ宇宙人のお客がやってくるようになり、ホテルがホテルらしくなってきたのを喜んで、ヤチヨたちはさらに宇宙人のお客を呼び込もうと考える。
そこで、有名な宇宙人召喚の儀式である、数人が輪になって「ベントラベントラ、スペースピープル」という言葉を繰り返し唱えるというアレをやるのだが、当然のことながら、イマイチ効果がハッキリしない。
そこで今度は、人類がいた頃には実用化されていた「広告衛星」を打ち上げようという話になる。
昔のものは、地上向けの広告だったが、今回は外(宇宙)向けの広告衛星を打ち上げようということになったのだ。
これは、ヤチヨたちロボットには、半永久的な時間があるのと、タヌキ星人も大変な長寿であったため、ロケットや衛星を作る時間的余裕だけは存分にあったし、そもそもポン子たち一家は、母星の戦争から逃れて宇宙を旅し、やっと地球にたどり着いたという経歴の持ち主だったから、ポン子の父は宇宙工学にも通じていたし、ポン子もそうした方面での天才だったため、可能となったことなのである。

だが、話は「広告衛星」では済まなかった。ポン子が、オカルト雑誌『ヌー』(もちろん『ムー』誌のパロディ)の影響を受けて、衛星に「神の杖」を搭載しようと言い出したのだ。

当然、基本「優等生」であるヤチヨは、その必要はないと反対するのだが、それに対してポン子は、戦争のために母星から去らなければならなかったこと、そして流浪の果てに、やっと安住の地としての、この「銀河楼」を見つけたのだから、ここだけは絶対に失いたくはないし死守したいと願っていることを、ヤチヨに泣訴するのだ。
で、なぜポン子がこんなことを言い出したのかと言えば、それは前話である第6話に、宇宙のすべての文明の破壊を目論む「凶悪宇宙人」、ポン子があだ名したところでは「ハルマゲ」(ハルマゲドン=最終戦争から採られたもの)がやってきて、当初、地球文明を破壊しようとした、という事件に遭遇したからである。
しかし、そんな文明破壊者ハルマゲに対し、ヤチヨが「すでに、この地球には文明と呼べるものは存在しません」と説明し、現状を見せることによってハルマゲを納得させ、またそんなヤチヨに、ハルマゲは破壊者らしからぬ好意的な感情を微かに滲ませながら、宇宙へと去っていくのである(ちなみに、ハルマゲのこの微妙な感情に気づいているのはポン子だけで、ヤチヨは無論、無骨なハルマゲ自身も気づいてはいない様子)。

