石原立也監督 『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』 : 人間は、優しい?
映画評:石原立也監督『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』(2025年)
前からこの作品に登場するドラゴンの少女(の人間化身バージョン)が「可愛いな」と思ってはいたのだが、TVシリーズを見ようとまでは思わなかった。だが、劇場版をやっていると知って、すこし気になった。
だがまた、TVシリーズを見ていないし、「まあいいか」と、最初はスルーするつもりでいた。
ところが先日、「京都アニメーション」のファンである京都在住の友人に、LINEでその話をしたところ、彼もこの『小林さんちのメイドラゴン』が好きで、TVシリーズを2シーズンとも見ており、今回の映画版も近々見にいく予定だと言う。
それで私が、何となくの印象で「映画版も、今回が初めてじゃないんでしょう?」と尋ねたところ、初めてだというので、それならこの映画版から入って、面白ければTVシリーズに遡ってもいいかなと、そう考え始めた。
映画版というのはたいがい、初めての人にでもわかるように、自己完結的に作られているものだからだ。ましてその第1作目なら。
既刊が17巻にもなる原作マンガまで読む気はなかったが、映画を見る前に基本的な予備知識くらいはつけとおこうと、「Wikipedia」で、その世界設定やキャラクター紹介などを読み、その上で今回の映画版『小林さんちのメイドラゴン さみしがりやの竜』を観に行ったのである。

本作は、人間の住んでいるこの世界とは別に、ドラゴンやエルフや人間の住んでいる、別次元の世界があって、そのドラゴンの世界から、この人間世界に迷い込んできたドラゴンが、小林さん(26歳独身女性。メイドマニアで社蓄気味)に助けられて同居するようになる、というところから始まるシリーズである。
ちなみに、ドラゴンには変身能力があって、人間世界にいるときは、人間に化けている。ある種の魔法が使えるのだ。

その後、最初のドラゴンに続いて、何匹(何人)かのドラゴンが人間世界にやってきて、それぞれに人間と共生し、人間世界に居つくことになる。
なんで、人間世界にやってくるのかというと、ドラゴンの世界は、武闘派と平和派と傍観派に分かれていて、いろいろ揉め事があったためだ。
で、こうした、人間とドラゴンとの「異文化共生」による日常でのドタバタと、ドラゴン世界との交通によって生じるトラブルなどを描いたのが、原作マンガだということになるようだが、今回は劇場版ということで、主として「ドラゴン世界との交通によって生じたトラブル」の方が描かれている。
ちなみに、小林さんの家に居候しているドラゴンは、最初に小林さんに助けられて以来、小林さんにベタ惚れの雌ドラゴン「トール」と、後から来た、まだ幼い雌ドラゴン「カンナカムイ」の2匹だ。
トールは小林さんに喜ばれようと、いつもメイドコスプレ姿をしており、昼間はメイド喫茶でアルバイトをして、生活費も入れている。
一方、カンナは精神年齢も幼いので、小学生の姿で小学校に通っており、普通に人間の子供たちと友達になっている。

まあ、このあたりの、詳しい「世界設定」や「登場キャラクター」などが気になる方は、「Wikipedia」に詳しいので、そちらをご確認いただきたい。
ものすごく詳しく紹介されており、きっと熱心なファンが多いということなのであろう。
ちなみに「映画.com」での「あらすじ」紹介では、次のような感じだ。
『メイドと酒が生きがいの会社員・小林さんと、彼女にひかれて集まってきたドラゴンたち。その中のひとりである幼いドラゴンのカンナのもとに、ドラゴンの軍勢を束ねる長にしてカンナの本当の父親であるキムンカムイが訪ねてくる。突然迎えにきた父親に対し、複雑な思いを抱くカンナだったが……。』

つまり、これが今回の物語の発端であり、今回主に描かれるのは、「父娘関係」ということになる。
要は、父にかまって欲しかった娘とその気持ちがわからない父親との、うまくいっていない関係が、どうなるのかというお話だ。
さて、ここで問題となってくるのが「異文化問題」。
カンナは幼くして人間世界にやっていたので、親子関係的な感情も、人間的なものになっている。つまり、「親は子を慈しみ、子は親に甘える」というのが当たり前の感覚になっているのだ。
たが、本来のドラゴンには、そうした親子の情愛みたいな感情が無いに等しく、生まれてきた子供は「部族の小さな仲間(部族の一人)」という感覚なのである。
だから、カンナが人間世界にやってきたのも、じつはカンナが、武闘派の部族にとってとても大切な、「力を封じ込めた珠」を壊してしまったからで、部族の長である父は、そのことでカンナを、みずから追放したのである。
そして、そこには親子ゆえの特別な感情などは無く、単に、ルールを破った仲間に対する処罰だったのだ。
ところが、その「珠」に込められたパワーが、それを破壊したカンナに宿っており、カンナになら「珠」の再生が可能だとわかった。そこで、他の部族との戦いが迫っているとされる事態になったため、父親がカンナを迎えに来た、というわけなのだ。
つまり、可愛い娘を迎えにきたのではなく、あくまでも戦闘に備えるために、呼び戻しに来ただけなのである。
しかし、そんな父親であっても、カンナには愛して欲しいという感情がある。またその一方で、すでに人間世界に馴染んでおり、友達もたくさん出来たので、人間世界への愛着も捨てきれないというところで、カンナは葛藤するのだ。

