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上村裕香 『救われてんじゃねえよ』 : 別の意味で「過酷」な物語じゃねえかよ

書評:上村裕香救われてんじゃねえよ』(新潮社)

「女による女のためのR-18文学賞」受賞作(2022年度)の表題短編に、主人公の「その後」を描いた短編2本を加えて単行本化した「連作長編」と読んで良いだろう作品で、著者の第一著作である。

ただでさえ「文学賞」というものに批判的な私が、「女の時代」を意識して「新市場」の開拓を意図したかのような、「女による女のためのR-18文学賞」という、いかにもなタイトルの賞に興味を持ったことはなかったし、受賞作を読んだこともなかった。

だが、書店で本書を見かけて、その帯に『警報級大型新人到来!』とあったのが、まず目を惹いた。

この時の私は、「女による女のためのR-18文学賞」の意味をとり違えていて、てっきり「18歳未満の」女性の書き手(応募資格者)のための賞だと、誤って思い込んでいた(実際には年齢制限はなく、「R-18」というのは「大人の(読者のための)」という意味であった)。
つまり「今どきの若い女の子が書いた作品」であり、それでいて「警報級大型新人」とは、どの程度の才能の持ち主なのだろう、何を書いているのかと、そう興味を持ったのだ。

で、本書を手に取ってみると、帯の背面には、3人の女性選考委員のコメントが引用されており、それは次のようなものだった。

窪美澄『(※ 応募作の中で)最も殺傷力の高い文章』
東村アキコ『読んだ後、すごくショックを受けた作品』
柚木麻子『我々の想像力の限界をメッタ刺しにするような切迫感』

無論、選考委員の「仲人口」など信用しない私なのだが、これらの言葉には、単なる「仲人口」以上のものがあると、私には感じられた。

また、上の「選考委員の言葉」の下には、

『満身創痍のデビュー作』

とあって、著者自身の、なにやら壮絶な体験を書いた小説だというのが窺えた。

また、「選考委員の言葉」の左横には、次のような、内容紹介文があった。

『主人公の沙智は、難病の母を介護しながら高校に通うl7歳。
「わたしは不幸自慢スカウターで言えば結構戦闘力高めなんだと思う」
そんな彼女に舞い降りたのは、くだらない奇跡だった。』

つまり、著者の体験したのは、たぶん「親の介護」だったのであろう。しかも、高校生の頃だから、いわゆる「ヤングケアラー」である。

で、私はそうしたことに興味を持ったこともあるので、本書を読んでみることにした。
実質的に短編3本分の薄い本なので、結果として期待はずれでも、さほどの時間ロスにはならないと考えたのである。

 ○ ○ ○

結果から言えば、選考委員の言葉は、嘘ではなかった
本書収録の連作3本のうちの最初の一本である受賞表題作には、読んでいて辛くなるようなシーンが多々あって、私自身、何度も胸苦しいやるせなさのようなものを覚えさせられた。

主人公の沙智は、難病に罹った母の介護をしている。父は勤めに出ているから、実質的に母の介護だけではなく、家事全般まで受け持っているのだ。
介護認定を受ければ、多少は楽になるかもしれないが、認定が下りるまでは、なんとしても頑張らなくてはならない。

だが、問題はそれだけではない。
当の母親が、そんな沙智の苦労を気遣って、申し訳ながってくれるような人ならばまだ良いのだが、この母は、まるでもともとの知的遅滞者でもあるかのように、沙智に対して子供のように甘えきり、駄々をこねたりもする、とても手のかかる人なのだ。

また、その母の夫である父も、似たもの夫婦とはよく言ったもので、沙智にかけている大きな負担を気にしている様子がなく、妻の介護も家事も、それは沙智の担当だと言わんばかりの様子で、会社から戻ったあとは、それまでどおりにテレビを見ていたりするばかりなのだ。

母が難病のためか、その薬のせいか、歩行はもとより直立するのにも困難をきたすことがあり、沙智は母の様子を察して、トイレにつけていかなければならない。そうでないと、布団の上でお漏らしをしてしまうのだ。
当然、その後始末をするのも、沙智なのである。

しかし、母と沙智との体格はだいたい同じくらいなので、母を抱き起こし、肩を貸しながらトイレまで連れて行くというのは重労働で、決して簡単な作業ではない。時には二人がもつれ合って転倒してしまうこともある。

