好古・真之「初陣ぞな」、子規「次はロシアか?」【"坂の上の雲"を辿る #2】
「猿まね」と、西洋人はわらった。
しかし、当の日本と日本人だけは、大まじめであった。(中略)日本のこのおのれの過去をかなぐりすてたすさまじいばかりの西洋化には、日本帝国の存亡が賭けられていた。
「歴史小説"坂の上の雲"を辿って、その面白さを改めて体験しましょう」というシリーズ、【"坂の上の雲"を辿る #2】は、小説第二巻の内容をお届けします。主要人物がほぼ出そろって賑やかになる一方、いよいよ"列強"ロシアが日本に迫ります。また、二巻は日清戦争・威海衛の名場面のほか、実社会でも役立つ格言のオンパレードなので、ぜひ最後までお見逃しなく。
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2巻のあらすじ
日清戦争で、日本は勝利した。秋山好古と真之兄弟は、それぞれの戦場で近代戦闘のすさまじさを体感する。正岡子規は新聞「日本」に入社、従軍記者として戦場に赴くが、持病を悪化させてしまう。戦後真之は渡米し、自らの戦術理論を作り上げる。
一方領土野心に燃えるロシアは、日本への"三国干渉"で外圧を強め、遼東半島・満州を我が物にした。刻々と南下を進めるロシアと、朝鮮を防衛圏とする日本との緊張が高まりつつあった。
威海衛の戦い| 伊東祐亨と丁汝昌
海における日清戦争は、
世界初の近代海軍同士の海戦だった。
丁汝昌(ていじょしょう)率いる清・北洋艦隊。
対するは、
伊東祐亨(すけゆき)率いる日本・連合艦隊。
定遠・鎮遠を含む巨艦 対 速射砲有する快速艦。
"守り"の横陣 対 "攻め"の単縦陣。
老朽大国 対 新興小国。
黄海海戦の結果、
丁汝昌の北洋艦隊は敗れた。
残存艦は威海衛に逃れたが、これらも連合艦隊の魚雷・砲撃で壊滅した。
丁汝昌はなおも奮闘するが、清本国から救援されるどころか、責を押し付けられ処罰されてしまう。もはや、清軍の士気は統制できるものではなく、各艦長が水兵に白刃で脅され、反乱寸前だった。
丁汝昌「この汝昌を殺そうというならすみやかに殺せ。自分は身命を惜しむものではない」
「降伏はしない」と戦死覚悟の丁は部下たちを必死で説いたが、焼け石に水だった。
伊東祐亨「丁汝昌が可哀そうじゃ」
丁汝昌と親しかった伊東祐亨は、清艦隊への降伏文書の中で、本気で丁の身の心配を表した。
ー「我々は両国家を背負う敵同士となったが、閣下と私の友情は今も不変だと信じている」
ー「清の政治腐敗には同情する。貴国にも明治維新のような革新が必要だ」
ー「閣下の亡命は、日本武士道がうけあう。再び偉功をたてる日まで、伏して待つのだ」
ー「友の切なる言葉として、どうか聞き入れてほしい」
丁汝昌「伊東中将の友情には心打たれるが、私はみずからに従う」
丁は降伏を決意。
伊東に休戦を請い、
清側の艦船・砲台献上に加え、
以下を願った。
「戦闘員と人民を傷つけることなく、故郷に帰ることを許されよ」
伊東はこれを受諾し、ころ柿、シャンパン、ぶどう酒を贈った。
程なくして清の軍使から、丁からの謝辞の復書と、謹んで返上された慰問品が届けられた。
丁汝昌が、
毒をあおいで自害した知らせと共にー。
清国は丁の棺を故郷へ運ぶのにジャンク船(古式木造船)を用いようとしたが、伊東は
「アジアが誇る丁提督の棺を、ジャンク船で運ぶなどもってのほか」
と、最大の礼を尽くすよう命じた。
丁汝昌の棺と降伏した将兵たちは、
伊東の指示で手配された商船に乗り、故郷へ帰った。
秋山好古
・これが"騎兵"じゃ
「騎兵の特質はなにか」
言いおわると、かたわらの窓ガラスを拳固でつきやぶった。
ガラスがみじんにくだけ、その破片が好古の手を傷つけ、血を噴きださせた。