で、破壊者らしからぬハルマゲがどうして、文明を滅ぼすための旅を続けているのかというと、要は、高度な文明は必ず、自滅という悲惨な結末をもたらすので、そうなる前に文明を破壊してやろうという考えなのである。つまり、ある種の「善意」から出たものであり、やはりハルマゲは根っからの悪党などではなく、明らかに「本当はいい奴」として描かれているのだ(『HUGっと! プリキュア』のラスボス、ジョージ・クライと似たような思想も持ち主なのである)。
そんなわけで、『アポカリプスホテル』のスタッフは、明らかにハルマゲを好意的に描いており、さらにその証拠としては、この第6話では、ハルマゲによって母星を破壊された異星の「正義のスーパーヒーロー」4人組が、ハルマゲを追って地球にやってきて、ハルマゲを倒そうとする戦いが描かれている。
当然、最終的にはハルマゲが勝つことになるのだが、問題は、この「正義のスーパーヒーロー4人組」が、アメコミヒーロー的ではあるものの、あまりカッコ良くはなく、どちらかといえば、見た目に「悪党」っぽい点だ。
つまり、本作スタッフは、明らかにハルマゲな肩入れしており、作品鑑賞者にも、同様に感じてもらえるように、故意にそのように描いているのだ。
一一だから、何も考えずにボーっと見ていれば、破壊者ハルマゲは、やってることは乱暴だが「本当はいい奴」だと、そう思わされてしまうようになっているのである。
だが、普通に考えれば、ハルマゲの「善意」は、所詮「独善」でしかない。
その星の人々が求めた「文化・文明」を否定して破壊する権利が、どうして彼にあるのか。
彼の母星ならば、そうした意見も一理はあるだろう。だが、他の星については、そんなことをする権利など彼にはなく、所詮それは、彼の価値観や美意識の、一方的かつ暴力的な(ウラジミール的な)押し付けでしかないのである。
要は「独りよがりなキチガイ」だと呼んでも良いのであり、彼が危険人物として命を狙われるのも、復讐の対象となるのも、それは「当前のこと」であり、自業自得でしかないのだ。
一一だが、本作では、そうは見えないように、「欺瞞的な描写」がなされているのである。
で、そうした本作作り手(制作スタッフ)の「欺瞞的描写」は別にして、その次の第7話では、ハルマゲのような存在を見たせいでポン子は(第6話では、ヤチヨとハルマゲが実はラブラブだなどと喜んでいたわりには)、またハルマゲのような破壊者が、いつ地球にやってくるかも知れず、そうなれば、新たな安住の地である地球であり「銀河楼」を失うことになりかねないと、それでポン子は「強力な防衛兵器」の必要を確信するようになったというわけなのだ。
で、当初は、ポン子の「神の杖」計画に反対していたヤチヨだったのだが、ポン子の思いを聞き、そして何よりも「防衛手段がなければ、銀河楼は守れない」というひと言によって、一転してポン子の「神の杖」計画に賛同することになるのである。

そして、ついに衛星はうち上げられ、衛星軌道上で、ヤチヨが「神の杖」の設置作業を進めるのだが、そこへ想定外の太陽フレアが襲う。
そのために、ヤチヨは故障してしまい、「神の杖」の設置は失敗するし、ヤチヨは衛星から切り離されて、衛星軌道上を独りさまよい続けることとなって、次の第8話では、成長したポン子がヤチヨに代わり「銀河楼支配人代理の代理の代理」を務める姿が描かれたりするのだ。
ちなみに当然のことながら、ヤチヨはのちに銀河楼に帰還することになる。
そんなわけで、本作『アポカリプスホテル』の最大の「疑問点」であり「問題点」は、「神の杖」に象徴される、原子爆弾級の「過激な防衛兵器が肯定されている」という点なのだ。
最終的には設置に失敗しはするものの、ポン子は無論、主人公のヤチヨも「神の杖」に賛成したままなのだから、これは被爆国日本のアニメとしては、極めて「異例」なことだと言えよう。
普通ならば、最後は「やっぱり、先制殲滅兵器みたいなものを認めたのは、間違いだった」となるのが、子供や若者向けに作られる日本のアニメ作品の常なのだが、本作は、そうした「理想論としての武力保持の否定=絶対平和論」を支持してはいないのである。
まただからこそ、ポン子が「支配人代理の代理の代理」を勤めている時期の「銀河楼」の外観は、多彩な武器で武装された、物々しいものともなっているのである。
したがって、この「神の杖」をめぐるエピソードは、普通に考えれば、ひっかかって然るべきものなのだ。
『アポカリプスホテル』のスタッフは、なぜ過激にも「防衛的先制殲滅兵器の必要性を、わざわざアニメ作品の中で認め、その思想を表現したのか?」と、一度はそう考えて当然なのである。
そこで私は、本作鑑賞し、「けつかく」氏へのレスを書いた後、さっそく本作の「Wikipedia」を確認してみたところ、やはりそこには、次のように書かれていた。
『作中で100年以上の時が流れ、異星人との交流もあるなどSF要素も多い。また人間とロボットの倫理観の違いも強調されているが、現代の視聴者には倫理的に好ましくないと受け取られかねない展開もあり、CygamesPictures代表の竹中信広は今後の情勢により配信が停止される可能性もあるため、パッケージで手元に置いてほしいと発言している。』
(Wikipedia「アポカリプスホテル」)
ここで言う『現代の視聴者には倫理的に好ましくないと受け取られかねない展開』とは、当然、「神の杖」をめぐる第7話のエピソードのことである。
その点を、平和主義者から批判されて、テレビ放映が出来なくなるかもしれないから、今のうちにDVDを買っておいてくれと、そういう話なのだ。
つまり、『アポカリプスホテル』のスタッフは皆、あのエピソードが「反・絶対平和主義」的であり「挑発的な内容」であることを百も承知で、確信犯的にあのように描いていたのである。
したがって、本作『アポカリプスホテル』は、「最終戦争後の人類の死滅した世界」を描いた『けものフレンズ』とは違い、人類に直接的な「罪」のない致死ウィルスの蔓延によって、人類がいなくなった後の世界を描いているとはいうものの、じつは「最終戦争」へと至る道筋の上にある「兵器」の装備を肯定している、極めて危険な「プレ・アポカリプス的な作品」だとも言えるのだ。
一見したところ、「真面目で健気」なヤチヨと可愛いポン子が主人公であることから「平和なイメージ」を一般には持たれるのだろうが、本作の本質は、必ずしもそうしたものではない。
本作は、その端々に、明らかに「暴力性」への志向を覗かせており、「偽善的な良識=絶対平和主義」への「反感」を滲ませた作品なのである(例えば、無害そうな「環境チェックロボ」の、攻撃形態への変形を見よ)。

