武本康弘監督 『小林さんちのメイドラゴン』 : いつかそんな日が来たとしても…。
テレビアニメ評:武本康弘監督『小林さんちのメイドラゴン』(2017年/全13話+未放送1話)
現在公開中の劇場版『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』(以下、適宜『さみしがりやの竜』と略記)で、同シリーズに初めて接し、今回は、その土台となるテレビシリーズにたち戻っての鑑賞である。
なお、私の見たDVDには「未放送1話」も含まれている。
本作の制作会社は、そのクオリティの高さで知られるとともに、あの放火事件で、世間的にも有名になってしまった、「京都アニメーション」。通称「京アニ」だ。
そして、本シリーズの監督であった武本康弘もまた、かの「京都アニメーション放火殺人事件」の、犠牲者の一人である。
享年47歳という働き盛りでの、あまりにも若く、あまりにも惜しまれる死であった。
原作マンガの紹介を中心にまとめられた「Wikipedia」によれば、武本は、『小林さんちのメイドラゴン』の初のテレビアニメシリーズである、本テレビ第一期(2017年)を完成させ、その4年後の2021年に放送されたシリーズ続編(第二期)『小林さんちのメイドラゴンS』を制作中の2019年7月に、件の放火事件で亡くなっている。
この『小林さんちのメイドラゴンS』(以下『S』)でも、当初「監督」であった武本は、第2話までの絵コンテを描いただけであり、事件はこの第二期制作の序盤でのことであった。
また当然のことながら、この事件により、京都アニメーションの作品制作は、一時休止状態になった。
だが、その後、京都アニメーションは、作品制作を再開し、『小林さんちのメイドラゴンS』についても、のちに劇場版『さみしがりやの竜』を担当することにもなる石原立也が、武本から「監督」を引き継いで、この第二期(全12話+未放送1話)を完成させ、2021年にテレビ放映がなされた。
こうして、亡き武本康弘の遺志を継いだ石原は、『S』でも『さみしがりやの竜』でも、武本の名を「シリーズ監督」としてテロップしている。
本シリーズは、そんな因縁のある、特別な作品なのである。
とは言え、私自身は、特段「京都アニメーション」のファンでもなければ、武本康弘のファンでもなかった。
事件以前にも、「京都アニメーション」が良質の作品を作っているという評判や、熱心な「京アニ」ファンがいるという程度のことは仄聞してはいたものの、すでに現役のアニメファンではなく、テレビシリーズものを見なくなっていた私としては、「京アニ」は、決して身近なものとは感じられていなかったのだ。
だが、かの放火事件には、私もそれなりにショックを受けた。
なぜなら、アニメーションというものと、放火殺人事件などという悲惨な現実とが、私のなかでどうしても結びつかないものだったからだ。
まったくの別世界、縁もゆかりもない別々の世界のように感じられていたものが、いきなり剥きつけに結びつけられてしまったことに、私はショックを受けた。
しかも、亡くなったスタッフが、皆、私より若いという事実が、そのやるせないとしか言いようのない感情を、否応なく掻き立てたのだ。
当時のテレビニュースでは、たしか同社制作の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』に言及していたものが多かったように記憶するのだが、今回確認してみると、それは劇場版作品『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形』の公開が、事件の翌々月から始まるというタイミングだったからなのであろう。
亡くなった京アニスタッフを悼む多くのファンが、追悼の意味も込めて映画館へと足を運んだのである。

しかし、当時の私は、こうした京アニ作品にからむニュースが、あまりピンと来なかった。
この『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』や、同社制作の人気シリーズ『響け!ユーフォニアム』などには興味がなかったからだ。