が、顔つきをすこしも変えず、「これだ」といった。
後年、陸軍大学校で講義した際のエピソード。
騎兵は、全体の戦局を的確に捉えた上で、
敵の弱点に奇襲をかけるという、天才が成し得る用兵術。(古くはチンギスハン、義経、信長 など)
敵に対して強大な打撃を与えるが、
全滅覚悟のリスクが伴う。
教育者・好古は、騎兵の難しい概念を教えるのに苦労したというが、その場の生徒たちはさぞドン引き、、いや、鮮明に理解したことだろう。
・泥酔の初陣・花見スタイル
「わしゃ旅順へゆけといわれているんじゃ。退却という命令はうけとらんけん、一歩も 退きゃせんぞな。去る者は去れ、わし一人でも旅順へゆくぞな」
好古の指揮スタイルは、
草むらに腰を下ろし、水筒の酒を飲みながら戦況をみるという、花見のような格好だ。(加えて、自身の指揮刀は竹光)
日清戦争で旅順方面を担当していた好古は、
劣勢でも「花見スタイル」のまま留まった。
小銃弾・砲弾の雨の中でも、顔色一つ変えなかった。
ついに退却となった際は、好古自らが殿(しんがり)を務めた。
「将がうろたえては、兵が萎縮してしまう」
ということだろうが、
─アノトキ秋山サンハ、酔ッパラッテイタノダ。
という噂が、戦後ささやかれたという。
なお、好古の出した旅順攻撃の意見書が、上記の"蛮勇"な男と同一人物かと疑われたほど、その戦略眼から見事な出来だった。
日清戦争での旅順要塞は、後日あっさりと陥落した。
「旅順は大した要塞じゃない」
というすり込みに至ったのも無理はない。
・日本租界名物「秋山見物」
北清事変後、日本租界での好古は、各国要人からたいへんな人気者であった。
日本領事、清国、フランスの「好古ファン」がしょっちゅう「秋山見物」と称して来訪し、好古も酒でもてなした。ある時、ドイツ将校が喧嘩沙汰で殴りこんできたときは、一緒にすき焼きと酒を楽しんで落着させた。
好古ファンの中には、
清の"梟雄(きょうゆう)"・袁世凱もいた。
好古は「まず食うため」に軍人になり、日本が勝つための自己教育の結果、豪傑の将となった。もし好古が軍人ではなく「外交官」を志していたなら、日本の歴史は違っていたのかもしれない。
・好古、ついに結婚
結婚できない男、
もとい、しない男が観念した。
「結婚すると、研究がおろそかになる」「古来、技術革新は独身の僧たちによって生み出された」「(先に結婚した同僚に対し)ばかなことをしたもんじゃ」などと、平素唱えていた好古だったが、ついに折れた。
好古35歳で、
相手は居候時代の旧旗本の娘・多美(24歳)。
「軍人は結婚するべきじゃない」
「負ければ死ぬ。だから妻子はいらない」
という好古の心情は、戦争が迫る空気の中で、悲しむ家族を生まないための優しさもあっただろう。
しかし、母お貞が松山から東京にやってきたこともあり、
「いいから信さん、早よ結婚おし」と執拗なプレッシャーがあったと想像する。
結果、好古は、
めでたく子煩悩となり果てる。
秋山真之
・読書マニア真之の「要点把握術」
真之「要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ。従って、物事ができる、できぬというのは頭ではなく、性格だ」
真之は読書マニアだったが、蔵書をほぼ持たなかった。
どんな名著でも、ほんの数行、要点を頭に入れたら処分してしまうのだ。
上司・島村速雄は真之を「戦術の天才」と称した上で、
見たり、聞いたり、万巻の書を読んで得た知識を、不要なものは大胆に切り捨て、必要なものだけを貯える。事あればそれが自然に出てくる。
と解説した。
戦闘中は、瞬時の判断が要る。
いちいち本で確認などできない。
本は情報量こそ利点の一つだが、
真之は「瞬時の判断」を優先目的とし、