しかし、こうした「危険思想」は、いったいどこから出た、誰のものなのだろうか?
普通ならば、監督の春藤佳奈のものだと考えられるのだが、この春藤佳奈にはWikipediaすら存在せず、これまで、これといった実績が無かったのか、どういう経歴の人なのかが、よくわからなかった。
そこで次に目をつけたのは、「シリーズ構成」を担当し、脚本も書いた、村越繁の存在であった。
私が「けつかく」氏へのレスに、
おすすめいただいた『アポカリプスホテル』、全話楽しく視聴させていただきました。 なかなか良い作品でした。
主人を待ち続けるロボットの話って、わりとよくあるパターンだとも思うんですが、あの設定は切ないですよね。まさに私のツボでもあります。 また、ぽん子が可愛いのも良かった。
ただ、全体としては、いささかまとまりに欠く感じもありました。でも、良作だとは思います。
と書いたのは前述のとおりだが、ここで問題となるのは、『全体としては、いささかまとまりに欠く感じ』という部分である。
本作がそうした欠点を持つのならば、その責任は、ひとまず「シリーズ構成」の村越繁にあると見てもいいからだ。
そこで、村越繁の「Wikipedia」を確認したところ、案の定、あったのである。これだというような記述が。
『評価
ゾンビランドサガに脚本参加していたますもとたくやは、「(会う前に読んでいた村越の脚本から)もっと尖った、やばい感じの人だというイメージを抱いており、実際に会うとすごく気さくでやさしい方であったため、逆に狂気を覚えた」と称している。』
(Wikipedia「村本繁」)
つまり、村越繁は、一見したところ『すごく気さくでやさしい』人なのだが、彼の書く脚本には明らかに「やばい感じ」が漂っている。
だから、ますもとたくやは、そのギャップにおいてこそ、村越繁に対し『逆に狂気を覚えた』のだ。
つまり、村越繁とは、中身と外見(行動)が極端に分裂しており、言うなれば『ジキル博士とハイド氏』のような、人格分裂的な矛盾を抱えた人なのである。
そして、そういう目で見ていくと、突然「過激な武装論」を語り始めたポン子よりもむしろ、一見したところ「真面目で健気」な主人公であるヤチヨの方が、こうした「分裂」を抱えているという事実が、見えてもくる。
というのも、ヤチヨは、日頃は「真面目で健気」なのだが、物事がうまくいかずジレンマに陥ったりすると、いきなり「壊れ」たり、「らしくない行動」を採ったりするのだ。
それが、場合によっては、客でも「殴る」という「暴力肯定」であったり、常識論から一転しての「神の杖」支持であったり、第8話で「ヤンキー化」して「暴走」してしまったりと、そういったことである。