まったくの好みの問題でしかないのだが、なぜか私は、女性が主人公のシリアスものには、あまり惹かれない傾向があるようなのだ。
しかし、事件後しばらくして、この事件で亡くなった一人として、武本康弘の名が公になり、その経歴などがテレビニュースなどで紹介されて、私は初めて、武本の関わった作品に少なからず触れていたことを知った。
『らき☆すた』(2007年/5話以降の監督)、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2009年の第2期の監督)と劇場用長編『涼宮ハルヒの消失』(2010年/監督)、『日常』(2011年/演出)である。
テレビシリーズものについては、いずれも本放映で見たのではなく、その後に評判を聞いてから、DVDなどで鑑賞した。
たぶん、『らき☆すた』を見た頃には、私は「京都アニメーション」と聞いても、「そうか、京都にも本格的なアニメ制作会社ができたのか」くらいの感覚しかなかったはずだ。つまり、私が初めて「京アニ」を意識したのは、テレビ第一期(2006年)に第二期分のつけ加わった2009年の『涼宮ハルヒの憂鬱』と、その完結編たる同年の劇場版『涼宮ハルヒの消失』においてだと思う。
当時は『涼宮ハルヒの憂鬱』が大変なブームだったこと、そして同作の原作者で小説家の谷川流が、私がその初期から追っていた「新本格ミステリ」の熱心な読者であり、私とも縁の深い、竹本健治や笠井潔のファンであることを公言していたことなどから、私は『涼宮ハルヒの憂鬱』に始まるシリーズ小説全巻を読み、アニメ版も見ることにしたのだ。
ちなみにその頃には、笠井潔が「ゼロ年代のセカイ系作家」の作品として、『涼宮ハルヒの憂鬱』や、秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』、高橋しんの漫画『最終兵器彼女』、あるいは、新海誠の自主制作アニメ『ほしのこえ』などを挙げて、新時代の到来を告げる作品として熱心に論じていたことを思い出す。
つまり私の場合は、むしろそちらから『涼宮ハルヒ』シリーズに興味を持ち、アニメも見たという経緯なので、アニメシリーズの監督名までは、あまり意識しなかったのだ。
ちなみに、『涼宮ハルヒの憂鬱』の第一期の監督は石原立也であり、第二期からは、監督を武本康弘がひきついでおり、いみじくも『小林さんちのメイドラゴン』とは、逆のかたちのリレーとなっていた。
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さて、長々と、私と「メイドラゴン・武本康弘・京都アニメーション」との「薄い関わり」について書いてきたが、本稿の本来の目的は、今回鑑賞した『小林さんちのメイドラゴン』(テレビ第一期)の論評である。
本シリーズより先に見た、劇場版の『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』のレビューで書いたとおりで、本作の原作マンガは未完であり、そのため現時点では、物語総体としての論評は不可能だ。
そこで、現時点における、しかもアニメの「第一期」に話を限定すれば、本シリーズは基本的に「日常系ほのぼのギャグ」とでも呼べる作品だろう。
『さみしがりやの竜』では、いかにも劇場版らしく、比較的大きなドラマ展開があったが、テレビシリーズでは、そうした「大きなドラマ展開の可能性」を「背景」として持ちながらも、基本的には、人間である「小林さん」と、「剣と魔法とドラゴンの世界(異次元世界)」からやってきたドラゴンたちとの、ほのぼのとした日常生活が描かれる。
無論、ドラゴンたちは人間の姿に化けて、人間社会に同化しているのだ。
本作が、単なる「ほのぼの」ではなく、「ギャグもの」の要素を備えているのは、「剣と魔法とドラゴンの世界」(以下「ドラゴンの世界」)と、私たちの現実世界との間に、大きな文化的ギャップがあるためである。
