Marc Jacobs、LVMHから売られてもまだMarc Jacobsなのか
今日も違和感を見つけた。
LVMHがMarc Jacobsを売却するというニュースを見た。
Marc Jacobs、LVMHから売られてもまだMarc Jacobsなのか。
最初はそう思った。
もちろん、ブランドの売買は珍しいことではない。
ファッションブランドは会社であり、会社は資本の中で動く。
買収される。
売却される。
ライセンスされる。
再建される。
拡張される。
別の資本の下へ移る。
それ自体は、ビジネスとしては普通である。
でも、Marc Jacobsという名前を見ると、少し引っかかる。
なぜなら、Marc Jacobsは創業者の名前そのものだからである。
Marc Jacobsというブランドは、単なる商標ではない。
人間の名前である。
デザイナーの記憶である。
90年代以降のアメリカンファッションの空気でもある。
その名前が、LVMHからWHP GlobalとG-III Apparel Groupのジョイントベンチャーへ移る。
ここに、かなり大きな問いがある。
ブランドは創業者の名前なのか。
それとも、資本が持つ商品なのか。
何が起きたのか
Bloombergは、LVMHがMarc JacobsブランドをWHP GlobalとG-III Apparel Groupのジョイントベンチャーへ売却することで合意したと報じている。
G-III Apparel Groupの発表でも、同社がWHP Globalと組み、Marc Jacobsブランドに関する最終契約を締結したことが説明されている。
Vogueも、Marc JacobsがLVMHからWHP Globalへ売却され、G-III Apparel Groupが所有に加わると報じている。
https://www.vogue.com/article/lvmh-to-sell-marc-jacobs-to-whp-global
Reuters系の報道では、買収資金として最大8億5000万ドル規模が示されており、LVMHにとってはラグジュアリーポートフォリオの見直しとしても読まれている。
つまり、これは単なるブランド移籍ではない。
巨大ラグジュアリーグループが、自分たちの中にあるブランドを選別し直している。
その中で、Marc Jacobsが外へ出る。
ここが面白い。
Marc Jacobsは人名である
Marc Jacobsというブランドのややこしさは、名前にある。
これは人名ブランドである。
Louis Vuittonのように、創業者の名前がすでに歴史化し、家の名前として機能しているブランドとは少し違う。
Diorも、Christian Diorという人名に由来しているが、今ではブランドとしてのDiorがかなり独立している。
Chanelも同じである。
創業者の名前ではある。
しかし今は巨大なメゾンであり、制度であり、ブランドである。
一方でMarc Jacobsは、まだかなり本人の身体感が残っている。
Marc Jacobsというデザイナーがいる。
その人が作った空気がある。
グランジ。
ポップ。
ニューヨーク。
若さ。
少しの毒。
ラグジュアリーとカジュアルの間。
そういうものが、ブランド名に残っている。
だから、売却された時に少し変な感じがする。
人の名前が売られているように見えるからである。
もちろん、実際には商標や事業の売買である。
でも感覚としては、人名が資本の中で移動している。
ここに、デザイナー名ブランドの独特の怖さがある。
ブランドは人なのか、会社なのか
ブランドは人なのか。
会社なのか。
これはファッションにおいてかなり重要な問いである。
デザイナー名ブランドは、最初は人から始まる。
Marc Jacobs。
Rick Owens。
Yohji Yamamoto。
Vivienne Westwood。
Martin Margiela。
Ann Demeulemeester。
人がいる。
美意識がある。
身体がある。
人生がある。
発言がある。
作品がある。
失敗がある。
そこからブランドが生まれる。
しかし、ブランドが大きくなると、人だけでは支えられなくなる。
会社になる。
スタッフが増える。
店舗が増える。
卸が増える。
ライセンスが増える。
投資家が入る。
資本が入る。
数字が必要になる。
すると、ブランドは人でありながら、会社になる。
ここで矛盾が生まれる。
人の名前なのに、資本が動かす。
個人の美意識なのに、組織の数字で管理される。
創作なのに、ポートフォリオの一部になる。
Marc Jacobsの売却は、その矛盾をかなり分かりやすく見せている。
ファッションが自己表現であることと、ブランドが資本の中で動くことは、矛盾しているようで同時に起きている。
服を選ぶことが自己分析になる、という話は以前も書いた。
しかし、ブランド側から見ると、自己表現だったものはやがて商標になり、流通になり、資本が扱う資産になる。
ここにファッションの面白さと残酷さがある。
LVMHにとってMarc Jacobsは何だったのか
LVMHは世界最大級のラグジュアリーグループである。
Louis Vuitton。
Dior。
Celine。
Loewe。
Fendi。
Givenchy。
Kenzo。
そうした巨大ブランドを抱える。
その中でMarc Jacobsは、少し特殊な位置にあったと思う。
アメリカンブランドである。
ポップである。
比較的アクセスしやすい価格帯もある。