『ヤチヨが宇宙を彷徨ってから20年、ようやく地球に帰還することに成功したものの、地上へと降下中にヤチヨの留守を守り支配人代理の代理の代理となっていたポン子がホテルに配備した迎撃ミサイルの誤射により、ボディーに甚大な損傷を受け、システムダウン状態になってしまう。それから50年、業務の傍らヤチヨを修理し続けていたポン子の前でヤチヨは再起動を果たす。しかし、ボディーはパーツ不足により両手はマジックハンド型、下半身は豆戦車のようなキャタピラー式になっていた。ヤチヨ不在の間に、露天風呂にヤチヨをモデルとした涅槃像を建造したり、シャンプーハットを廃止するなどのポン子流のホテル運営方針に違和感を覚え、さらには急ごしらえのボディーでは、人型の頃のような業務が実質不可能になってしまったことからヤチヨは激しく心神喪失状態となり、結果ホテリエとしての立場を放棄し、暴走族風に自らを改造し暴走や破壊行為に明け暮れてしまう。そんなやさぐれたヤチヨに、ポン子がパワードスーツで立ちはだかり戦闘となる。心身ともに本気でぶつかり合った激しい戦いの末、ヤチヨとポン子は強い絆を築き、改心したヤチヨは支配人代理の代理に復帰することとなった。』
(Wikipedia「アポカリプスホテル」・各話リスト第8話)

これはもうほとんど「ギャグ」に近いものなのだが、しかし、この種の「調子のはずれたギャグ」というのは、じつはもっと小さなかたちで何度も繰り返されてきたものであって、この「やさぐれ」エピソードだけではないのだ。
例えば、ヤチヨとポン子との感動的なやり取りの中で、ヤチヨが「私にも何か、熱いものが込み上げて来ました」と言って、本来感情が無いはずのロボットであるヤチヨが「涙を流す」のかと思わせておいて、いきなり口から大量のお湯を(ゲロのように)ダーっと流すという「ギャグ」などが、それである。

