なぜユニクロは、夏をおしゃれではなく生存戦略として売り始めたのか
今日も違和感を見つけた。
ユニクロが、2026年夏のテーマとして「適材適暑」を打ち出していた。
FASHIONSNAPによると、ユニクロは2026年の夏を快適に過ごすための考え方として「適材適暑」を訴求し、ワンパターンの服装ではなく、シーンに応じた着こなしを提案している。
最初は、普通の機能性訴求に見えた。
暑いからエアリズム。
日差しが強いからUVカット。
汗をかくからドライ素材。
湿気があるからリネン。
冷房が寒いから羽織り。
それだけの話にも見える。
でも、少し引っかかった。
ユニクロはもう、夏服を「おしゃれ」として売っていないのではないか。
むしろ、夏をどう生き延びるかという話として売り始めている。
ここが面白いと思った。
昔の夏服には、もっと明るいイメージがあった。
リゾート。
海。
軽やかさ。
肌見せ。
白いシャツ。
サンダル。
ワンピース。
ショーツ。
涼しげな色。
夏らしい柄。
夏服は、暑さの中にある開放感をまとっていた。
もちろん、昔から暑かった。
汗もかいた。
日焼けもした。
冷房の寒さもあった。
でも、夏の服を語る時の中心には、どこか楽しさがあった気がする。
夏だから軽くなる。
夏だから肌を出す。
夏だから色を着る。
夏だから少し浮かれる。
そんな季節の物語があった。
でも今の夏は、少し違う。
外に出た瞬間に、まず危険を感じる。
日差しが強い。
湿気が重い。
駅まで歩くだけで汗をかく。
電車に乗ると冷房で冷える。
職場に着く前に服が終わる。
昼に外へ出る気がなくなる。
夜になっても暑い。
朝からもう暑い。
おしゃれ以前に、身体がしんどい。
ここ数年、夏はだんだんイベントではなく、耐える季節になってきた。
FASHIONSNAPの記事でも、夏の長期化や酷暑化に触れられている。東京では夏日の期間が長くなり、猛暑日も増加傾向にあるという。
この状況で、服の役割が変わらないわけがない。
服は、自己表現である。
服は、気分を作る。
服は、誰かにどう見られたいかを表す。
服は、自分の輪郭を作る。
それは今でもそうだと思う。
でも夏に限って言えば、服はまず身体を守る道具になってきている。
暑さから守る。
汗から守る。
日差しから守る。
紫外線から守る。
湿気から守る。
冷房から守る。
不快感から守る。
つまり、夏服は自己表現の前に、気候適応装置になっている。
以前、「服は自己表現から、気候適応装置へ変わるのか」でも、暑さによって服の役割が変わっていく違和感を書いた。
あの時に考えていたのは、服が自己表現の道具である前に、気候に対応する装置になっていくのではないか、ということだった。
今回のユニクロの「適材適暑」は、その流れをかなり分かりやすく言語化している。
夏服はもう、ただ涼しげに見える服ではない。
汗、湿気、日差し、冷房差、移動距離、洗濯まで含めて、生活を成立させる服になっている。
この言葉を少し大げさに感じる人もいるかもしれない。
でも、朝に服を選ぶ時の感覚を思い出すと、かなり近いと思う。
今日、何を着たいか。
それより先に、今日、何なら耐えられるか。
この順番になっていないだろうか。
本当は黒を着たい。
でも暑いからやめる。
本当は厚手のTシャツが好き。
でも汗が乾かないからやめる。
本当は革靴を履きたい。
でも足が蒸れるからスニーカーにする。
本当はシャツを着たい。
でも背中の汗が目立つから別の色にする。
本当はおしゃれしたい。
でも今日は外を歩く時間が長いから、機能優先にする。
これが、今の夏服のリアルだと思う。
おしゃれをやめたわけではない。
服に興味がなくなったわけでもない。
ただ、身体が先に判断してくる。
その服、今日は無理。
その素材、今日は危ない。
その色、汗が目立つ。
その靴、足が終わる。
その重ね着、駅までで崩れる。
身体が、服の選択肢を削っていく。
だから、夏の服選びは、どこかサバイバルに近づいている。
ユニクロの「適材適暑」という言葉が面白いのは、暑さを一つのものとして扱っていないところだ。
梅雨の湿気。
真夏の直射日光。
熱気が残る熱帯夜。
車中の日差し。
キッチンの火や湯気。
