石原立也監督 『小林さんちのメイドラゴンS』 : 大人にだって「大切なもの」
テレビアニメ評:石原立也監督『小林さんちのメイドラゴンS』(2021年/全12話+未放送1話)
「クール教信者」(ペンネーム)による漫画『小林さんちのメイドラゴン』のテレビアニメ2ndシーズン。

1stシーズンと、この2ndシーズン後のエピソードで、カンナを中心にすえた劇場用長編『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』については、すでにレビューを書いている。
なお私は、この劇場版から本シリーズに入って、1stシーズンに遡り、今回はこの2ndシーズンを見るという、いささか変則的なかたちで鑑賞した。
さて、当然のことながら、1stシーズンでは作中世界の基本設定が紹介され、メインキャラクターもほぼ出揃って、主人公の「小林さん」とドラゴンの「トール」を中心に、人間の世界を舞台にした、人間とドラゴンたちの「ほのぼのした日常」という、本作の基本形が描かれる。
しかし、この2ndシーズンでは、1stシーズンではまだ登場しなかったメインキャラの一人で、トールとカンナに続く「小林さんちの3匹目の住人」となると、ドラゴンの「イルル」が登場する。
イルルは、人間の世界への初登場時、トールに対して敵愾心を燃やす、武闘派の危険なドラゴンとして描かれるのだが、折に触れてその過去が、フラッシュバック方式で断片的に紹介され、トールとの闘いに敗れたあと、この過去の意味が語られることになる。

フラッシュバックで示されるイルルの「過去(思い出)」とは、その魔術の未熟さゆえに、尻尾と両腕だけはドラゴンのままという不完全な人間形態をとっている幼いイルルが、人間の子供たちと無邪気に遊んでいる様子と、その人間の女の子から、イルルを模したぬいぐるみ人形をもらってイルルが満面の笑みを浮かべる様子、そしてその人形を失って泣く様子である。

これが何を意味するのかというと、ドラゴンたちの住む世界で、人間とドラゴンがまだ決定的に敵対的ではなかった頃、幼いイルルは人間形態を採って、人間の子供たちとも普通に仲良く遊んでいたということであり、その時に、人間の女の子から人形をプレゼントされたりもしていた、ということ。
ところが、ドラゴンと人間との関係が悪化し、ドラゴンの中でも武闘派路線を選んだ「混沌勢」に属していたイルルは、人間とのつきあいを禁じられ、それに従わなければ生きていけなかったために、やむを得ず人間との関係を断ち、人間の友達からもらった人形も泣く泣く捨てたという、つらい過去を抱えていたのだ。
彼女の好戦性というのは、ひとつにはそうした過去の反動形成だったのである。

で、そんなイルルは、トールが人間界に行ったまま、人間と仲良く暮らしているというのを知って、「許せない」と思い、トールを殺しに人間界にやってきた、というわけなのだ。
実力的にはトールの方が格段に上なのだが、しかし、人間界で街を破壊し、人を傷つけることに何の躊躇もないイルルと戦うのは、トールにとっては大きなハンデであり、イルルに危ういところまで追い詰められる。
だが、その時、小林さんが、すでに人間界に馴染んでいたエルマを使ってトールに加勢させ、イルルを撃退する。

エルマは本来、秩序を重んじ、人間に対して融和的な立場をとる「調和勢」に属するドラゴンなので、トールとイルルのどちらに加勢する気もなく傍観を決め込んでいたのだが、小林さんはエルマの弱点であるスイーツで釣り、エルマも「トールに加勢するのではなく、あくまでも人間界に害を及ぼさないため」にバリアを張るだけ、ということで妥協したのだった。

このようにしてトールに敗れたイルルだったが、しかしこの経験から、ドラゴンであるトールに愛され、エルマをも使役した小林さんという人間に興味を持ち、小林さんの観察を始める。

そんな折、人間界に干渉するドラゴンを排除する役目を担った別のドラゴンがやってきて、イルルに元の世界に帰るように命じる。だが、小林さんに興味を持ったイルルがこれを拒絶すると、このドラゴンはイルルを抹殺しようとする。
そこへ通りがかった小林さんが、人間では太刀打ちできない相手に対し、イルルを庇って抵抗し、あわやというところでトールが登場して、このドラゴンを排撃する。
一一こうして、イルルは小林さんちへ転がり込むことになったのである。
ちなみに、イルルはトールと同い年で、人間形態でもそれは同じなのだが、ただイルルは元から背丈が低く童顔なので、実年齢よりはだいぶ幼く見えるし、性格的にも幼さが残っている。
ドラゴン特有の「巨乳」を別にすれば、一見したところ、トールとカンナと間くらいの年齢の「女の子」に見えるし、行動も子供っぽければ、子供好きでもある。
小林さんちで、居候としてぶらぶらしていたイルルは、トールから「あなたも働いて、食費くらい入れなさい」と言われて、見つけてきたのは、駄菓子屋の店番というアルバイトだった。理由は、子供たちが来るからである。