つまり本作では、「異文化」間の齟齬や誤解の上に、相互理解の絆が結ばれていく様子が、ギャグを交えて楽しく描かれているのだ。
「ドラゴンの世界」というのは、要は、人間と魔法使いとエルフとドワーフとドラゴンなんかが登場し、剣と魔法とドラゴンの火炎放射なんかが交錯する、少々危険な「冒険物語」の世界だと思っていただければ、大筋で間違いはないだろう。
私自身は、こうした「ハイファンタジー」には興味がなく詳しくもないので、あまり正確な説明ではないかも知れないが、そのあたりはご海容いただきたい。
ともあれ、本作『小林さんちのメイドラゴン』に登場するドラゴンたちも、もとはそうした、かなり物騒な世界で、殺し合いなどもしながら生きてきた種族なのである。
一方、ドラゴンのトール(メイド服のハイティーン姿)とカンナ(小学生の少女姿)が同居することになる「小林さんち」の所在する、この「現実世界」の方は、「小林さん」が、26歳未婚の女性システムエンジニアで、趣味は「メイドとお酒」であり「社畜ぎみ」という設定からもわかるとおり、かなり「ありふれた日常」的な世界である。
「小林さん」は、ささやかな趣味こそ持ってはいるものの、基本「変化にとぼしい毎日」を送っていた平凡人だということだ。
「小林さん」という名前も、そうした「平凡性」を意識したものなのであろう。

だが、この小林さん、物語のなかで徐々に明らかにされていくように、じつはかなりの「人格者」である。
設定的には「平凡人」を強調しているけれども、実際には、ほとんど実在しないであろうほどの「よく出来た人」なのだ。
例えば、トールとカンナの二人と同居することになったために新しいマンションに引っ越したのだが、最初の日曜から「近隣騒音」に悩まされることになる。
両隣と上がそれぞれに騒音を立てるので、せっかくの休日なのに、おちおち寝てもいられないのだ。
そこで、おそらく普通の人ならば、「苦情」を言いに行くか、腹を立てながらもトラブルになるのを恐れて我慢するかの、二択ということになるだろう。
ところが、小林さんの場合は、「我慢する」方を選ぶにしても、その理由が、凡人とはちょっと違うのだ。
前述のとおり、近隣騒音に対して我慢する人というのは、それが我慢すべきことだから我慢するのではなく、「自分は被害者なのだから、本来なら我慢する必要はないのだけれども、苦情を伝えて、かえってこじれると余計に面倒だから」と、そう「消極的」に考えて、腹を立てながらも嫌々我慢するものである。
ところが小林さんの場合は、「生活騒音」というのは「お互い様」のことなのだし、また、後から入居しておきながらそのあたりの事情をよく確認してもいなかった自分が、いきなり先住者にたいして、それまでの生活を改めろと要求するのも、いささか手前勝手な話なのだから、日曜に限られたことなら、自分が我慢すべきだと、そう考えたのだ。
ところが、それを聞いたトールが、じゃあ私が話をつけてきましょうと申し出る。
トールは、内心では人間を下等生物だと見下しているドラゴンなのだが、その例外である大好きな小林さんと人間世界で生きるためには、人間世界に順応しなくてはならないということは、重々わかっていた。
そのため、美少女メイドの姿をしているトールは、そんな見かけだけではなく、その本心とは裏腹に、人当たりがとても良く、すぐにご近所の人気者にもなるくらいだったのだ。
そのため小林さんも「じゃあ頼もうかな。くれぐれもケンカはしないでね」とトールを送り出し、その結果、隣人たちに円満に要望を了解してもらえることになったのである。
ところが、小林さんちに関しては、それで一応の解決を見たものの、今度は、両隣と上の隣人どおしが、互いの騒音について揉め始めてしまい、これにはトールも困ってしまう。
ところが、ここで小林さんは、隣人たちに、こう提案するのだ。
「音を立てる必要のある作業については、お互いに時間を決めてやればいいじゃないでしょうか。その時間だけ、お互いに我慢すれば、イライラしなくても済む」
一一こんな現実的かつ冷静な提案など、なかなかできるものではないというのが、ご理解いただけると思う。