通勤時の汗。
室内の冷房。
同じ暑いでも、全部違う。
FASHIONSNAPの記事では、ユニクロが梅雨時期の湿気、真夏の直射日光、熱帯夜など、時期や時間帯、環境によって暑さの質が異なる点に着目していると紹介されている。
これはかなり重要だと思う。
私たちは、これまで夏服をかなり雑に考えていたのかもしれない。
暑いから薄着。
暑いから半袖。
暑いからサンダル。
暑いから涼しい素材。
でも、本当は暑さには種類がある。
湿気の暑さと、直射日光の暑さは違う。
外の暑さと、室内の冷房差は違う。
朝の通勤と、夜の帰宅では違う。
自転車に乗る日と、電車移動の日では違う。
デスクワークの日と、外回りの日では違う。
家で料理する日と、外食の日では違う。
つまり、夏服は一枚で解決できなくなっている。
必要なのは、夏の正解コーデではなく、状況ごとの調整なのだと思う。
これが、今の服の変化をよく表している。
昔の服は、ある意味で「見た目の正解」を作っていた。
この季節はこの色。
この年齢ならこの丈。
この場面ならこの靴。
このブランドならこの雰囲気。
もちろん今もそういうルールは残っている。
でも夏の暑さが厳しくなると、見た目だけでは判断できなくなる。
見た目は良くても、暑すぎる服は着られない。
おしゃれでも、汗で崩れる服は選びづらい。
きちんとしていても、体調を削る服は続かない。
服は、見られるものから、耐えるものになっていく。
この変化は、少し寂しくもある。
服は本来、もっと自由で、もっと遊びのあるものだったはずだ。
今日はこの色を着たい。
今日はこのシルエットにしたい。
今日は少し強く見せたい。
今日は軽く見せたい。
今日は誰にも会わないけど、この服で気分を作りたい。
そういう選び方がある。
でも真夏になると、服の選択が現実に引き戻される。
汗。
湿度。
気温。
紫外線。
冷房。
移動距離。
洗濯。
乾きやすさ。
透けにくさ。
におい。
肌触り。
急に、生活の細かい条件が前に出てくる。
ここでユニクロが強いのは、まさにその生活の細かい条件を拾うブランドだからだと思う。
ユニクロは、ファッションの夢を売るブランドというより、生活の不快を減らすブランドである。
もちろん、デザインもある。
コラボもある。
色もシルエットもある。
JW Andersonも、Cecilie Bahnsenも、Uniqlo Uもある。
でも、多くの人にとってユニクロの強さは、もっと日常に近い。
失敗しにくい。
洗える。
安定している。
どこでも買える。
サイズがある。
機能が分かりやすい。
生活に入れやすい。
つまり、ユニクロは服を「選ぶ楽しさ」だけではなく、「失敗しない安心」として売っている。
以前、「ユニクロ、結局また勝つんか」で、不景気になるたびにユニクロの強さが別の形で見えてくると書いた。
あの記事で見ていたのは、ユニクロが単に安い服ではなく、生活防衛として選ばれていることだった。
そして今回の「適材適暑」は、その生活防衛がさらに一段進んだように見える。
守る対象が、お金だけではなく身体になっている。
物価から生活を守る服。
暑さから身体を守る服。
失敗から日常を守る服。
ユニクロは、どんどんファッションブランドというより生活インフラに近づいている。
これは、褒め言葉でもあり、少し怖い話でもある。
ユニクロが生活インフラになるということは、多くの人にとって、服選びの自由が「まずユニクロで土台を作る」方向へ集約されていくということでもある。
夏のインナーはエアリズム。
仕事用のポロシャツはユニクロ。
暑い日のパンツもユニクロ。
UV対策もユニクロ。
羽織りもユニクロ。
気づいたら、生活のベースがユニクロになる。
それは便利だ。
でも同時に、私たちの服の感覚も変えていく。
服を選ぶ時、まず考えるのが「似合うか」ではなく「快適か」になる。
「欲しいか」ではなく「耐えられるか」になる。
「気分が上がるか」ではなく「汗が目立たないか」になる。
この順番の変化が、私はかなり気になる。
夏のファッションは、自己表現から身体管理へ寄っている。
身体管理というと少し硬いけれど、実際にやっていることはそうだ。
汗を管理する。