このように、イルルというキャラクターは、子供の頃に、人間の子供との関係を断たなければならなかったこと、そのために大切なぬいぐるみ人形を捨てなければならなかったというつらい過去のせいで、心に傷を抱えている。
本当なら、人間の子供たちと遊んでいたかったのに、生きんがために、そんな「幸福な子供時代」を捨てなければならなかったという過去のせいで、かえって子供と子供時代に対する執着を抱えていた。
トールへの当初の敵愾心も、それに発した妬みだったのである。
そんなイルルが、過去のトラウマを乗り越えるエピソードが、この2ndシーズン第8話で描かれる。
イルルがアルバイトをしている駄菓子屋に、客の子供のものと思われる人形が残されていたのをイルルが見つけ、当初は忘れ物だと思い、取りに来るのを待っていたのだが、いっこうに持ち主は現れない。
そこでイルルは、この人形が故意に置き去りにされたのだと気づいて、持ち主を探し歩き、ついに持ち主に人形を返すというエピソードである。
無論、イルルがこのような行動に出たのは、自身のつらい過去があったからだ。
イルルは、愛着のあった人形を泣く泣く手放さなければならなかったのだが、今でもそれが悔やまれてならない。
だから、この人形の持ち主も、きっとそうなのだと思い、持ち主に返してあげたいと考えたのだ。自分の場合とは違い、今なら取り返しがつくはずだと。


実際、その人形の持ち主は、親から「いい歳をして、いつまでも人形になど執着するな」と言われて、泣く泣く人形を捨てようとして捨てきれず、誰かがもらってくれるのを期待して、駄菓子屋に置き去りにしたという事情だったのだ。
だから、思いもかけず帰ってきた人形を見て、その高校生くらいの少女は、自分が間違っていたことを、泣いて人形に詫びたのである。
さて、私が思うに、このエピソードで語られているのは、「大人になるのに、童心を捨てる必要はない」ということなのではないかだろうか。
人は「童心を持ったまま、大人になることができる」のだということ。また、それは必要なことなのだ、ということだ。
しかしながら、これは簡単なようで、案外むずかしいことなのかもしれない。
イルルのように、それが許されない場合もあるし、また「童心と大人になることは、相反するものだ」という思い込みが、人間社会の中には根強くあって、多くの人は、大人になるために童心を意識して捨てることも、決して珍しくはない。
「大人になれ」という言葉は、しばしば童心や、それに基づく「素直な心」を捨てろということを、意味してはいないだろうか。
だが、私個人の正直な感覚として、童心を持ち続けるのは、十分に可能なことだと思える。
じじつ私は、還暦を過ぎた今でもアニメが好きだと公言して憚らないし、哲学だの文学だのフェミニズムだのといったことを論じた文章の中にも、平気で、昔見たアニメのセリフを滑り込ませたりする。
最近ではアニメ『エースをねらえ!』の竜崎麗華のセリフ「手加減はしなくってよ、ひろみ」とか、アニメ『タイガーマスク』のオープニングナレーション『虎だ、虎だ!お前は虎になるのだ!』なんてのを、文脈に合わせて滑り込ませ、独りで楽しんでいる。
もちろん、これは「必要不可欠」なものではなく、あくまでも「お遊び」にすぎないのだが、自分の好きだったものを、いま現在、興味を持っている物事の中に持ち込むというのは、とても楽しいことだ。
読んだ人に、その言葉なりセリフなりの出典がわからなくても意味は通るし、なによりそれをした私自身が楽しい。そう、昔の友達と、今でも遊んでいるかのようにだ。
そもそも、なぜアニメはアニメ、哲学は哲学、文学は文学、フェミニズムはフェミニズムでなければならないのだろう。
文脈的に間違っていなければ、何を比喩に使おうと、内容的には何の問題もないはずだ。
ところが、現実世界では「アニメは遊びで、哲学や文学やフェミニズムは学問・芸術・思想」だなどといった偏頗で権威主義的な「差別」がまかり通っており、だから多くの人は、それを区別するのが当たり前だと思い込んでいる。
例えば、世の大人は、まともな家の子供ならば、手の指が3本ずつしかないような怪しい子供と「遊んじゃダメ、つきあっちゃダメ」だと言ったりする(アニメ『妖怪人間ベム』のエンディングの歌詞)のだが、指の本数が、いったい何だというのだろうか?
ベロは友だち(作詞:第一動画文芸部)
ぼくたちは(ベロベロ)
友だちさ (ベロベロ)
仲良くいっしょに 遊ぼうよ
ぼくらはゆかいな 仲間だよ
だけど大人は あんな子どもと
遊んじゃだめ つき合っちゃだめって
なんでもかんでも おこるんだ
そんなこと あるもんかい
顔はこわいが いいやつだい
子どもは子どもどうし(ソウダソウダ)
子どもは子どもどうし(ソウダソウダ)
大人なんか わかっちゃない
私のような無名人が、そんな「遊び」をしていると、「素人くさい、つまらないことをしている」と馬鹿にする人も、しかしそれをするのが著名人だと、途端に態度を変えたりもする。
先日読んだ、哲学者スラヴォイ・ジジェクの著書では、映画好きのジジェクが、社会問題を扱ったその著書の中で、映画に関わる「比喩」を出してくるのだが、ジジェクくらい有名になると、そうしたことも「非学問的」だと謗られることはなく、かえってその「自由さ」が好意的に評価されたりもするのだ。
だが、ジジェクのやってることと私のやってることには、何の違いもないし、そうした「遊び心」とは、間違いなく「童心」に由来するものであろう。
要は「好きなものを、そばに置いておきたい」という、そんな感情であり、好きな人形を友達のように扱う気持ちとも、同じものなのだ。
だから、そんなふうに考える私からすれば、好きなものを、無理に手放さなければならない理由はない。
やむを得ずそうせざるを得ない事実が発生することはあるとしても、「必ずそうしなければならない」とか「そう決まっている」もいうようなことではないはずだ。
それこそ、人様に迷惑さえかけないのなら、「好きなものが好きで、何が悪い」と、私はそう思っている。
閑話休題。話を『小林さんちのメイドラゴン』に戻すそう。
イルルと人形のエピソードは、わかりやすく「童心」の大切さを語ったものであるし、よく考えてみれば、そもそも『小林さんちのメイドラゴン』という作品自体、「童心」への愛着を描いた作品なのではないだろうか。
単純に言って、幼いカンナは「子供らしい子供」だから可愛い。
真ヶ土 翔太(まがつちしょうた)少年とドラゴンのルコアの関係も、翔太が「早く一人前の魔術師」になりたいと「背伸びする姿」が、大人のルコアからすれば、子供らしくて、可愛くて仕方がない、ということなのである。

