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大下宇陀児 『偽悪病患者』 : 真っ当な変態心理

書評:大下宇陀児偽悪病患者』(創元推理文庫)

大下宇陀児を読むのは、ひさしぶりことだ。最初にまとめて読んだのは、創元推理文庫版『日本探偵小説全集』の第3巻「大下宇陀児・角田喜久雄集」でだったから、2005年ということになる。つまり、20年前。

私はこの時、この『日本探偵小説全集』全巻を購読し、それ以前から大好きだった夢野久作小栗虫太郎以外の、主に戦前の推理小説(ミステリー小説)、つまり「探偵小説」の魅力を知ることとなった。

その後も、アンソロジーなどに収録されている作品をいくつかは読んでいるかもしれないが、まとめて読んだのは、今回がひさしぶり。数年前、本書が新刊書店に並んでいるのを見て、ひさしぶりに読んでみたいなと思ったのである。

もっとも、いつだって読みたい本は他にいくらでもあったし、読まなければならない、その時々に興味を持ったジャンルの本もあったから、別に、今すぐ読まなければならないわけでもない大下宇陀児の本を買っても、きっと積読の山に埋もれさせてしまうだけだろう。一一だから、「いずれ古本で手に入ったら」と、そう考えていたら、3年後の今日になってしまったのである。

大下宇陀児という探偵小説家の特徴は、ひと言で言えば、「心理派」である。

つまり、推理小説(ミステリ小説)を代表する「本格推理小説(本格ミステリ)」が「トリックとロジック」というものに重点をおいて、その「形式論理」による「意外性」を売り物にするのに対し、大下宇陀児の場合は、「人間心理」の「意外性」を売り物にしていると、おおよそそう言っても間違いではないだろう。

もっとも、大下宇陀児の「人間心理」とは、決してリアリズムとしての人間心理ではないと思う。
つまり、現実の犯罪を扱う「犯罪心理学」の扱うような人間心理とは、似ているようで違う、やはり「誇張され歪められた人間心理」なのだ。

もちろん、「誇張され、歪められた」と書いたからと言っで、否定的に評価しているわけではない。

当たり前ではないことを当たり前であるかのように読ませるところが、娯楽小説としてのミステリ小説の魅力なのだから、たとえ「誇張され、歪められ」ていたとしても、それで読者が「おおっ!」と、その「意外性」に驚き、そして、それでも「なるほど…」と納得するのであれば、それはミステリ小説として成功した作品なのである。
なにも、ノンフィクション小説が描き出すような、現実の犯罪者の、生々しくリアルな心理そのまま、である必要などないのだ。

しかしながら、ミステリ小説の世界では、やはり「トリックとロジック」の本格ミステリが基本的な形式だというのは、否定できないところだとも思う。
しかしまた、肝心なのは、基本的な形式だから「偉い」というわけではない、という点だ。

つまり、ミステリ小説(推理小説=探偵小説)がミステリ小説であるためには、その他の小説とは違った特徴がなければならず、その特徴というのが、他でもない、「トリックとロジック(形式論理)」なのだ。

言い換えれば、「意外性」も無ければ、「風吹けば桶屋が儲かる」式の「形式論理」の面白さも無いような、それ以外の「当たり前の魅力」しかないような小説は、それはそれとしての価値は有してはいても、やはりそれは「ミステリ小説」ではない、ということなのである。

例えば、犯罪小説とか、犯罪ノンフィクションなどにも、娯楽作品としても面白いものがたくさんあって、当然それはそれで存在価値を有するのだが、しかし、それはミステリ小説ではないし、そう呼ぶべきではない。

つまり、日本人にもアメリカ人にも素晴らしい人は大勢いるが、日本人から見て、そのアメリカ人が素晴らしい人からといって、そのアメリカ人を「日本人だ!」と呼ぶのは間違いだし、逆に「不出来な日本人」だからといって「日本人ではない」と言うのは間違いだ。その人物も「日本人」であるというのは、否定できない事実なのである。

その上で「あんなやつ、日本人ではない」と言う場合の「日本人」とは、正確には「あるべき日本人としての基準を満たしている日本人ではない」という意味なのだが、こんな基準など、たいがいは恣意的なものなのだから、そう言いたい気持ちも重々わかるけれども、そういうのは、あまり利口な物言いとは言えないのである。

そんなわけで、大下宇陀児は「心理派探偵小説の雄」だと言っても良いと思う。

いちいち作品名を挙げたりはしないが、代表作と呼ばれるものは、いま読んでも十分に面白いはずで、大下宇陀児に「物理トリック」や「心理トリック」あるいは「緻密な形式論理」などという見当違いなものを期待さえしなければ、面白くないはずはない