体温を管理する。
紫外線を管理する。
においを管理する。
肌の不快感を管理する。
冷えを管理する。
洗濯頻度を管理する。
服が、身体の状態をコントロールするための道具になっている。
そして、その方向に最も強いのがユニクロである。
ハイブランドは夢を作る。
セレクトショップは気分を作る。
古着は物語を作る。
ユニクロは、生活を成立させる。
この違いはかなり大きい。
たとえば、夏に白いリネンシャツを着るとする。
ハイブランドなら、そこには上質さや余白やリゾート感がある。
セレクトショップなら、都会的な抜け感がある。
古着なら、時間の蓄積や一点もの感がある。
ユニクロなら、洗える、買いやすい、合わせやすい、暑さに対応できる、という安心がある。
同じシャツでも、意味が違う。
ユニクロの服は、憧れよりも「これで大丈夫」を作る。
だから、暑さが厳しくなるほどユニクロは強くなる。
人は、余裕がある時には服で夢を見る。
でも余裕がない時には、服で生活を守る。
今の夏は、多くの人から余裕を奪っている。
朝から暑い。
物価も高い。
電気代も気になる。
外に出るだけで疲れる。
仕事は普通にある。
学校もある。
家事もある。
移動もある。
その中で、服にまで失敗したくない。
だから、ユニクロの「適材適暑」はただのキャンペーンではなく、かなり今の生活感覚に合っている。
夏を楽しむより、夏に負けない。
おしゃれするより、崩れない。
目立つより、耐える。
気分より、身体。
ここに時代の空気が出ている。
ただ、ここで一つ考えたい。
服が身体を守る道具になることは、本当に悪いことなのか。
私は、悪いとは思わない。
むしろ、服が身体に戻ってきたとも言える。
ファッションは時々、身体から離れすぎる。
写真映え。
ブランド名。
トレンド。
価格。
限定性。
誰が着ているか。
SNSでどう見えるか。
そういう外側の意味が強くなりすぎると、服は身体のためのものではなく、他人に見せる記号になる。
でも暑さは、その記号性をかなり乱暴に壊してくる。
どれだけかっこよくても、暑すぎる服は着られない。
どれだけトレンドでも、汗で不快なら続かない。
どれだけ高くても、身体がしんどければ選ばれない。
暑さは、服を身体に引き戻す。
これは面白い。
AI時代、SNS時代、画像生成時代になって、服はますますイメージとして消費されるようになっている。
画面で見る。
保存する。
投稿する。
似た服を探す。
AIでコーデを作る。
オンラインで買う。
服は、どんどん画像になっていく。
でも夏の暑さだけは、画像では処理できない。
実際に着る。
汗をかく。
肌に触れる。
歩く。
蒸れる。
乾く。
冷える。
疲れる。
ここには、身体がある。
以前、「なぜ服は、AIで便利になるほど手仕事に戻るのか」では、画面で完結する時代ほど、触れる証拠が欲しくなると書いた。
夏服も、かなり近い。
画像では涼しそうに見える服が、実際には暑いことがある。
SNSでは良い服が、通勤では不快なことがある。
AIがどれだけコーデを最適化しても、湿気と汗までは消してくれない。
最後に服を判断するのは、画面ではなく身体である。
だから「適材適暑」は、AI時代のファッションに対するひとつの現実でもあると思う。
どれだけ服がデータ化されても、最後は身体が判断する。
どれだけコーデが最適化されても、湿気と汗は消えない。
どれだけ画像が美しくても、真夏の駅まで歩く身体はごまかせない。
服は、まだ身体から逃げられない。
ここに、かなり希望がある。
ファッションがただの画像になりそうな時代に、暑さは服を生活へ戻してくる。
もちろん、暑すぎるのは困る。
気候変動をおしゃれな話に回収したいわけではない。
むしろ、かなり切実な問題である。
でも、だからこそ服の役割が見えやすくなっている。
服は、飾りではない。
服は、身体と環境の間にある。
服は、人間が外に出るための薄い装置である。
この当たり前のことを、暑さが思い出させてくる。
そして、ここでまたユニクロが強い。
ユニクロは、服を夢にしすぎない。
暑いですよね。
汗かきますよね。
冷房寒いですよね。
外回りしんどいですよね。
でも働かなきゃいけないですよね。