つまり、ドラゴン世界の、陰謀が絡んだ一触即発の事態を背景に「カンナ父娘関係の行方やいかに」というのが、本作なのである。
一一で、隠すまでもなく、ラストは当然のハッピーエンドである。
それまで、娘への愛情など知らなかった父ドラゴンは、二人の関係に介入しできた小林さんに感化され、娘への愛おしさの感情がすこし生まれたようだ、というところで物語は終わるのだ。
だから、いわゆる劇場版らしく、陰謀や派手なアクションシーンなどもあるのだが、基本は「感動・癒されストーリー」なのである。

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で、私の感想はというと、やっぱりとにかく、カンナが可愛かった。
特に日常生活部分での、「普通の子供」としての描写が素晴らしい。
例えば、学校の友達がみんな持ってる携帯電話を自分も欲しいと、親代わりの小林さんに訴える。だが、小林さんは、小学生に携帯電話は早いのではと渋ると、ちょっと膨れて見せる様子などが、とても可愛い。
あと、私が特に気に入ったのは、「宇宙人の声が聞こえる電話ボックス」のくだり。
カンナが携帯電話を欲しがったのは、小学校の友達(男女4人くらい)と一緒に、この電話ボックスに行って、「宇宙人の声」を録音したかったからなのだ。

しかしながら、その「宇宙人の声が聞こえる電話ボックス」の正体とは、一一ただの電話ボックスである。
今は珍しい、硬貨とテレフォンカードで使える黄緑色の電話機が設置された、公衆電話ボックスだ。
この公衆電話機に、コインを入れて、あるボタンを3回プッシュすると、「宇宙人の声」が聞こえてくる、というのである。
一一当然これは、単なる「天気予報」(か何か)なのだが、公衆電話など使ったこともなければ、こうした電話案内のことも知らなかった子供たちの間で、電話案内が「プチ都市伝説」と化していたのである。
だから、これが「いかにもありそうな子供エピソード」として可愛いし、その5人が「宇宙人の声」を聞こうと、電話ボックス内に押し合いへし合いで入り、リーダー格の男の子が、
「いいか、これからコインを入れてボタンを押すからな。しっかり聞くんだぞ」
と、そう言って背伸びをし、受話器を取る。そして、おもむろに硬貨を投入し、プッシュすると、他のメンバーはみんな、ただでさえ狭い電話ボックスの中で、「宇宙人の声」を聞こうと必死に電話機の方に詰め寄ろうとするし、カンナは、小林さんに与えられたボイスレコーダーを、必死に背伸びして電話機の方へ差し伸べるのだが、その様子が、また、またらなく子供らしくて可愛かったのだ。
で、本作を「感動作として、完成度の高い良作」だと評価はしても、それだけなら、個人的には、別にどうってこともなかったのだが、とにかくカンナが可愛かったので、それで私は、十分に満足した。
そしてその結果、TV第一シリーズのDVDも入手したのである。
これが面白ければ、第二シリーズを見ることにもなるだろう。
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ただ、これで終わってしまうと、お爺さんの「孫娘についてのお惚気ばなし」みたいになってしまうので、最後にひとつだけ、批評的なことを書いておこう。
本作は、「父娘」問題に「異文化問題」を絡めて、ひと捻りを加えた作品だと、一応はそう言えよう。
けれども、その本質はやはり、普通に「人間」の問題であり、特に「異文化問題」というほどのものではないと、私は考える。
というのも、「子供」を子供だとは思わず「小さな大人」だと見た、というのは、昔は当たり前にあったこと(フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生 アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』)だし、今の私たちが考える「親子の情愛」というのも、決して当たり前だとばかりは言えないものだった。
無論「動物的本能」に由来する部分も確実にあるのだが、しかし「情愛関係」というのは「文化」に規定されて「作られ(構築され)、学習されて継承されるもの」でもあった、ということだ。
一般に私たちは「親は子を無条件に愛し、子は親を無条件に欲するものだ」と思い込みがちだが、言うまでもなくこれは、一定の条件が揃ってこそ、そうなるのであり、絶対確実にそうなるというものではない。だからこそ、例外など、いくらでもある。
したがって、カンナ父娘の問題というのも、「異文化の問題」と考えるだけでは不十分なのだと、私は思う。
また、これは単に「父娘関係」だけではなく、すべての「他者」に対する問題に敷衍できるし、すべきなのではないだろうか。

例えば、ドラゴンなら、同じ部族内でも姿形はいろいろであり、そのことで差別することはない。
きわめて実際的に、強いか弱いか、仲間か敵か、といった実利的な区別があるだけだ。
しかし、人間は、肌の色や人種でなど、細かな違いで人を区別しては、平気で差別をする。
現に、先日の参院選では「日本人ファースト」を掲げた参政党が、大きく躍進したけれども、こうした「観念的な差別」というのは、ドラゴンにとっては、奇異なものなのではないだろうか。
つまり、単純に「人間は愛情に細やかで、ドラゴンは情愛に薄い」だなどと、手前味噌に決めつけることはできないと思うのだ。
他人を、個々に見て評価するのではなく、人種や国籍といった「観念的な属性」に還元して、それらをひとまとめに「他者」である決めつけ排除しようとするというのは、誤った「経済効率主義」だと気づいている人が、一体どれだけいるだろう。
人間とドラゴンの両方に愛情を持つカンナたちの存在は、そうした「人間的な、ケチな差別感情」を告発していると、そうも言えるのではないだろうか?
(2025年7月27日)
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