また、トールたちがドラゴンの本分を踏み外していると辛辣に評価する「大人」のファフニールは、しかしもともとは「金銀財宝を守るために、洞窟に引きこもっていた偏屈なドラゴン」で、この「守銭奴」的な態度というのは、まさに悪い意味での「大人」のそれだったのではないだろうか。
だが、そんな彼も、人間界に来て、仕事と趣味を両立させている青年・滝谷真(たきやまこと)と同居するようになってからは、生きることを「楽しむ」ということを学び初めている。


また、ドラゴンの世界でも、混沌勢と調和勢ということで、仲が悪いのか良いのかよくわからないなりに、しばしばつるんでいたトールとエルマの関係も、人間界に来てからは、ハッキリと、「喧嘩するほど仲が良い」という、その本質を明らかにし始めた。
今でも、顔を合わせればいがみ合う二人だが、それでも、それぞれに好きなものを素直に愛する生活をすることで、昔のように、それぞれの「立場」に義理立てするようなこだわりから解放されたようで、楽しそうだ。

カンナと、カンナ大好きの才川リコの関係は、まさに子供どおしらしく、損得も理屈もなく、ただ「好き」という感情だけで結ばれた、純粋なものであろう。
また、カンナの「才川、変。でも、才川、スキ」という言葉が、それを如実に表している。
「変」だからといって、嫌わなければならない理由など、どこにもないのである。



そんなわけで、シリーズの2ndシーズンである『小林さんちのメイドラゴンS』を見て感じたのは、「好き」なら一緒にいたいし、一緒にいればいいし、それが当たり前だという「童心(幼心)」の重要性ということだ。この作品の芯にあるのは、そうした感情なのではないだろうか。
一般に「大人になる」と、「好き」だけではなく、そこに「価値」や「意味」を見出そうとしがちだし、その結果として、「価値」や「意味」の見出せないものは、それこそ「無価値」であり「無意味」なものとされ、「好き」という感情までもが廃棄されてしまう。
だから、そのせいでもあろう、子供の頃と同じように「アニメが好き」だと言っても、多くの「大きなお友達」としての大人のオタクたちは、しばしば「こんなに見ているぞ」「こんなに知っているぞ」「こんなに理解しているぞ」といったことを、殊更に誇示したがるようになるのだが、そのとき彼(女)らは、最も大切な「好き」という感情をどこかに置き忘れて、功利的な「大人」となり、「童心」を失ってしまっているのではないだろうか。
才川との下校の道すがら、道路に引かれた「路側帯の白線」の上を、綱渡りするかのように歩きながら、カンナは言う「落ちたら死ぬ」。
一一それがこの遊びのルールだということなのだが、もちろんこの「ごっこ遊び」に、さしたる「価値」や「意味」は無い。
けれども、道路に引かれた一本の白線が「命懸けの冒険物語」の道具になるのだとしたら、これはとんでもなく素晴らしいことなのではないだろうか。
そして、「童心」を失わないとは、そんな素晴らしい世界の存在を見失わない、ということなのではないか。

メイド服に憧れながら、自分にはカワイイ服が似合わないと知って、地味な服ばかりを着て、仕事に追われるだけの生活を送っていた小林さんが、トールたちドラゴンと出会い、生活を共にする中で取り戻したのは、似合う似合わないという「他人の目(評価)」を意識した(内面化した)「大人の価値観」だけに縛られるのではなく、そうなりたいと願えば、そうなり切れてしまう、「童心」の力だったのではないだろうか。
(2025年9月19日)
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