一一そんな時だけに父は、仕方がないなと言わんばかりに重い腰を上げて、男の体力で楽々と、母をトイレへと連れて行ったりするのである。
それができるのだから、最初からやってくれたら良さそうなものなのに、父は積極的に介護に関わろうとはしないのだ。

しかし、そんな母や父が、いわゆる「酷い人」なのであれば、小説としてはわかりやすい「児童虐待もの」だと言えるだろう。一一だが、本作はそうではない。

前述のとおり、母親は、娘に対しては、まるで幼児のように甘えっきりであり、悪気や罪の意識があるようには見えず、その点で憎めないところがある。

また、父親も、妻の介護や家事に積極的に関わらないとは言え、それを娘に命じているとか、意図的に強いているというわけではない。
沙智がやってくれるのなら、助かるから任せようと、そんな態度なのだ。だから、沙智にはできないとわかったことに関しては、黙って助けてくれはするのである。

しかし、この物語を「胸に突き刺さる」ものにしているのは、そうした両親の「悪い人なのではないのだが」という点と合わせて、何よりも沙智自身が、母の介護をさほど嫌がってはおらず、苦痛にも感じていない様子である点なのだ。

無論、介護は大変だし、しなくていいのならしたくはない。
病人とは言え、母には母親としての自覚を持って、わがままを控えてほしいし、父には、そんな母の夫として、そして娘の父親として、もう少し自覚を持って、介護や家事に協力してほしい、とは思う。

だが、そんなふうに考える沙智は、その一方で、母の介護やそうした生活を、「たいへんだ」とは思っても、あまり「つらい」とか「嫌で嫌で仕方がない」という風ではないのだ。
「こうなってしまったからには仕方がない。私がやるしかない」と、そんな感じで、意外にカラッとして、割り切っている。

担任の先生が、そんな沙智の介護生活を思いやって、大した力になれなくて申し訳ないという様子を見せるたびに、沙智は「先生はいい人なんだな」と、けっこう覚めた評価をするだけで、よくある「第三者に何がわかる」的な反発を示すこともない。

つまり、沙智は、出来すぎているくらいに出来た子供なのだ。
自身を「両親の犠牲者」だなどとは思わず、こうなった以上仕方がないことだと、周囲から見れば「かなりきつい状況」を、意外に恬淡として受け入れているのである。一一だからこそ、読んでいて、かえってこちらが辛いのだ。

沙智が、そうした「不出来な両親」を呪い、自らの「不幸な境遇」を呪うのであれば、それは当然のことだから、読者であるこちらも、ある意味では「納得」できる。

ところが、沙智にはそうしたところが無く、ある意味で、カラッとしてケロッとしているからこそ、こちらとしては、それが「けなげ」なものとして映り、読んでいて、かえって辛い。

「もっと怒っていいのに」「もっと嘆いていいのに」と思うのに、沙智はそうならないからこそ、かえって読んでいるこちらが辛くなる。
沙智は、最後まで「明るい」のだ。だから、かえって読者の方こそ、堪えるのだ。

以上は、受賞作で表題作の短編「救われてんじゃねえよ」の内容であり、これにその後を描いた「泣いてんじゃねえよ」と「縋ってんじゃねえよ」が続く。

その後、親元を離れての大学生活を無事に終えて、映像関係の会社に就職した沙智が、ひさしぶりに帰郷するところから、ふたたび物語は始まる。

結局のところ、担任の先生の奮闘により、沙智は大学へ行くことができたのだ。
沙智を手元に置いて、介護と家事をさせようと思っていた両親を、先生が全力で説得してくれた結果である。

そして、沙智が家を出てみれば、そのぶん、父が介護や家事をせざるを得なくなっただけで、公的な支援もあってだろうが、それで大した問題もなく家の中は回り、母の難病の症状も、薬のおかげで軽減されていた。

無論、沙智には自分なりの夢があって、親元を離れて大学に行き、希望の業種の会社に勤められたことを、良かったと思っている。

しかし、ひさしぶり帰郷してみると、やはり両親は沙智をあてにして手元に置きたがる。
そして、沙智自身、両親に頼られることに悪い気はせず、このまま家に留まっても良いような気にもなるのだが、そうなれば自分の夢を諦めるしかなく、そこでの葛藤が描かれる。