バッグやフレグランス、カジュアルな商品展開も強い。
ラグジュアリーの中心にある超高級メゾンというより、もう少し広い市場へ接続するブランドである。
だからこそ、LVMHにとっては扱いが難しかったのかもしれない。
ラグジュアリーの上澄みに集中したい時、Marc Jacobsは少し違うゲームをしている。
超高級化するのか。
アクセスしやすいブランドとして広げるのか。
デザイナーズブランドとして鋭さを保つのか。
商業ブランドとして拡張するのか。
このバランスが難しい。
今回の売却は、LVMHが自分たちのポートフォリオの中で、Marc Jacobsを別の資本の方が運営しやすいブランドと判断したようにも見える。
WHP GlobalとG-IIIが意味するもの
WHP GlobalやG-III Apparel Groupが入ると、ブランドの読まれ方は少し変わる。
WHP Globalは、ブランドの所有やマネジメントを行う企業である。
G-III Apparel Groupは、アパレルのデザイン、調達、流通、マーケティングに強みを持つ企業であり、Donna Karan、DKNY、Karl Lagerfeldなどにも関わってきた。
つまり、ここで見えているのは、メゾン的なラグジュアリー運営というより、ブランド資産をどう拡張し、商品化し、流通させるかというゲームである。
これは悪いことではない。
むしろMarc Jacobsにとっては、バッグ、アクセサリー、ライセンス、グローバル流通を広げる上で相性が良い可能性もある。
ただし、ここで問いが出る。
Marc Jacobsは、どこまでMarc Jacobsでいられるのか。
ブランド資産として拡張されるほど、創業者の名前にあった鋭さは薄まるのか。
それとも、別の資本の下でより自由に広がるのか。
ここが見どころである。
ブランドは商品ではなく物語になる
ブランドは商品だけではない。
物語である。
以前、なぜ今、ブランドは商品ではなく物語を売るのか、という記事を書いた。
そこでは、2030年の競争は商品競争ではなく物語競争になるのではないか、と書いた。
人は商品を買うだけではなく、参加したい物語へ課金する。
Marc Jacobsも同じである。
人はMarc Jacobsのバッグを買っているだけではない。
Marc Jacobsという名前が持つ物語を買っている。
ニューヨーク。
ポップさ。
少しの反抗。
少しの軽さ。
ラグジュアリーと日常の間。
そういう物語である。
では、その物語を誰が運営するのか。
創業者なのか。
LVMHなのか。
WHP Globalなのか。
G-IIIなのか。
クリエイティブチームなのか。
顧客なのか。
ここがかなり重要になる。
ブランドは、創業者が作った物語で始まる。
しかし大きくなると、その物語は資本によって運営される。
つまり、ブランドとは物語の運営会社でもある。
デザイナー名ブランドの宿命
デザイナー名ブランドには、宿命がある。
名前を背負っている。
これは強い。
ブランド名を聞いただけで、人が思い浮かぶ。
人格がある。
美意識がある。
歴史がある。
ファンがいる。
しかし、それは同時に弱さでもある。
その人がいなくなった後どうするのか。
その人が変化した時どうするのか。
資本が変わった時どうするのか。
売却された時、その名前はどう残るのか。
MargielaがMaison Margielaになった時も、Ann Demeulemeesterが本人不在で続く時も、Vivienne Westwoodが本人の死後も続く時も、同じ問いがある。
ブランドは人なのか。
それとも、名前を引き継ぐ制度なのか。
Marc Jacobsの場合、本人がまだ存在している。
だから余計にややこしい。
本人の名前が、本人だけのものではなくなっている。
思想は燃え尽きても、構造は止まらない
デザイナーは思想を持つ。
ブランドの最初には、かなり個人的な熱がある。
なぜその服を作るのか。
なぜその形なのか。
なぜその色なのか。
なぜその価格なのか。
なぜその広告なのか。
そこには、個人の思想がある。
しかし、ブランドが大きくなると構造が動き始める。
売上。
在庫。
店舗。
ライセンス。
投資。
流通。
資本。
思想だけでは止められない構造がある。
この話は、思想は燃え尽きても、構造は止まらない、という記事でも書いた。
デザイナーたちは、長く着ろ、少なく買え、無駄を足すな、と語ってきた。
しかし産業としてのファッションは、新作、在庫、販売、成長、店舗、ノルマへ向かう。
Marc Jacobsの売却も、この構造の中にある。
人の名前から始まったブランドが、資本の中で再配置される。
思想は個人に宿る。
でも構造は会社を動かす。
ここに、ファッション産業の現実がある。
名前は資産になる
ファッションにおいて、名前は資産である。
Marc Jacobsという名前には価値がある。
それは商標としての価値だけではない。
記憶としての価値である。
あの時代のMarc Jacobs。
あのバッグ。
あの広告。
あのショー。
Louis Vuitton時代のMarc Jacobs。
グランジの記憶。
ニューヨークの空気。
そうしたものが名前に残っている。
資本は、その名前を買う。
名前は、すでに消費者の頭の中に場所を持っている。
ゼロからブランドを作るより、既に記憶されている名前を買う方が早い。
これはかなり現代的である。
ブランドとは、商品ではなく記憶の資産である。
だから売買される。
そして、ここに少し怖さがある。
記憶まで資産化される。
