小林正樹監督 『切腹』 : 物語に縛られた主役
先日(2025年11月8日)、俳優の仲代達也が亡くなった。無論、本作の主演俳優である。
俳優としての仲代達也には、特に興味はなかったものの、テレビのインタビューなどに見る仲代の姿には、その誠実な人柄があふれており、俳優としてと言うよりも、人としての仲代達也に好感をもっていた。
高齢であることは知っていたから、亡くなったこと自体は意外ではなかったものの、その人柄のゆえに残念な思いにとらわれた。

仲代達也の出演映画としては、私はすでに、黒澤明作品の『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)、『天国と地獄』(1963年)を見てはいたが、仲代の主演作である『影武者』(1980年)や『乱』(1985年)はまだ見ていなかった。
3年ほど前から、昔の日本映画も見るようになったので、黒澤作品も、おおむね古いものから順に見ていたための、まだ『影武者』にまでは到達しておらす、そのうちと思っているうちに、仲代が亡くなってしまったのである。
私は、黒澤作品以外で仲代達也がどんな映画に出ているのかはよく知らなかったのだが、仲代の死去をLINEで知らせてくれた友人が、仲代の主演作として『切腹』が(洋題『Harakiri』)良かったと書いてきた。
私はこの作品を知らなかったので、仲代の追悼かたがた、この機会に見ることにしたのである。

さて、そんなわけで大いに期待して見た本作だったのだが、正直なところ、期待していたほどではなかった。
よくまとまった作品ではあるのだが、突き抜けたものがなく、優等生的にまとまった作品といった印象が否めなかった。
パーツは面白いのに、全体としては少々物足りない。
「Wikipedia」によると、公開当時の評判は、次のとおり高かったようである。
『1962年度のキネマ旬報ベストテンの第3位となり、仲代達矢は主演男優賞を受賞した。1963年に第16回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞、第17回毎日映画コンクールでは日本映画大賞・音楽賞・美術賞・録音賞を受賞した。また、ブルーリボン賞では橋本忍が脚本賞を受賞した。』
(Wikipedia「切腹(映画)」)
カンヌ映画祭で受賞すると、それでもう世間では「芸術性の高い世界的な傑作」ということになるようだが、私はそこまでの傑作とは思えなかった。
むしろ「キネマ旬報」の「国内第3位」というのが妥当なのではないかと思う。
「毎日映画コンクール」の大賞受賞は、カンヌのご威光を受けての後追い授賞だったのではないかと、そう疑いたくもなる。
とにかく、アカデミー賞をはじめとして、海外での受賞を過剰にありがたがる、今に変わらぬ風潮には、ジャンルを問わず、うんざりさせられる。
業界の本音としては「使える権威は何でも使って売り込め」ということなのかも知れないが、それにまんまと踊らされて大騒ぎする、わかりやすい田舎者には、ほとほとうんざりなのだ。
そんなわけで、せっかく仲代達也の追悼のために見たのだから、褒める気満々ではあったのだが、曲がりなりにも「批評」をしている以上、嘘はつけない。そこらの提灯持ちライターとはわけが違うのだ。それに、故人にお世辞を言うのが追悼でもなかろう。
また、私が好感を持った仲代達也なら「そうお感じになったのなら、そう評価するしかないでしょう。私も、正直な感想を聞かせて欲しい」と、そう言ってくれるのではないかと思うから、どっちにしろ、正直に書くことにする。
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まず気づくのは、本作は、黒澤明の作品や松本清張原作映画などを多く手がけた橋本忍が脚本を担当した作品らしく、なるほどミステリ的な、凝った構成の作品となっている点だ。
物語を時間軸に沿って順を追って見せていくのではなく、いま起こっている謎めいた状況の進行に、適宜「過去」のシーンを挟み込んでゆき、今起こっている事態の由来を小出しに明かしていく、いわゆるカットバック式の物語構成である。
このような構成にすると、「現在」と「過去」のギャップを強調しながら、「現在時の謎」を部分的に解いていくことになるから、物語の緊張感を、最初から最後まで持続することが出来る。
通常の物語の構成が「起承転結」あるいは「序破急」だとすれば、このスイッチバック方式は「起承転承転承転承転結」「序破急破急破急破急」といった複雑な造りになるのである。

だが、これはミステリ小説でよく使われる手法であることからもわかるとおりで、長所としては緊張感の持続なのだけれども、しかし、そうして観客の興味を強く引っ張る分、結末にはそれなりの強度が必要となる。
ミステリで言えば「意外な結末」「驚愕の真相」「大どんでん返し」といったようなことだ。
なぜこのような「強い結末」が必要なのかと言えば、それは結末が弱いと「ここまで引っ張っておいて、結末はこれか?」ということになってしまうからだ。
気を持たせるのならば、それ相応の結末を付けなければならないのである。
だが、そうした観点からすると、本作の結末は、いささか弱い。
「なるほど、そうだよな」というところに落ち着きはするのだが、それだけなのだ。言うなれば「理に落ちて」いるのである。
では、なぜそうなったのか言えば、それはたぶん、橋本忍の意識として本作は、ミステリ小説のように観客を「驚かせる」ことを目的としたものではなく、スリリングな物語展開の果てに、「武士道の欺瞞」を暴く、というところにあったからであろう。