生活は続きますよね。
そこに服を差し出す。
これは、ファッションというより生活への介入である。
FASHIONSNAPの記事では、小田急電鉄が係員用の夏季制服としてエアリズムコットンカノコポロシャツを取り入れている事例も紹介されている。
ここがかなり象徴的だと思った。
ユニクロは、個人のおしゃれだけではなく、働く身体に入り込んでいる。
制服。
仕事。
移動。
接客。
暑さ。
汗。
快適性。
服が、働く人を支える道具になる。
これは地味だけど、かなり大きな変化だと思う。
ファッションの記事では、どうしてもランウェイやブランドの新作が目立つ。
でも、多くの人の生活を本当に変えているのは、こういう地味な服かもしれない。
制服が涼しくなる。
通勤服が乾きやすくなる。
インナーが不快感を減らす。
サングラスが目を守る。
UVカットの羽織りが日差しを減らす。
どれも派手ではない。
でも、毎日の疲れ方を少し変える。
この少しが、生活では大きい。
ファッションは、劇的な変化だけではない。
一日が少し楽になる。
汗を少し気にしなくていい。
帰宅後の疲れが少し減る。
外に出るハードルが少し下がる。
洗濯が少し楽になる。
そういう小さな改善も、服の力である。
ただ、ここにも違和感は残る。
服が生活を守る方向へ進むほど、私たちは服に何を求めているのか分からなくなる。
快適さなのか。
美しさなのか。
自己表現なのか。
清潔感なのか。
社会適応なのか。
気候への対応なのか。
全部必要なのだけど、全部を一枚の服に求めるのは無理がある。
だから今の服選びは、どんどん複雑になっている。
夏の朝、私たちは無意識にかなり多くの条件を処理している。
今日の気温。
湿度。
雨の可能性。
歩く距離。
会う人。
仕事の場。
冷房の強さ。
汗の目立ち方。
洗濯のタイミング。
夜まで着ていられるか。
写真を撮られるか。
帰りに寄り道するか。
これだけ考えている。
もはや服選びというより、生活のシミュレーションである。
だから「適材適暑」は、単なるユニクロの造語以上に、今の私たちの服選びをかなり正確に言い当てている気がする。
適材適所ではなく、適材適暑。
暑さに合わせて素材を選ぶ。
場所に合わせて重ねる。
時間帯に合わせて守る。
身体の状態に合わせて調整する。
服は、季節の気分ではなく、環境の変化に対応するものになっている。
ここで、ストリートの変化ともつながる。
FASHIONSNAPのACROSS定点観測では、2026年はトレンドの変化がやや停滞ムードで、カーディガンやボーダー柄など大定番アイテムに注目している。
この停滞ムードも、私は単にファッションがつまらなくなったという話ではないと思う。
大きなトレンドが見えにくい時、人は定番に戻る。
カーディガン。
ボーダー。
スニーカー。
シャツ。
ユニクロ。
エアリズム。
派手な新しさより、生活に耐えるもの。
強い主張より、使えるもの。
一発の映えより、毎日の安心。
そういう方向へ、街の服が少し寄っているのかもしれない。
もちろん、これは全員の話ではない。
攻めた服を着る人もいる。
暑くても黒を着る人もいる。
重いブーツを履く人もいる。
レイヤードを楽しむ人もいる。
真夏でもモードを貫く人もいる。
それはそれで、かなりかっこいい。
でも、多くの人の生活感覚としては、今の夏は服に我慢を強いる季節になっている。
だから、身体を守る服が強くなる。
この時、ファッションの面白さはどこに残るのだろう。
私は、機能をどう自分の言葉に変えるかに残ると思う。
ただ涼しい服を着るだけなら、誰でも同じになる。
ただ快適な服を選ぶだけなら、生活用品に近づく。
でも、その快適さをどう自分のスタイルに入れるか。
ここにまだファッションがある。
エアリズムを見せないインナーにするのか。
あえて透ける素材と合わせるのか。
リネンシャツをきれいに着るのか。
ショーツで抜くのか。
サングラスを生活防衛としてではなく、顔の印象として使うのか。
黒を着るなら、素材を軽くするのか。
白を着るなら、形で強さを出すのか。
機能だけでは終わらせない。
生活に必要な服を、自分のスタイルに翻訳する。