創作の痕跡まで、ポートフォリオに入る。
カルチャーは勝った瞬間に少し死ぬ
ブランドが大きくなることは、成功である。
売れる。
広がる。
認知される。
店舗が増える。
世界中に届く。
これは悪いことではない。
しかし、広がることで失われるものもある。
以前、カルチャーは、勝った瞬間に少し死ぬ、という記事を書いた。
カルチャーは最初、外側から始まる。
しかし広がると市場が接続する。
市場化すると制度も接続する。
思想は空気になり、空気は商品になり、商品は文化として制度化される。
その瞬間、カルチャーは少し死ぬ。
Marc Jacobsも、ある意味ではその循環の中にある。
最初は個人の表現だった。
それがブランドになった。
LVMHのポートフォリオに入った。
そして別の資本へ移る。
この過程で、何かは広がる。
しかし、何かは薄まる。
この矛盾を、単純に悲しい話としてだけ見る必要はない。
ブランドが生き延びるためには、変化も必要である。
ただ、その変化の中で何が残るのか。
そこが問われる。
売却は終わりではなく、編集である
Marc Jacobsの売却を、単純に終わりとして見る必要はない。
LVMHから売られたから価値が下がる。
そういう話でもない。
むしろ、これは編集に近い。
LVMHが自分たちのポートフォリオを編集する。
WHP GlobalとG-IIIが、Marc Jacobsというブランドを別の文脈で編集する。
ブランドは、資本の中で配置換えされる。
この時、価値が変わる。
何を残すのか。
何を削るのか。
どの市場へ広げるのか。
どの価格帯を強化するのか。
どのイメージを守るのか。
どこまで商業化するのか。
ブランド売買とは、単なる所有者変更ではない。
ブランドの未来の編集権が移ることである。
ここが重要である。
LVMHから出ることは、悪いことなのか
LVMHから出ることは、悪いことなのか。
必ずしもそうではない。
LVMHの中にいることには強さがある。
資本。
店舗。
国際展開。
ブランド管理。
高級感。
しかし、大きなグループの中にいることで、動きにくさもある。
グループ全体の戦略がある。
高級化の圧力がある。
他ブランドとの位置づけがある。
数字もある。
Marc Jacobsのようなブランドは、LVMHの中でラグジュアリーとして上へ行くより、別の資本の下でより幅広く拡張した方が合う可能性もある。
つまり、売却は敗北ではなく、別のゲームへの移動かもしれない。
ただし、その移動によってブランドの濃さが薄くなる危険もある。
ここが緊張感である。
広がるか。
薄まるか。
この二つは、常に同時にある。
ブランドが広がるほど、本人から離れる
ブランドは広がるほど、本人から離れる。
これは避けられない。
店舗が増える。
商品カテゴリが増える。
ライセンスが増える。
バッグが増える。
香水が増える。
アクセサリーが増える。
アウトレットが増える。
ECが増える。
世界中に広がる。
そのたびに、ブランドは本人の手から少しずつ離れる。
もちろん、クリエイティブディレクションは残る。
本人の思想も残る。
チームもいる。
しかし、全てを本人が直接見ているわけではない。
ブランドは制度になる。
ここで、人名ブランドの名前は不思議な存在になる。
人の名前なのに、人を超えて動く。
本人の身体を離れて、商品、店舗、広告、資本、商標として流通する。
Marc Jacobsの売却は、その状態を見せている。
それでもMarc JacobsはMarc Jacobsなのか
では、LVMHから売られてもMarc JacobsはMarc Jacobsなのか。
答えは、たぶんイエスであり、ノーである。
名前は残る。
本人も残る可能性がある。
ブランドの記憶も残る。
顧客も残る。
バッグも残る。
世界観も残る。
その意味ではMarc Jacobsである。
しかし、資本が変わる。
運営方針が変わる。
成長の仕方が変わる。
商品展開が変わる。
流通が変わる。
価格帯が変わるかもしれない。
その意味では、以前と同じMarc Jacobsではない。
ブランドは、名前だけでは同じでいられない。
どの資本の下で、どのように運営され、どの市場へ向かうかによって、ブランドの意味は変わる。
つまり、Marc JacobsはMarc Jacobsであり続ける。
でも、同じMarc Jacobsではない。
この微妙さが面白い。
結論
Marc Jacobs、LVMHから売られてもまだMarc Jacobsなのか。
最初はそう思った。
でも考えていくと、これはただの売却ニュースではない。
ブランドは創業者の名前なのか。
それとも、資本が持つ商品なのか。
その問いが見えてくる。
Marc Jacobsという名前には、人間の記憶がある。
デザイナーの身体がある。
ニューヨークの空気がある。
グランジも、ポップも、バッグも、広告も、LVMH時代の記憶もある。
しかし同時に、その名前は商標であり、資産であり、売買されるブランドでもある。
ここにファッションの残酷さと面白さがある。
創作は人から始まる。
しかしブランドになると、資本の中で動き始める。
人名は物語になる。
物語は資産になる。
資産は売買される。
それでも、名前は残る。
Marc JacobsはLVMHから出てもMarc Jacobsである。
ただし、その名前をこれから誰がどう編集するのか。
そこにブランドの未来が出る。
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