たしかにこの「ギャグ」は、単なるギャグと見られてもよいものであり、キャラクターデザインの原案者である竹本泉の作品には同種の描写があるから、それを踏まえたものだというのも間違いではなかろう。
美少女が主人公であることの多い、竹本泉のほんわかした漫画に、この種の「ちょっとグロい」描写があるのは、たぶん竹本泉が、同じく美少女が大好きなギャグ漫画家・吾妻ひでおの影響を強く受けた作家だからだろうし、そもそも、本作に登場する宇宙人のいささかグロテスクなデザインは、竹本泉を介して、吾妻ひでお直系のもので、その「狂気」をも引き継いだものだとも考え得るのである。
(※ ちなみに、美少女とグロテスクな生物というのは、男性作家的には意外に相性が良い)
ともあれ、そんなわけで、本作『アポカリプスホテル』は、一見したところ「いい話」っぽく作られているのだが、じつのところ、その本質には「狂気」を抱えており、たぶんその多くは「シリーズ構成の村越繁」に由来するものだと見て、まず間違いはないだろう。
私は、これまで村本が関わってきた作品をいずれも見ていないから、村本の作風といったことはよく知らないが、しかしながら『賭ケグルイ』(2017年)、『ゾンビランドサガ』(2018年)、『どろろ』(2019年)といった作品が含まれているのを見ると、やはり村越繁は「狂気」の入った世界を描くのが、好きなのだか、得意なのだろうなと、そう推察できたのである。
○ ○ ○
しかしながら、このように書いてきたからといって、私は「倫理的」あるいは「平和主義者」として、本作『アポカリプスホテル』を批判したいのではない。
私が、本作に不満を感じたのは、そうした「危険思想」が語られていたからではなく、それが「こそこそと語られていたから」なのである。
要は、みずからの思想を語るのに「不徹底であり、中途半端であり、覚悟が足りない」から、作品もそれ相応に「中途半端」なのだと、そう言いたいのだ。
私が「けつかく」氏へのレスに『全体としては、いささかまとまりに欠く感じ』とは、まさにそのことで、要は「建前としての、いい話」の陰で、本音としての「危険思想」を、「衣の下に鎧」のごとくチラチラと覗かせるというやり方は、単に「臆病者の強がり」でしかなく、本当の覚悟が無い、ということでしかないと、そう感じられたのだ。
私はそんな、強いものには弱い「ヤンキーのツッパリ」みたいなのが大嫌いだから、そこに「本音にも建前に徹しきれない、中途半端さ」を見て、おおいに不満を感じた。
覚悟を決めてどちらかに徹していたなら、『全体としては、いささかまとまりに欠く感じ』には、ならなかったはずなのである。
そして、なぜ本作がこのような「中途半端で不徹底な作品」になってしまったのかと言えば、それは結局のところ、その「思想が浅薄」だからなのだ。
どういうことかというと、『アポカリプスホテル』で暗に語られた思想とは、多くの(アニメ制作の)先輩たちが墨守してきた「平和主義という建前」の「重い意味」を、このスタッフが理解しておらず、平和ボケ的な呑気な反抗心において、「平和主義という偽善」に反発したものに過ぎないと、そういうことなのである(安彦良和が、若い世代のスタッフによるガンダムの続編シリーズ作品について、ときどき「今どきの戦争オタクどもは」と怒っていたようなことだ)。
言うまでもなく、平和主義を唱えていれば、平和が訪れるわけではない。
そう信じ込んでいる「頭の悪い人」も少なくないとは言え、多くの「平和主義者=反戦論者」というのは、平和主義を唱えているだけでは平和にならないことなど百も承知しているし、いざとなれば武器を取って戦わなければならないことも承知している。その覚悟が無ければ、そもそも「巨大ロボット」アニメなど、作れはしないのだ。
しかしながら、そこまでのリアルな危機が到来していない段階で、安易な「現実主義」において「戦争準備の必要性」などを語ることがいかに危険なことであるかを、平和主義者たちはよく知っているからこそ、あえて「反戦平和」を訴えてきたのだ。
一一つまり、そうした駆け引きが、本作スタッフには、まるでわかっていない。
いざとなれば、簡単に戦争になるし、戦争になってしまえば「お終い」だとわかっているから、あえて「平和主義」を強調して、安易な現実主義を牽制していたというのを、平和ボケした、自称「現実主義者(リアリスト)」たちは、まるで理解できない。
「自分たちは、現実が見えている利口者である(逆に平和論者とは、現実の見えていない、綺麗事を並べているだけの馬鹿者である)」などと思い上がっているからこそ、安易な「武装論」が語れるのだ。
そもそも、アニメの中に、こっそりとわかりにくく「危険思想」を盛り込んで自己満足しているような輩に、本気で戦争に「出る」覚悟など、あろうはずがない。
それほどの覚悟があるのなら、業界を干される覚悟を持って、もっと率直に、自分の思想を語った作品でも作っただろうし、その覚悟が無いのなら、こんな中途半端で言い訳がましい「アリバイ作りの自己主張」を、誤魔化しながら作品には込めたりはしなかったろう。
