ロバート・ワイズ監督 『サウンド・オブ・ミュージック』 : 青空へと舞い上がる雲雀のように
映画評:ロバート・ワイズ監督『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年/アメリカ映画)
『ウエストサイド物語』(1961年)で知られる、ロバート・ワイズ監督のミュージカル映画。作品賞・監督賞ほか5部門でアカデミー賞を受賞した傑作である。

振付師として有名なジェローム・ロビンスとの共同監督作品だった『ウエストサイド物語』との大きな違いは、同じミュージカル作品ではあっても、本作『サウンド・オブ・ミュージック』は、あくまでも「歌唱」が中心であり、ダンスの見せ場らしい見せ場は存在しないという点だろう。
私の場合、ミュージカル映画については、歌唱よりもダンスの方に興味があるので、そうと知っておれば本作を見ることもなかったかも知れない。だが、結果としてはそれが功を奏することになった。
つまり、結果としては、ダンス中心であった『ウエストサイド物語』よりも、むしろ本作『サウンド・オブ・ミュージック』の方が、私としては楽しめたのである。
ダンスへの期待が大きかったからこそ、私は『ウエストサイド物語』のダンスには、物足りなさを感じさせられた。
「ダンスの神様」と呼ばれたフレッド・アステアやジーン・ケリーのファンとして、個人技の超絶技巧を期待していた私は、『ウエストサイド物語』の持ち味である群舞の面白さでは、いささか物足りなかったのである。
だから、そもそもダンスシーンらしいダンスシーンのない本作の場合は、その点に対する注文のつけようがなかったし、実際に歌えるジュリー・アンドリュースを主演に迎えたのが、本作を嘘のない歌唱映画にしていて、そこが良かったということなのかも知れない。
無論、私は、歌唱もダンスも素人だから、あくまでも「印象論」には過ぎないが、少なくとも「歌唱」という点においては、本作『サウンド・オブ・ミュージック』の方が、主演の二人の歌唱シーンに吹き替えを使った『ウエストサイド物語』よりも、その説得力において上だろうし、それが結果として本作の大ヒット(歴代興行収入世界記録の更新)にもつながったのではないかと思う。
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『1938年、オーストリア・ザルツブルグ。古風で厳格な教育方針のトラップ家に家庭教師としてやってきた修道女マリアは、子どもたちに音楽や歌うことの素晴らしさを伝えていこうとするが、子どもたちの父親であるトラップ大佐とは事あるごとに衝突してしまう。やがて、自分がトラップ大佐にひかれていることに気付いたマリアだったが、そんな折、トラップ大佐は再婚が決まってしまう。』
(映画.com『サウンド・オブ・ミュージック』より)
本作のヒロインで実在の人物マリア・フォン・トラップの書いた自叙伝『トラップファミリー合唱団物語』を元にして作られた舞台ミュージカルの、本作は映画化作品である。
ミュージカル映画は、舞台ミュージカルの映画化作品が多いのだが、本作の場合は、実話を元にした作品なので、言うなれば、二重に「脚色」がなされていて、内容的に実話からは隔たった部分が少なくない。
だが、舞台ミュージカルは、ドキュメンタリー劇ではなく、まず観客を歌とドラマで楽しませるのが目的の娯楽作品なのだから、そのための改変がなされるのは当たり前。
原作からドラマチックな「大枠設定」を借りてはいるが、細部はあくまでもフィクションなのである。
したがって、ミュージカル舞台化された段階で、相当の脚色がなされており、映画版はそれに、映像作品としての微調整を加えた、あくまでも、舞台ミュージカルの映画化作品なのだと考えるべきだろう。映画化の段階では、もはや原作の実話云々の作品ではなくなっていたということである。

実際、本作映画版『サウンド・オブ・ミュージック』を、そうした背景を知らずに見れば、これはどこからどう見ても、フィクション作品にしか思えない。
なぜなら、本作の筋立ては、歌を物語に盛り込むための骨格という性格が強く、そのせいで、登場人物の心理描写は、かなりご都合主義的なものに止まっているためだ。
仮に、本作がミュージカルでなかったら、つまり、歌をぜんぶ外して、普通の会話劇にしたとしたら、見るに堪えないご都合主義の物語にしかならない、ということである。
例えば、修道院でのマリアの描かれ方は、いかにも「自然児」を絵に描いたようなそれで、喩えて言えば、アルプスの山を下着一枚で笑いながら駆け回っていた物語冒頭での「アルプスの少女ハイジ」が、そのままハイティーンになったような感じで、ほとんどリアリティがない。
しかも、設定としてはハイティーンのマリアを演じたジュリー・アンドリュースはこの時29歳だったので、この誇張された子供っぽさにはかなり無理があって、ほとんどコメディすれすれなのだ。

また、そんな彼女を取り巻く修道院のシスターたちも、非現実的なまでにマリアに理解のある好人物ぞろい。
際立って理解のある院長以下の皆が、マリアについて「修道院の規則を守れないのは困ったものだ」と言いながら「でも」と付け加えて、マリアの人柄を褒め称えるのである。みんなマリアが大好きなのだ。
たしかに、自然児としてのマリアは魅力的な人物ではあるものの、そもそも修道院というところは、人間らしい「自然」な生活を捨てて、すべてを神に捧げるための場所なのだから、自然児を良しとするようなことは、まずあり得ない。
であるにもかかわらず、院長は、世俗的なまでに「人間らしさ」に肯定的な人物として描かれており、キリスト教カトリックの「教義」というものを知っている者からすれば、いかにも世俗的な「かくあって欲しい」という人物像そのままの「フィクション」でしかないのだ。