結局、沙智は自分の道を選ぶのだが、だからと言って、親を見捨てたというわけでもない。
また、両親の方も、沙智が裏切ったとは思わない。沙智がいてくれれば助かるし、嬉しい。だから、沙智が家を出て行くのが残念なだけなのだ。

結局のところ、両親は娘を利用しようというのではなく、単に可愛いから手元に置いておいて、一緒にいたいだけなのだ。
ただ、娘の将来についての想像力や思いやりに乏しく、言うなれば「頭が悪い」だけなのである。

その意味で本作は、「少々頭の悪い、しかし現にいくらでもいそうな、困った両親」と「できた娘」の、ちょっと変則的な「親子愛」を描いた作品、ということになるのだ。

受賞作の「救われてんじゃねえよ」だけを読むと、困難な状況を受け入れて、それでも明るい沙智の様子に「本当に、それで良いのか?」という思いを禁じ得ないのだが、あとの2作を読めば、本作は「不出来な親でも、親は親」といった「親子愛」を描いた作品として、ある意味では「感動的な、いい話」として完結しているのがわかる。

だから、読了して、悪い印象は残らず、大半の読者は「良かった良かった」と思うだろうことは、まず間違いない。
またその点で本作は、エンタメ小説として、とても良くできた作品なのだとも言えよう。

だが、私としてはやはり、「本当にこれで良いのか? 良くはないだろう?」という思いを禁じ得ない

例えば、沙智の独白として、次のような言葉がある。

『 (※ 私=沙智の自虐的な介護ジョークに)呆れてツッコミながら、恭介くんが笑ってくれるのを、どこか期待している自分がいた。朝倉先生や木山さんみたいな正しい大人とは違う、不謹慎で遠慮のない恭介くんの発言が、むしろ心地いい。』(P84)

キャリアカウンセラーに「お母さまを助けたいという愛情がなせたことなんですね。幼少期、親御さんに愛されていた証拠ですね」と親を褒められた。わたしはどれにもうなずかなかったし、うなずけなかった。』(P95)

こう思う気持ちはわかる。特に、後者のような「紋切り型の言葉」の無神経さには問題もあるだろう。
だが、これは、前者の恭介くんが正しくて、後者のキャリアカウンセラーの言うことが間違っているということではない。

ここにあるのは、沙智の、そして作者の、「所詮、第三者は、当事者の気持ちがわからず、自己満足的に“正しい言葉”を発しているだけではないのか」という「非難」が込められている。

しかしだ、現実には「当事者のことは当事者にしかわからないんだから、当事者が助けてと現に言葉を発した時にだけ対応すれば良い。それ以上は、当事者も望まぬお節介になりかねない」ということには、ならないはずだ。

つまり、思い過ごしであろうと、自己満足であろうと、お節介であろうと、それでも「苦境にある人を思いやる気持ち」やその「実現形式」は、やはり必要なものなのだ。一一それによって救われる人だって、現に大勢いるのである。

したがって本作は、「個人的な実感」を描くことで、ある意味では結果として、子供に害をなす「毒親」を、「当事者にしかわからない愛」の名において、「肯定してしまっている」作品だとも言えるだろう。
「当事者性」を強調する余り、その「特権性」を振りかざして「善意による他者の介入」を否定してしまっている側面が確かにあるのだ。そしてその意味では、独りよがりであり、無神経でさえあろう。

たしかに、どんなに困った親であっても愛せるというのは素晴らしいことだし、子がその強さにおいて、「親の犠牲」にならないのであれば、それは結構なことである。所詮、他人には窺い知れないものというのは、当然ある。

一一だが、沙智のような境遇に置かれた少年少女が皆、沙智のように「異様に強い人間」でなどは、あり得ない。
強いられた介護を引き受けられる者ばかりではないのだ。

その場合、本作のような作品は、そうした「当たり前に弱い人間」に対して、過酷な「克己」を強いることになるのではないかと、私にはそこが危惧されてならない。

本作は、作者の体験を元にした作品であり、事実、作者はこうした「厳しい経験」を乗り越えてきた人なのかもしれない。
それは素晴らしいことであり、大したものだとは思うのだが、そうはなれない大半の者に対して、ある意味で本作は、残酷な物語となってしまっているのではないか。

本作を安心して楽しめるのは、「恵まれた境遇」にある読者や「勝者」だけなのではないだろうか?


(2025年8月24日)

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