つまり、本作は自分の思想をこっそりと語りたいがためにこそ、その「煙幕」として「型通りの良い話・泣かせる話」をしっかりと描いた作品なのである。
「煙幕」としての「偽装」にすら、力を込めた作品だから、しっかり丁寧に作られているとも言えるのだ。
だが、私はそういう「ケチな偽装としての偽善」にこそ、嫌悪を覚える。
その不徹底、誤魔化こそが、気に入らない。
外敵に対する備えが必要だと考えるのなら、堂々とその必要を語るべきであって、「ポン子たちの失われた故郷」なんていう「泣き落とし」であったり、「オカルトの影響」などという、本音とは裏腹のあからさまな誤魔化しなど、鑑賞者を舐めたものであり、それでいて「逃げ腰の作品」だとしか評しようがないのである。
アニメファンなど「所詮は社会性の欠如した、幼稚なオタクばかり」だと、そういう「上から目線」で見下しているから、こんな「欺瞞的な作品」も作れたのだろう。
だが、世の中、そんな馬鹿ばかりではないのである。
高度な文明はいずれ不幸な自己破壊に至るのだから、その結末が見えている自分は、善意から、あらかじめその禍根となる文明を破壊してやろうという「ハルマゲの思い上がり」と同様の思い上がりを、本作『アポカリプスホテル』のスタッフは隠し持っていた。
だが、高度な文明による「過剰な快楽」追求の果てに滅ぶのもまた、その文明の選択であるのならば、他人が口出しできることではない。
そもそも、高度な文明による「過剰な快楽」追求の結果が、アニメを含む「金のかかる娯楽」なのだと気づいていたなら、本作のような「勘違いした(隠れ)本音主義」のような作品など、不誠実すぎて作れなかったはずなのだ。
アニメを享受するということは、地球温暖化に本気で抵抗する気などはなく、いずれ人類が滅亡することも、その欲望肯定のゆえに「受け入れている」という事実を示している。
ならば、いまさらアニメで、そんな「本音」を語るのは、自己満足の見栄でしかあり得ない。
そもそも、欲望の故に他人を犠牲にすることも受け入れている(辞さない)者が、いまさら何やら「闘う覚悟の必要」らしいものを、こっそりと語るのは、ケチな自己正当化の自己美化でしかない。
どうせ滅亡を受け入れているのであれば、それでもこの先、数十年、あるいは百数十年先の子供たちのために、可能なかぎり「綺麗事の建前」による抵抗に徹するべきであり、それこそが、せめてもの覚悟というものではないのかと、私はそのように考える。
カッコつけだけの「現実主義」など、どこかで自分だけは助かるつもりでいる、頭の悪いネトウヨ(ネット右翼)と、同レベルのものでしかないのだ。
私は、前述の『けものフレンズ』論の中で、その舞台となる「ジャパリパーク」が、じつは「経済原理=資本の論理」によって作られたものに他ならないと指摘したが、それは本作『アポカリプスホテル』の「銀座楼」とて、まったく同じことなのだ。
本作『アポカリプスホテル』のキャッチフレーズは、「銀座楼」もモットーと同じであり、作中でも繰り返して語られる、
『ハートフルな今日と、最高の笑顔を。』
というものなのだが、どんなに立派なモットーを並べようが、それは一面の真実ではあっても、同時のその反面を隠した「綺麗事の偽善」でしかない。
つまり、「銀座楼」もまた、間違いなく「営利企業」であって、ボランティアの奉仕施設などではないのだ。
ロボットであるヤチヨは、給料をもらうこともなく働いていたが、彼女が理想化していた人間の「支配人」は、間違いなく給料をもらっていただろう。
無給では、働きたくても働けなかったはずだし、それは、後事を託したヤチヨたちに、いくら「きっと帰ってくる」と約束しても、宇宙への避難に失敗すれば、帰ってきたくても帰ってこれないのと同様の、いかんともしがたい「現実」なのだ。

だが、その「現実」が本作では、「銀座楼のモットー」のような綺麗事の建前によって隠蔽され、ナイーブな若者たちを騙している。
それでいて、本作『アポカリプスホテル』が、そうした「綺麗事の建前」を「偽善」だと非難するが如き作品にもなってしまっているのは、本作のスタッフが、自らの偽善には甘い、タチの悪い甘ったれの偽善者だからに他ならないのだ。
ヤチヨの一貫性のない性格、あるいは「情緒不安定」は、そのまま、本作スタッフの不安定な内面性を反映したものと、そう見て良い。


そして、こういう人たちがいるかぎり、『けものフレンズ』第二期における、資本の論理による「たつき監督降板」劇のようなことは、おのずと繰り替えささらざるを得ない。
あっちにもこっちにも良い顔だけを見せて、適当に要領よく立ち回る人間が、資本主義リアリズムの世界であるアニメの世界においても、よろしくやるのである。

(2025年10月8日)
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