日頃から要点以外を大胆に切り捨てる訓練を、自らに課した。
・固定概念(かきがら)
「たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底に"かきがら"がいっぱいくっついて船あしがうんとおちる。人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけの固定概念(かきがら)が頭につく。智恵だけ採って"かきがら"を捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」
(なにを言いだすのか) と、子規は見当がつかぬままに、うれしそうに聴いている。
将来のため、改革・改善を行おうとする者、それを妨げる者。
双方、この真之の言葉を暗唱してほしい。
(特に妨げる方々)
船が走るほど、船底にかきがらがこびりつく。
かきがらは、船速を数ノット平気で落とす。
海事に携わる組織なら、
なおのこと分かるはず。
正岡子規
・恩人・陸羯南に報い、薄給「日本」で才を発揮
「最少の報酬でもっとも多くはたらく人ほど、えらいひとぞな」
子規の文学癖は、大学でますます極まった。
しかしその反動で落第を繰り返し、
ついに大学を辞めてしまった。
恩人・陸羯南は「いいのさ」と責めず、子規を新聞「日本」社に入社させた。
特別扱いができない薄給だったが、
「小日本」編集、芭蕉解説の連載など、その才能を如何なく発揮した。
同郷の後輩にも、給料の高い新聞社より、
「"日本"におし」と安月給の「日本」を薦めた。
「一の報酬で十の働きをする人は、百の報酬で百の働きをする人よりえらいのぞな」
母お八重いわく、
生涯、子規はお金に困ったという。
・写生と小庭
「あし はこの小庭を写生することによって、天地を見ることができるのじゃ」
芭蕉の句を「巧みすぎておもしろくない」と評すほど、子規は「句を詠んだ瞬間、絵が浮かぶ」写実的な表現を好んだ。
ー須磨の灯か 明石のともし 時鳥(ほととぎす)
ー柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
「写生」こそ、子規のテーマだった。
従軍を機に持病が悪化した子規は、やがて根岸の家・子規庵の自室から出ることも叶わなくなった。六畳の間と小庭が、子規にとっての天地世界全てだった。
子規に言わせたら、たとえ小さな庭でも、木々・草花の営みを「写生」することで、いくらでも句ができるという。
病の激痛に耐えながらも、自らの五感と頭脳を研ぎ澄ませ、限られた最小の環境で、最大の創作物を生み出し続けた。
一方で世界を巡る真之に対しては、自身の境遇と対比させて、"思うこと"があったようだ。
真之が渡米の挨拶に正岡家を訪ね、いつものように二人で雑談して別れた後、子規は新聞に「真之米国行き送別の句」を載せた。
ー君を送りて 思ふことありて 蚊帳に泣く
大一番の決戦(責務)に臨む将兵の心得
・戦術を実施するのは頭脳ではない。"性格"である
ここで真之と好古の、大一番へ臨む心得を紹介したい。
真之「明晰 (めいせき)な目的樹立、そしてくるいない実施方法、そこまでのことは頭脳が考える。しかし、それを水火のなかで実施するのは頭脳ではない。性格である。平素、そういう性格をつくらねばならない」
真之「われわれ軍人のほとんどはナポレオンやネルソンではなく、平凡人にすぎない。平凡人であるがために、責任の重さにうちひしがれるという大弱点をもつ」
(だから、"兵棋演習"がよい)
知能明晰で豪勇な人でも、いざ重責の職についたら、プレッシャーに負けて実力を発揮できない。まして平凡な人間は、なおのこと重責に耐えられない。