ここが、これからの夏服の面白さになる気がする。
ユニクロは土台を作る。
でも、その土台をどう崩すか、どう混ぜるか、どう自分の癖にするかは、着る人の仕事である。
全身ユニクロでもいい。
一部だけユニクロでもいい。
インナーだけユニクロでもいい。
逆に、機能服に一点だけ変な靴を合わせてもいい。
涼しい服の中に、自分の違和感を一つだけ残してもいい。
夏の服は、全部を我慢にしなくていい。
生存戦略の中にも、少し遊びを残す。
これが大事だと思う。
なぜなら、服が完全に機能だけになると、人は少し寂しくなるからだ。
快適だけど、何も言っていない服。
便利だけど、自分がいない服。
失敗しないけど、記憶に残らない服。
それだけでは、やはり物足りない。
人は、ただ快適に生きたいだけではない。
少しよく見られたい。
少し自分らしくいたい。
少し気分を上げたい。
少し他人と違いたい。
少しだけ、今日の自分を作りたい。
その欲望は、暑さの中でも消えない。
以前、「ファッションとは自己分析であることに気づいた」で、服を選ぶ行為は自分を分析する行為に近いと書いた。
夏服は、その自己分析をさらに正直にしてくる。
自分は何を我慢できないのか。
何なら快適でいられるのか。
どこまでおしゃれを残したいのか。
どこから機能に振り切るのか。
暑さは、自分の服の優先順位をかなりはっきり見せてくる。
だから夏服の問いは、AIか手仕事か、トレンドか定番か、ユニクロかハイブランドか、という単純な二択ではない。
もっと生活に近い問いになる。
身体を守りながら、どう自分を消さないか。
これだと思う。
夏が過酷になるほど、服は機能へ寄る。
でも機能へ寄りすぎると、自分が消える。
だから、その間に小さな編集が必要になる。
Tシャツの形。
シャツの襟。
パンツの丈。
サングラスの形。
靴の色。
バッグの素材。
袖のまくり方。
ボタンの開け方。
派手な個性ではなくてもいい。
小さな違いで、自分を残す。
これが、これからの夏のおしゃれなのかもしれない。
昔の夏服は、開放感をまとっていた。
今の夏服は、暑さへの対応をまとっている。
でも、その対応の中にも、まだ余白はある。
ユニクロの「適材適暑」は、その現実をかなり正直に見せている。
夏はもう、ただ楽しい季節ではない。
服はもう、ただ見せるためのものではない。
身体はもう、気候を無視しておしゃれできない。
だからこそ、服はもう一度、生活の中で考え直される。
何を着たいか。
何なら耐えられるか。
何なら自分が消えないか。
この三つを同時に考える時代になっている。
私は、ここに今のファッションの違和感があると思う。
服は自由になったように見える。
でも、気候によってかなり縛られている。
選択肢は増えた。
でも、身体が選べる服は減っている。
おしゃれは多様化した。
でも、真夏の街ではみんな同じ機能に戻っていく。
その中で、どう自分を残すのか。
ユニクロの「適材適暑」は、便利な提案である。
同時に、夏服が自己表現から生活防衛へ移っていることを示す、かなり象徴的な言葉でもある。
これからの夏、おしゃれな人とは、暑さを無視できる人ではないのかもしれない。
暑さに負けずに、身体を守りながら、それでも自分の癖を少し残せる人。
そういう人が、これからの夏の服を面白くする気がする。
明日も違和感を書きます。
この問いは、Void Labでも続けて考えています。
Void Labは、服に現れる時代の変化を観測する小さな研究室です。
ブランドはなぜ物語を売るのか。ラグジュアリーはなぜ生活へ広がるのか。流行はなぜ市場に回収されるのか。
週刊服飾観測・月刊服飾観測を中心に、ファッション、ブランド、消費、カルチャーの違和感を読み解きます。
月額980円で有料記事はすべて読み放題。掲示板では自由に話せます。
完成した答えより、まだ名前のない変化に興味がある人へ。
あなたは、夏服を選ぶ時、何を一番優先していますか。
暑さに勝つことですか。
自分らしさを残すことですか。
それとも、もう夏はおしゃれどころではないと思いますか。
参考
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