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【エッセイ】美濃②─大垣城と関ヶ原─『佐竹健のYoutube奮闘記(140)』

 三重櫓と戸田氏鉄の騎馬像の写真を撮った後、本丸へと入った。

 本丸の区画は白壁の塀に囲われていて、隅の方に先ほど見た白亜の三重櫓があった。

大垣城の櫓

(こういう櫓って、無駄に青空が似合うんだよね)

 よくわからないけど。白亜の櫓自体はありふれたものだから、それほど大したものではない。が、青空を背景とするとなぜかよく映えるのだ。

(でも、いいよね)

 よくわからないけど。でも、なんとなく「きれいだな」とは思う。

「この場合はしゃがんで撮った方がいいかな」

 カメラを持ったまましゃがんだ私は、そのままシャッターを切った。

 予想通り、白亜の三重櫓はよく映える。雲一つない五月の空に。


 大垣城の櫓の中へと入った。読み通り、中は博物館になっていた。

 博物館には刀をはじめ、鉄砲や甲冑などが展示されていた。あと、関ケ原の戦いの布陣図なんかもあった気がする。

 布陣図のあたりで、おじいちゃんが歴史解説をしていた。

 内容は、関ケ原の戦いの際に石田三成が大垣城を拠点としていたこと、徳川家康率いる東軍が来た時に睨み合いになったこと、その膠着状態を打開するために島左近が打って出て、東軍を蹴散らした話をしていた。

(なんか面白そう)

 私はおじいちゃんの解説を聞いてみることにした。

「もしかしたらだけど、天下分け目の戦いが関ヶ原ではなく大垣城の戦いになっとったかもしれんね」

「家康が陣を敷いていたとこは『岡山』と呼ばれていましたが、関ケ原の戦いに勝ったことで『勝山』と呼ばれるようになりました」

 そんな感じの話をしていた。

(ふむふむ)

 私は聞き入っていた。もしも石田三成が打って出ずに籠城を選んだら、確実に大垣城で籠っていのは道理だと思った。というのも、ここ大垣は長らく美濃の交通の要衝であったからである。そこに拠点を持っていたともなれば、東軍総大将の家康は確実に攻めていたことだろう。

 あと、「岡山」が「勝山」になったのはよくある話だと思った。ある出来事をきっかけに地名が変わることは、わりとよくある。


   ※


 せっかくなので、関ヶ原の戦いについても語ろう。

 徳川家康が会津の上杉景勝を攻めたのを好機と見た石田三成は、7月19日に毛利輝元を総大将として挙兵した。

 その前にも豊臣政権内で家康の行動が目立っていたこと、加藤清正ら数名が三成を襲撃されたのを家康が助けたことは別のところで語るとしよう。いや、後者は尾張編で語ったけども。

 挙兵した石田三成は家康の家臣鳥居元忠の守る伏見城を焼き払い、そして近江の大津城を攻めて、ここ大垣城へ入った。

 伏見城の鳥居元忠については、家康より守りを仰せつけられていた。が、守り通せなかったものの、最後まで守り通そうとしたことから、

「三河武士の鑑」

 として伝説となった。

 この間に伊勢の津や九州、東北でも西軍と東軍の激しい戦いが繰り広げられたが、これについてはいつかの機会に語ろうと思う。

 家康は三成挙兵の報を聞いて、会津へ向かう途中で引き返した。なぜ会津を攻めたかについては、上杉家に謀反の疑いがあったからである。家老の直江兼続が「謀反の疑いはなくて軍備増強やインフラ整備は治世者たる武士の務めなので」と書いて、それにブチギレて江戸から兵を出したのである。

 引き返した家康は勢いのまま東海道を駆け抜け、美濃へ入った。そして9月14日に大垣にある岡山に陣取った。

 家康着陣の報を聞いた西軍は怖気づいていた。そこへ、島左近が打って出て、杭瀬川の方へと出た。そして東軍を蹴散らし、士気を上げたと伝えられている。

 そして9月15日。両軍は近江との境にある関ヶ原で激突した。

 最初は西軍が優勢だった。が、問題もいろいろあった。

 総大将の毛利輝元の部下は「昼飯を食べてるから戦えない」と言ったり、島津義弘は様子見に徹していたりで。

 しばらく戦いが続いた。埒が開かぬと思った家康は、小早川秀秋の方へ鉄砲隊をやり、空砲で脅した。

 怖がった秀秋は東軍へと寝返り、形勢は逆転した。

 秀秋の一連の裏切りについては、臆病だったからだとか、実は東軍だったとかいろいろ言われてる。私としてはやはり「西軍のフリをした東軍」というのが一番怪しいと思ってる。元々家康に内通していて、もし不利になったときに寝返ってくれとでも言われていたのだろう。もちろん疑われないように、そちらが不利な時は西軍という形でいいみたいに。鉄砲は「やれ!」という合図とも取れる。