つまり、物語構成自体はトリッキーでも、テーマ的には、しごく真っ当に「ヒューマニズム」的な「正論」なので、その結末自体に意外性は無いのである。
つまり、観客は、物語の結末に至って、本作が「武士道の美意識」の裏にある「非人情」を批判した作品であることがわかり「なるほど」とは思うのだが、それだけでは、いまさら強い衝撃を受けることもないのだ。
なぜなら、自分とは直接関係のない、「今や昔の話」でしかない「武士道」について、「所詮は綺麗事の自己満足論だったのだ」と批判されても「まあ、実際のところは、そんなものだったんだろうな」とは思っても、それは所詮、他人事でしかないからである。
そのため、本作の結末は、正しいことを語ってはいるが、弱いという印象をまぬがれ得ていないのであろう。見る者の胸に食い入って来るほどのものに欠けるのである。
ではなぜ、この作品では、「現代的」あるいは「同時代的」とは言いがたい「武士道」などというものを扱って、わざわざそんなものの欺瞞を暴くようなことをしたのだろうか。
それはたぶん、本作の作られた当時は「侍映画」が人気を集めており、「武士道」というものが、フィクション的に「美化」されて注目されていたといったことが、あったからなのかも知れない。
そうであるなら、本作は、その当時の観客たちの「思い込み」の裏をかく作品だったということになるからだ。
だが、そうした「流行」に対するアンチテーゼ的な作りでは、時代を超えることはできない。
そうではなく、「武士道」というものが、今の私たちに通じるものとして掘り下げられ、それを撃ってこそ、「なるほどね」では済まされない衝撃を、見る者に与えられたのではないだろうか。
その意味で、本作の脚本はいささか物足りなかった。「説明」に納得はしても、心を動かされるというほどのものはなかったのである。
ミステリ作品の場合でも、「論理的」である必要はあるけれど、しかし、論理的でありさえすれば良いというものではない。
論理的に突き詰めていった結論が、想像を絶したもの、予想だに出来ない結果に至るからこそ、ミステリは面白いのであって、1+1=2ではダメなのだ。
1+1=3という驚くべき結論を、「論理的」に導いてみせるところに、ミステリの面白さがあるのである。
だが、本作は、1+1=2と、まともにやってしまっている。
つまり、解答として間違ってはいないのだが、面白くもない正答でしかない、ということである。
そんなわけで、本作がカンヌでウケたのは、たぶん「切腹」というインパクトのある異郷の文化に、外国人らしく興味を惹かれたところがあったのではないだろうか。ひとまず「物珍しかった」し、驚いた。
特に、本作の場合は、仲代達也演ずる浪人・津雲半四郎の娘婿である、石濱朗演ずるところの千々岩求女の切腹シーンが、「竹光」による切腹(Harakiri)という、なんとも凄惨、言い換えれば「えげつなく残酷」なものであり、相応に迫力のあるシーンとなっている。

だから、外国人がこれを見たら「日本のサムライとは、ここまでやったのだろうか」と、その「驚異的な精神性」に驚くこと請け合いの「異文化的」名シーンなのだ。
だから、その点だけでも、かなり評価されたはずなのである(Wikipediaによれば、事実そうだったようだ)。
しかしまただからこそ、その後のミステリ的に「論理的な構成での展開」は、はっきり言って、影が薄くなる。
最初の残酷シーンのインパクトが強すぎて、後の正攻法では、なかなかそれを超えられないし、超えきれないまま終わってしまった。一一そんな感のある作品だったのだ。
だから、仲代達也の熱演にも関わらず、津雲半四郎に、主役としての存在感を十分には与えきれなかったといううらみが残った。
前衛音楽で知られた武満徹の音楽も、非常に強いものであり、つまり本作は、
(1)竹光による切腹シーンのインパクト
(2)小林正樹監督の端正な絵作り
(3)トリッキーな物語構成
(4)強く印象的な武満徹の音楽
といった、攻めた(強い)要素が多いわりには、物語の内容は、いささかお行儀よく「当たり前」にすぎたのではないだろうか。
だからこそ、そうした物語本体の部分を一身に担う仲代は、主役でありながら損な役回りを担わされることになった、というようなことだったのではないか。
つまり、橋本忍による「凝った」脚本は、少なくとも主演の仲代達也にとっては、あまり美味しくない脚本だったということになるのかも知れない。
仲代の演じた津雲半四郎とは、主役でありながら、自分のための物語を生きたというよりは、物語の「説明」役にすぎなかった。
「私はこうだ!」ではなく、「このようなことになった事の顛末は、これこれこういうことだったのだ」という語りべであり、言うなればナレーターだった。
だから、丹波哲郎演ずる手だれの剣士・沢潟彦九郎との迫力のある対決シーンがあってもなお、主役としての重みを、最後まで持ち得なかったのではないか。

私はもともとミステリ小説の熱心な読者だから、作品の魅力を「キャラクターの魅力」に限るつもりなど毛頭ない。
例えば、アンソニー・シェーファーの原作舞台をシェーファー自らの脚本で映画化した、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツの監督作品『探偵スルース』(1972年)のようなトリッキーな作品なら、たとえ登場人物は型どおりであっても、映画として楽しめるし、高くも評価する。
だが、本作の場合は、凝った物語構成を採りながらも、理に落ちてそこまで面白い物語にはなっておらず、テーマ性に寄りかかるの弊の出た作品であり、またそのために、主役のキャラクターを殺してしまっているところがある。
テーマを語るために仲代達也の演技力に頼るのではなく、仲代の魅力そのものを、もっと引き出す作品であって欲しかった。

(2025年11月20日)
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(以下、橋本忍脚本参加の黒澤明作品)
(以下、橋本忍脚本不参加の黒澤明作品)
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