真之は、米西戦争時にアメリカ軍が行っていた棋(コマ)による模擬実戦「兵棋演習」を、日本海軍に取り入れた。
軍人とは元来、平凡な人間がほとんど。(軍人に限らないが)
平凡な人間でも、模擬実戦を重ねることで、いざという時に動ける"性格"が鍛えられる。
実戦を含む数々の経験から、
人間の弱さを受け入れ、向き合った真之ならではの心得と工夫だ。
・おびえを乗り越え、悠々と仕事をさせていくものは"義務感"だけ
好古「いくさは、たれにとってもこわい。自然のおびえをおさえつけて悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけであり、この義務感こそ人間が動物とはことなる高貴な点だ」
一方の好古は、勇気をもって仕事に挑む人間がもつものは、高貴なる”義務感”とした。
食っていく、家族を養う、という目標を達成した今は、「天下国家のため」という"義務感"が、好古の戦場での原動力となっている。
外交官・小村寿太郎
「自分は国家だけに属している。いかなる派閥にも属しない」
あだ名は「ねずみ行使」。”関税自主権”、”ポーツマス条約”でお馴染みの外交官。
清の宰相・李鴻章を「ウドの大木」とディスり、伊藤博文・大隈重信含む要人たちを「落語家は替えが利かないが、こいつらは死んでも後継者がいる」と一蹴し、上司の"カミソリ"外務大臣・陸奥宗光を「ヘチマ(中が空っぽ)」と呼ぶなどと、キレッキレの毒舌家。
十代のころは、大隈重信のプロマイド写真("小村寿太郎くんへ"と自筆入り)を持っていた。伊藤博文の外交路線と方針を違えるが、小村にとって伊藤がある意味最大の理解者。
アメリカで真之と絡み、「日本がイギリスの”イロコワ族”にならざるを得ない」と日英同盟の布石を打った。
海軍"水雷屋"・広瀬武夫
「おれには嫁が多すぎてこまる」
海軍における、真之の盟友。同居や"餅食い競争"で、真之と親交を深める。豊後竹田(大分)出身。
この男も、独身主義者。彼にとっての嫁とは、海軍、柔道、漢詩。柔道については、講道館・嘉納治五郎から直接指導を受け、黒帯五人抜きの新記録を立てた実力者。自らの哲学は、素朴で簡潔な生き様(誰かと似ているような?)。
「学問がしたい」と父に上京を懇願するが叶わず、後に祖母の計らいで上京・海軍入りを果たした。以来おばあちゃん子となり、自分のふんどし一枚の裸写真を「お陰で丈夫な男児に育ちました」とメッセージ付きで祖母にプレゼントした。純粋で、優しくて、強いという、非の打ち所のない”よか男”。
海軍では「水雷屋」として成長。趣味であったロシア研究が実を結び、ロシア留学を命ぜられる。
近代造船技術に触れた人たち
・英国産の日本戦艦と海軍のホープ
「これはとほうもない記念写真になる」
「日本海軍のホープだ」
留学生時代、イギリスで真之と広瀬が合流。
二人は行動を共にし、英ヴィッカーズ造船所で戦艦「三笠」を見学。その後ポーツマス港で姉妹艦「朝日」の甲板で記念写真を撮った。世界最大の軍港、立っている場所は日本最大・最新鋭の戦艦、撮られている二人は「日本海軍のホープだ!(自称)」ということ。
——どうもこの連中は、のちの日本人よりも生涯のすがたや生き甲斐なりが単純で、その意味では幸福だったようにおもわれる。(司馬遼太郎 談)
・敵の軍艦を作った技師、桝本卯平(ますもとうへい)
桝本は造艦技術を習得すればよかった。ただその練習台が、(やがて敵となる)ロシア戦艦であるということだけが、めぐりあわせの奇妙さであった。
小村寿太郎に見いだされ、アメリカで造船技術を学んだ書生。その時に携わったのが、ロシアの主力艦「ワリャーグ」「レトウィザン」だった。「日本のスパイだろ?」と陰口を言われるも、淡々と技術を学び、仕事をやり遂げた。後に三菱造船所のエンジニアとなる。