 秀秋の寝返りにより、総崩れとなった西軍は西へ退かざるを得なくなった。このとき三成の盟友にして家臣の島左近や大谷吉継は、主君を守るために討ち死にした話はよく知られている。

 特に犠牲者が多かったのが西軍の島津義弘の軍勢で、退却戦の時1000人いたのだが、国許の薩摩へ帰るときには10人になっていたと伝えられている。

 三成は落武者となり、山中に潜伏していたが捕まり、小西行長や安国寺恵瓊と共に首を斬られた。

 西軍に与した大名たちの処遇についても話さねばなるまい。

 毛利輝元は広島120万石から今の山口県のある防府と長州の36万石に減らされた。岡山の宇喜多秀家は、八丈島へ流罪となった。そして84歳で亡くなった。上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へ減封となった。

 島津家は何もお咎めは無かった。西軍にいたのに、である。これについては、島津貴久が、

「これ弟の義弘の独断ですので」

 と弟に全責任をなすりつけた。そのため、減封もされることなくその後も続いた。

 ここまではいい。だが、諦めずに戦う者もいた。

 四国の長宗我部盛親は土佐一国から改易され、浪人となった。浪人となった後、大阪へ転居し、そこで寺子屋の先生をしながら長宗我部家の復興の機を待っていた。大坂の陣の前に豊臣家から仕官の話を受けて、豊臣方として参戦した。そして夏の陣で敗者となり、やわた斬首された。このとき、

「僧になるから命だけは」

 と命乞いをしたらしい。

 真田昌幸とその次男信繁は、高野山の九度山へ蟄居となった。当時の「高野山」は、武将たちにとっては死刑宣告も同然だった。が、幸い長男の信之が東軍に属していたため、仕送りをもらっていたそうで、暮らしには不自由はしなかったようだ。

 が、大坂の陣が起こる前に昌幸は亡くなった。

 父を失い、途方に暮れている信繁のところへ、豊臣家の仕官の話が舞い込んできた。

 信繁はそれを承け、大阪へ出奔。冬の陣では、大阪城の弱点を真田丸という要塞で補い、徳川軍を恐怖させたという。

 これだけでは終わらない。翌年の夏の陣では、徳川本陣へと突っ込み、家康を討ち取る一歩寸前まで追い詰めた。しかも2回もである。3度目も突撃しようとしたが、傷を負い敗退。安居天神の辺りで信繁は西尾久作という侍に討たれた。

 死後信繁は、徳川家康を追い詰めたことで伝説となり、

「真田幸村」

 という人物として現代も語り継がれている。なお、彼を手助けした真田十勇士がいるが、あれは講談の中だけの存在である。私が知っているのは、角川か何かの映画の方で、へなちょこな真田幸村を猿飛佐助や霧隠才蔵らが英雄にするという話だった。

 なお、17歳の宮本武蔵も参戦していたそうだが、宇喜多秀家率いる西軍ではなく東軍だったらしい。おそらくは傭兵として行った感じだろうか。その後奈良で槍の名人宝蔵院胤舜を、京で京八流の吉岡一門を撃破し、そして巌流島の決闘で最強の剣豪佐々木小次郎を倒し、天下無双となった。なお西軍とみんな思っているのは、吉川英治の『宮本武蔵』によるものが大きい。こっちはキムタクのドラマの方で見た覚えがあるが、天下無双を目指すまでの心の葛藤とかが丁寧に描かれていて、何だか近年の少年漫画を彷彿させる感じだった。

 落伍者になったり、伝説になったり。天下分け目の関ヶ原は、日本の形だけでなく、様々な人物の人生をも変えた。今思えば『ONE PIECE』のゴットバレー事件みたいに、いろんな人物の物語の始まりと終わり、因縁が交差していて興味深い。


   ※


 おじいちゃんの話に聞きってしまった。あちらは史実や伝承を淡々と語っているだけなのだろうが、それが妙に人を惹き込む語り口なのである。

(ちょっとあの話をしてみるか)

 私はあの話をしてみようかなと思った。

 実は私のご先祖様は、関ヶ原の戦いに出ているらしい、と分家の先代から聞き及んでいる。真偽は不明だが、江戸時代に地主だったとか郷士だったとか聞き及ぶ辺り、西軍であろう。

 勇気を出して、私はおじいちゃんに話しかけようと思った。が、変な髪をした余所者の若者の存在を無いように扱っていたので、辞めた。

 その後戦国時代の女性の話である『おあむ物語』の説明を見たり、上に登って大垣の街を見たりして櫓を楽しんだ。

(続く)

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