大半のミステリ小説がそういうものだとしても、大下宇陀児のミステリ小説は、そういうものではない魅力を持っており、それが「探偵小説」の魅力の一種として、高く評価されたのだ。だから、大下宇陀児の作品が、当たり前のミステリ小説である必要など、寸毫もないのである。

実際、ミステリ小説の魅力のひとつは、「歪んだ心理」なのだ。
探偵小説の時代であれば「変態心理」と呼ばれたものである。

これは、単に「狂気」や「異常心理」を指すものではない。
ミステリ小説では、しばしば「狂人の論理」という言葉で表現されるが、これは単に「狂っている=めちゃくちゃで筋が通っていない」といったものではなく、「たしかに筋は通ってはいるのだが、真っ当な筋の通り方とは、明らかにズレている」と、そんな筋の通り方を差している。

例えば、「ある美人を愛してしまい、歳をとった姿を見たくないから、今の美しいうちに殺す」とか「可愛い子供を可愛いうちに殺す」とか、そうした心理である。

普通「愛したから、特別に大切にする」「愛したから、美しさや可愛さだけではないところまで愛する」となるのが正常な人間心理なのだが、ミステリ小説に描かれる「異常心理」は、しばしばこのように「極端」なのだ。

「美しさ」に惚れたから「美しさ」オンリー。「可愛さ」な惚れたから「可愛い」オンリー。それ以外の属性は、完全に不必要だと無視できてしまう「極端さ」が、異常なのだ。

普通に正常な人間は、そんなに単純な割り切り方はできず、「あばたもエクボ」という言葉があるように、好きになれば、欠点さえ魅力的に見えてきてしまうというのが、むしろ「自然なこと」なのである。

ところが、ミステリ小説に描かれる「異常者の心理」とは、極端に「論理的」なのだ。
「例外」の存在を決して認めない、ある意味での「潔癖さ=完全主義」において、「非現実的」であり、狂っている

「美形だから好きなのであって、性格なんかどうでもいい」というのは、理屈としては間違っていない。
けれども、この「形式論理」を極限にまで推し進めて、「だから彼(女)を、剥製にしてコレクションしよう」などという発想は、「論理的」ではあっても「人間的」ではない

美輪明宏が怪盗黒蜥蜴を演じた、深作欣二監督映画『黒蜥蜴』。手前は三島由紀夫

それは、ミステリ小説という虚構世界において極端化された「狂人の論理」であり、しかもそれは、しばしば「名探偵のロジック」でもあれば、ミステリ小説そのものの「論理性」でもあるのだ。

つまり、ミステリ小説ファンというのは、当たり前に「人間的な論理性」を求めているではなく、「極端な論理性の、極端で危険な切れ味」を楽しんでいるのである。
それが「ちょっと狂っている」とわかっていながら、「だから面白い」と感じているのだ。

言い換えれば、リアルな凡人の「生ぬるい小理屈」ではなく、現実にはお目にかかれないような「振れ切った論理性」の魅力を、ミステリファンは、ミステリ小説に求めている。

だからミステリ小説は、しばしば「(リアルな)人間が描けていない」と言われるのだが、それも当然のことなのだ。
ミステリ小説は「リアルな人間」に飽き足らないからこそ、「極端な人間」を描くのである。

ちょうど、江戸川乱歩の初期短編の登場人物が、「当たり前の生活に飽きて、犯罪に刺激を求めていく」ように、である。

そんなわけで、大下宇陀児の描く人物も、決して単純に「リアルな人間」であるわけではない。
一見、ありふれた一般人を描いているようでいながら、どこかで「極端」だからこそ、そこにはミステリ小説らしい「意外性」も生まれるのである。

したがって、大下宇陀児の「心理ミステリ」とは、決して単なる「心理小説」ではない。

だがまた、大下宇陀児的な「少し極端な」心理小説は、「狂人の論理」と呼ばれるもののような「大いに極端な」心理小説でもない。
だからこそ、人間心理を突き詰めた「純文学」短編なんかと、妙に似てくることもあって、そのあたりで「純粋な探偵小説」ではない、などと言われたりもするのである。

本書にも、主に、大下宇陀児浜尾四郎の間で戦わされた「探偵小説論争」に関わる大下の小論文(エッセイ)2本が収録されている。
「探偵小説の型を破れ」「探偵小説不自然論」だ。