ちなみに、本作の中では、志願して修道女になり、その気を持ちながらも、修道院の規則に馴染めないマリアに対し、院長が「世の中のことを知ることも大切ですよ。神はいつでも貴女を見守っておられるのですから」と、トラップ家の家庭教師に送り出すということになっている。
これは、まだ自分のことがわかっていないマリアに、自分のことを見つめる機会を与えるというようなニュアンスのことなのだろうが、これも、あまり説得力のない展開なのだ。
だが、現実の方はというと、マリアが「自然児」だったからというわけではなく、単純に修道院の生活に馴染めなかったため、修道院を辞めて、家庭教師の仕事を世話してもらったということのようである。つまり、修道女の身分のまま、家庭教師の仕事に出たわけではなかったのだ。
こんな具合に、本作の物語と実話はかけ離れているので、本作を鑑賞するにあたっては、もはや実話は気にする必要はない、ということになろう。
本作はあくまでも、フィクションとして楽しむべき作品なのである。
(※ なお、本作と史実との違いについては、Wikipediaに詳しく紹介されているので、興味のある方は、そちらを参照願いたい)
ただ、フィクションとして見た場合でも、ドラマとしてのリアリティという面では、やはり無理があるというのは前述のとおりで、同様の弱さは、けっこう重要な点でもご都合主義的である。
例えば、当初、家庭教師を嫌ってマリアに悪戯を仕掛けていたトラップ家の子供たちが、あっという間にマリアに懐くという変心や、マリアが子供たちに教えた歌を聴いた途端に、妻を失って以来、かたくなに閉ざされていたトラップ大佐の心が開かれ、その軍人的な厳格さのゆえにマリアと対立していたはずの大佐が、わりとあっさりマリアが好きになるという展開も、あまりにも簡単すぎて、普通の意味でのドラマとしては描写不足の感は否めず、いかにも不自然だ。



しかしながら、以上のような、フィクションとしての数々の不自然さ、リアリティのなさも、本作が「ミュージカル映画」であるという一点において、案外、気にはならない。
要は、そんなこと細々と描写していたら、歌唱シーンを盛り込む余地がない、ということだし、突然、登場人物たちが歌い出すようなミュージカルの世界のリアリティとは、通常のドラマのリアリティとは、また違ったものだということなのであろう。
そんなわけで私は、本作において、ミュージカル映画特有の「感情描写の簡素化」ということを認識するにいたった。
ミュージカル映画というのは、歌唱やダンスを「楽しませる」ための作品であって、深く説得力のある「人間を描く」ためのものではない、ということだ。言ってしまえば、感情描写は紋切り型で良いのである。
この女性とこの男性は惹かれ合うことになるという設定であれば、ほんのちょっとしたことで、二人は予定どおりに惹かれ合うことになるし、ましてや悪役は悪役で単純にそれだけであり、それ以上の深さなど求められていないし、しばしばそうした深さや複雑さは不必要なものでさえあるのだ。
本作の魅力は、以上のような、いささか「大味な物語」という骨格の上に、滑らかに「楽しい歌唱シーン」が、名曲と共に盛り込まれている点にあると断じて良い。
後には日本の学校でも歌われることになる「ドレミの歌」「エーデルワイス」ほか数々の名曲が、本作から生まれているのである。
また、ミュージカル映画としての本作の魅力として挙げるしたら、それはやはり、子供たちの愛らしさであろう。
『ウエストサイド物語』が、カッコいい青年男女によるカッコいいダンスが売りものだったのに対し、本作『サウンド・オブ・ミュージック』は、そうした「カッコよさ」ではなく「可愛らしさ」が売りだったので、ダンスは特別に上手くなくても良かったのである。

そして、言い換えればこれは、本作が、高齢者から子供まで、全年齢層が楽しめる作品になっているということであり、その点では、「若者向け」かつ「恋愛悲劇」だった『ウエストサイド物語』よりも、興行的に有利だったとも言えるだろう。
また、「明るい楽しい」前半に対し、後半の「ナチスからの逃亡劇」というサスペンス性が加わったことで、物語が締まったのと同時に、スケール感までが与えられたのではないだろうか。
その意味で、史実に由来するものだとは言え、本作における前半と後半の転調は、物語の分裂とはならず、実にうまくバランスのとれたものとなっていたと、高く評価できるのである。
あと、決して忘れてはならない本作の魅力は、その「風景」の力である。
オーストラリアの古都ザルツブルクの歴史的な建造物とその町並みの風格。アルプスの山々を背景とした広々とした自然の風景は、ややもすると、都会やスタジオ撮影のせせこましさに閉じてしまいがちなミュージカル映画に、類例のない「開放感とスケール感」を与えているのだ。


こうした、素晴らしい「風景」と矛盾しない、修道院の室内セットなどの素晴らしさもさることながら、やはり本作の魅力は、このロケ撮影の成果であったことは、誰にも否定できないところなのである。
歌を聞かせるには、反響のある屋内の方が有利なのであろう。だが、映画なら、屋内であろうとなかろうと関係はない。
それにむしろ、歌を歌いたくなるのは、広々とした自然に囲まれた屋外なのではないだろうか?
少なくとも、そう感じさせてしまうような、類例のない開放感のある爽快さを、本作はもっている。
本作の歌唱シーンの力とは、上手い下手という以前に、青空へと駆け上っていくような「開放された歌声の力」だと、私にはそう感じられたのだ。

(2025年7月9日)
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