つまり、小林さんの「賢さ」というのは、普通の人が「感情的」になりがちな局面でも、冷静に理性を働かせて、最善とも言えよう「調停案」を提起できるという能力なのだ。
まず、その「現実的な立案能力」が並外れているのだが、しかしそれだけではなく、感情的になっているトラブル関係者に気押されることなく、「冷静」に必要な提案のできる「勇気」もまた、並外れたものなのである。
普通なら、いくら良いアイデアが浮かんでも、「関わるのは面倒だ」とか、単純に「こんなに感情的になっている人たちに提案しても、うまくいくわけがない」などと先回りに考えてしまい、結局は何も言えないものなのだが、小林さんの場合は、それを言わなければならないと判断すれば、決然とそれを口にする「勇気」かあり、それでトラブルを解決してしまう人なのである。
つまりトールやカンナが、人間である小林さんに、例外的に惚れ込んでしまうのも、それはそれ相応の理由があったからなのだ。
小林さんは、じつはこんなに「非凡な人」であり、ある意味では「無私の(思いやりの)人」だったからなのである。

実際、このテレビ第一期の最終第13話では、黙って人間世界に住み着いたトールを、ドラゴンの「混沌勢」の長である父親が迎えに来て、「帰れ」「帰らない」の言い争いとなり、結局最後はドラゴンらしく「力づくの決着」しかないとなった時にも、小林さんは、体を張ってトールの父親を説得し、無事トールが人間世界とどまることの出来るようにした。
また、劇場版『さみしがりやの竜』では、多少似たような展開として、やはり人間世界にカンナを迎えに来たカンナの父親に対し、ドラゴンには薄い「親子の情」としてのカンナの気持ち(寂しさ)を説いて、父親の妥協をひきだすことにより、問題を解決していた。
つまり、小林さんの「能力」、「異能」とさえ呼んで良いだろうその力とは、並外れた「調停能力」なのである。
戦って勝つことしか考えられなかったドラゴンたちに、人間の知恵としての「説得による調停」を働かせ、問題を解決する。
白か黒かだけではない現実に介入し、お互いに譲り合うことで、お互いのためのより良き選択肢を模索し提示して、また自らもそれを選ぶ能力が、小林さんにはあるのだ。
だからこそ小林さんは、異文化のなかで育ったドラゴンたちとも、仲良く暮らすことが出来たのである。
つまり、本作『小林さんちのメイドラゴン』が描いているのは、「異文化共生」の理想なのだ。
戦いに明け暮れる世界で当たり前に生きてきたドラゴンたちが、小林さんと出会うことで初めて知った、安らぎとその喜び。
それを描いているのが、本作だとも言えるのである。
一一しかしながら、本作に描かれる「人間の世界=日常世界」というのは、じつのところ「理想化されたファンタジー世界」だとも言えるだろう。
現に私たちの住むこの「現実世界」には、「ドラゴンの世界」に勝るとも劣らない、残酷な「殺し合い」が存在する。
だが、小林さんの体現する「日常世界」のフレームのなかには、決してそうした「現実」は入って来ない。そのように、設計されているのである。
その証拠に、本作に登場する人物は、全員、基本が「善人」なのである。
多少のクセはあっても、最終的には「話せばわかる」人たちばかりなのだ。だから、小林さんの「調停能力」も、必ず機能するのである(なお、第一期での例外は、小林さんの会社のパワハラ上司くらいであろう)。
しかし、基本的には「いい人ばかり」というのは、本作中の「現実世界=人間世界」ばかりではなく、じつは「ドラゴンの世界」だって、本質的には同じことなのである。
たしかに「ドラゴンの世界」においては、種族間での争いが繰り広げてはいるけれど、なぜそうなのかと言えば、あちらの世界には、小林さんのような「非凡な調停者」がいないからにすぎない。
だからこそ小林さんは、「ドラゴンの世界」へ行った際にも、やはりその能力を発揮して問題を解決するし、そんな小林さんに言わせれば、ドラゴンは人間よりも、むしろ「チョロい」のである。
つまり、本作に描かれる「ほのぼのとした日常」の舞台となる「人間の世界」とは、「ドラゴンの世界」にも増して、現実離れした「ファンタジーの世界」なのだ。