こうしたやりとりは、当時の探偵小説文壇において、主に甲賀三郎(通俗小説論)と木々高太郎(芸術論)の間で交わされていた、「探偵小説芸術論争」から派生したものだ。

ごく簡単にいえば、甲賀三郎は「探偵小説は探偵小説であって、文学に媚びる必要はない。娯楽のためのパズル小説に徹するべきだ」というのに対し、木々高太郎は「いや、探偵小説だって小説であるかぎりは、小説芸術としての魅力を追求すべきだ」というような話である。

で、大下宇陀児浜尾四郎の場合は、浜尾の方が大下の人気長編作品をとらえて、いわゆる「探偵小説として肝心な、トリックやロジックを欠いた、単なる通俗小説にすぎない」という趣旨の批判をしたので、大下はこれに対して「探偵小説の型にとらわれる必要はなく、それぞれが新しい探偵小説を模索すべきである」と論じ、さらに「探偵小説が探偵小説的たらんとするあまりに、えてして、わざとらしいまでに歪な(不自然な)小説になってしまいがちなのではないか。探偵小説も、もっと自然なかたちで書かれるべきであり、それでこそジャンルとしての将来もある」とまあ、だいたいそんな議論を交わしたのだ。

私は、こうした論争の関連文献を読み込んだわけではないので、誤解している部分もきっとあると思うが、ここで私の言いたいのは、これはいつの時代にも、どんなジャンルにもありがちな、「原理主義と現実路線」という二つの「理想主義」のぶつかり合いの一種だ、ということである。

で、私の立場はと言うと、それはもうごく当たり前に、「どっちもあり」だということになる。
両方あった方が、色々な中から選べて、読者としてはありがたいに決まっているからだ。

それに、作家には、と言うか、人間には、個性としての「好み」というのが厳然としてあって、これは否定しようがない。
例えば、美人女優(イケメン男優)ひとつとっても、「彼(女)が最高」「いや、こっちの方が明らかに上だ」といった具合に意見が分かれるが、そんなもの、いくら議論したって、論理的に「唯一の真理(解答)」など、出るわけがないのと同じことなのだ。

だからこそ、ミステリ小説にも、ゴリゴリの本格ミステリが一方にあって、もう一方には江戸川乱歩の変態心理小説もあるんだし、その方が楽しいに決まっている。
それに、自分が書きたいものや得意なものをやった方が、結果としても良いに決まっている。

竹中英太郎による、江戸川乱歩「陰獣」の挿絵)

だが、「読むパズル」に等しい本格ミステリと、乱歩的な変態心理小説を比較すれば、後者の方が、純文学を含めた「一般小説」に近いというのは、明らかなことだろう。
だからこそ、「何でもあり」だとは言っても、やっぱりミステリ小説を名乗るのであれば、単なる心理小説であってはならない。わざわざミステリ小説と名乗る意味もないし、その価値もないからだ。

では、ミステリ小説的な心理小説と、その他の一般的な心理小説とを分つ分岐点とは、奈辺に存するのであろうか?

私はそれを、「形式論理による意外性」という点に求めたい。

つまり、「理屈としては、たしかにそうはなるけれど、現実的にはそんなことありえない」というようなことを、あえて書くのがミステリ小説であり、その「無理」であり「歪み」を排除して、リアリティを与えるのが一般の心理小説だと、おおむねそのように考える。

たしかに、一般論的には、「無理」や「歪み」などない方が好ましいに決まっている。

しかしながら、人間の心理とは、そう単純なものではなく、あえて「無理のある屁理屈」や「奇態な歪み」にこそ、魅力を感じてしまうこともある
例えば、SM趣味とかスカトロ趣味だとかデブ専、老け専だとかいうのも、一般的ではないけれだも、しかしそれが好きな人は、それが本気で魅力的に感じられるから好きなのであって、それ以外に理由はない。

ならば、そういうのもあって良いではないか。
それこそ、それも昨今言われる「多様性(ダイバーシティ)」のひとつなのである。

言い換えれば、スカトロを認められない人に、「多様性」や「ダイバーシティ」といった言葉を、気やすく使う資格などないのだと、そう心得よ。

そんなわけで、ミステリ小説は「普通に正常」である必要はなく、むしろ「形式論理による意外性」を持っていなければならない。それを、多少なりとも持っていてこその、ミステリ小説なのである。

かつての探偵小説が、しばしば「変態小説(一般的ではない態様の小説)」だと言われたのは、そういうことからなのだ。

なにも、世間の基準に合わせた優等生でなどある必要はない。

大下宇陀児の、トリックらしいトリックの無い作品、緻密な形式論理ではなく、どこか微妙に歪んだ心理を描いた小説を、私たちが楽しめるのは、それは私たち自身が、単純に真っ直ぐなだけの存在などではないからなのである。


(2025年12月23日)

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