・ピョートル大帝のお忍び造船体験
「ロシアの君主(ツァーリ)であることを、ひとに 洩らしてくれるなよ」
かつてのロシア帝国の巨人・ピョートル大帝は、経験主義の現実家だった。数学・航海術・銃造り・射撃法を自ら学び、専制君主の国政に活かした。「ロシアの造船技術はだめだ」と見るや否や、お忍びでオランダの造船所に潜り込み、いち職工として造船工事に参加するという"上様ムーブ"を見せる。(2メートルの長身だったので、帝王オーラを消せていたかは不明だが)
ロシア帝国|領土拡大野心を隠せない、専制君主国家
・対馬占領事件から始まる極東制覇の野心
「昼ヶ浦から芋崎までの土地を 租借 したい。このことはさきに英国からも将軍家にねがい出ている(筆者註・うそである)。江戸役人はロシアに好意的で、対馬藩さえよければといっている(筆者註・これもうそ)」
幕末、ロシア軍艦によって、対馬が不法占領される事件があった(ポサドニック号事件)。ロシア軍艦の陸戦隊は、日本人一名を射殺、二名を捕虜にして、周辺の村から金品・武器・家畜を強奪した。その後も一向に去らないロシアと対馬藩との交渉で、ロシアは上のように述べた。幕府交渉役は名臣・小栗忠順だったが、相当頭を抱えたことだろう。威圧また威圧、噓八百、条約無視、常に上から、我が方のみ正論、開き直る、キレ散らかす異国人との交渉ほど、難儀なものはない(経験談。今も横行中)。
後日、イギリスが介入するとロシア側は形勢不利とみて退去したが、危うく対馬がロシア領土になるところであった。
・憂鬱の大蔵大臣、ウィッテ
「遼東半島を強奪したことが、ロシアの呪われた運命の第一歩だった。私のみがそれを知っていた」
「ロシアにとって百害あって一利なし」と日本との戦争に反対した、財政と外交に明るいロシアの大蔵大臣。皇帝含むウィッテ以外の閣僚は、日本を刺激する南下政策に遠慮がないものだから、ひとり憂鬱な日々を送る。三国干渉で清に返還された遼東半島を、ロシアが露清条約を無視して強奪すると、「没落への第一歩」といよいよ悲観モードに突入した。
・皇帝ニコライ二世、不運の大津事件
「戦争はありえない。なぜならば、私が戦争を欲しないから」
ロシア皇帝・ニコライ二世が皇太子の時代、
日本訪問・観光の折に、警備の巡査からいきなり刀で切りつけられ、大ケガを負った(大津事件)。「大国ロシアの報復」に日本は震えあがり、ロシア公使館に一万通以上の陳謝状が届き、全く関係のない女性が詫びの思いで短刀自殺し、ある村で「新生児に犯人と同じ名前をつけるな」と決まりができるなど、ロシアもびっくりの奇行が横行した。
大津事件の因縁もあり、ニコライ二世は、
日本人を公文書で「猿」と書くほど軽蔑した。(そりゃそうだ)
この不運の皇帝は、領土拡大の野心を燃やす一方で、「日本との戦争はない」とも確信していた。
ー日本(猿)にロシアと戦う力などない。
ー言う事を聞かないなら、威圧すれば足りる。
ー戦争は、あくまでロシアが決める。
ーつまり、私(皇帝)が戦争を欲しない限り、起こりっこないのだ。
<#3へ続く>
シリーズ各記事はこちら
明治「日本」が主人公|実は”挫折”されがちな名作歴史小説【"坂の上の雲"を辿る #0】
最初からワクワクが止まらない|誰もが"坂の上"を目指してよかった時代【"坂の上の雲"を辿る #1】
おまけ|諸説あります。小説だもの
ニコライ二世の「猿」呼びは諸説あるそうですが、これに限らず、本シリーズはあくまで"小説"の世界観を重んじ、吉川・横山三国志のようなフィクションありきの"小説準拠"ということにします。
おまけ|「余談は不要ぞな」
もし真之に「坂の上の雲」の感想文を頼んだら、数行でまとめくれるだろう。