「話せばわかる」という、理想化された「ヒューマニズムの世界」なのである。
そして、さらに言えば、本作で描かれる「ドラゴンの世界」の方こそが、「現実の人間世界」の「戯画」であり、そんな世界から「理想世界」に逃避してきたのが、トールやカンナたちだったのだとも言えよう。
だからこそ彼女たちは、「小林さんの世界」に安らぎを見出したのであり、私たちはそんな「物語」を見て、ほのぼののさせられるのである。
したがって、本作『小林さんちのメイドラゴン』は、表面的には、「異世界から現実世界にやってきたドラゴンの物語」という形式になっているけれども、その本質は「現実に疲れた人間の象徴であるドラゴンが、理想の世界でおくる平和な日常」のお話なのである。
つまり、こんな「理想的な日常世界=人間世界」など、現実には存在しない。
本作に描かれた世界は、所詮、作り事のファンタジーに過ぎないのだけれど、一一しかし、それでも私たちには、本作から学ぶべきことが、たしかにあるはずなのだ。
例えば、小林さん的な「人間理性としての調停能力」である。
今の現実世界ほど、このような「人間的な叡智」が求められている時代もないというのは、世界のあちこちで勃発している、戦争や紛争といった現実に明らかだろう。
無論、小林さん的な理性や叡智が、つまり真っ当な「調停能力」が通用しない、過酷な現実など、いくらでも存在する。
だが、それでも大切なのは、あきらめずに勇気を出して、問題と向き合うことなのだと、本作は、そう語っているのではないだろうか。
この「第一期」で、特に私の印象に残ったのは、トールが迎えに来た父親の、

「おまえは、小林とやらと一緒にいたいと言う。だが、われわれドラゴンと人間とでは、寿命が違うのだ。いくら一緒にいたいと思っても、やがて小林とやらは、お前の目の前で年老いて死んでいくことになる。それでも良いのか? 結局、悲しむことになるのはお前なのだぞ」
という、「厳しい現実」を突きつける言葉に対する、トールの次のような返答だ。
「そんなことはわかってます。それでも私は、今この時、小林さんと一緒にいられるこの時間が大切だし、それを大切にしたいんです。将来、悲しい思いをすることになっても、それでも私は、小林さんと出会わなかった方が良かったなんて後悔することは、決してありません」
一一唐突なようだが、私はトールのこの言葉に、若くして亡くなった武本康弘のことを重ねて考えずにはいられなかった。
生きていれば、もっともっと良い仕事をしただろうことは無論、普通に長生きできていたら、ご遺族をはじめとした多くの人を、悲しませることにもならなかっただろう。
だが、武本康弘の47年の生涯が、だからそのせいで「不完全」なものになったとか、60年、100年と生きた人生よりも、価値の少ないものになったとは、私は思わないし、思いたくもない。
多くの人に惜しまれたその47年の人生の価値は、決して、その長さで計れるようなものではないのだと、トールの言葉から、私はそう感じさせられたのである。
「私はそれでも、悲しい別れが待っていたとしても、それでも彼の作品に触れ得た幸福な時間の方を選びたいし、その幸運に感謝したい」
そう言わせるような作品を作った武本康弘なら、ただただ犯人の処罰だけを望むようなことは、しなかっただろうとも思う。
無論、遺族感情にはいろいろあって当然だが、本作を見れば、感情的に「死刑にしてしまえ」などという言葉は、とうてい口にはできない。
「もっと考えよう。そして、より良い道がないかを探り、その道をお互いのために選ぼう」
と、彼ならば、小林さんのように考えたのではないだろうか。
彼ならば、自分の作った作品を「単なる綺麗事」には、したくはなかったのではないだろうか。
仮に一時は、やむを得ず感情的になったとしても、それでも「和解」の可能性はありえると、そう信じる人だったのではなかったろうか。
(2025年8月28日)
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