【第3章】 第56話

【第3章】第56話 血の道


——王都外縁。

人の喧騒から離れた、
静かな湖畔の屋敷。

王城からも距離を置いたその場所は、
今ではセラフィナとルナミナの拠点となっていた。

夜風は穏やかだった。

初夏に近い季節。

本来ならば、
冷気など存在しないはずの夜。



——ゴォン……

遠く。

海の底から響くような鐘の音。

その瞬間だった。

ぴき。

湖面へ、小さな白い線が走る。

「……あ」

ルナミナが目を丸くした。

次の瞬間。

ピキピキピキピキ——!!

巨大な亀裂が、
湖全体へ一斉に広がっていく。

まるで。

見えない“道”でも刻まれていくように。



空気が、静まる。

風が止む。

波が止む。

音が消える。

そして——

さらさらと。

光の粒子が夜空へ舞い始めた。

「……綺麗」

ルナミナが思わず呟く。

ダイヤモンドダスト。

だが。

その光景は、
美しすぎるが故に異常だった。

初夏の夜に、
存在していい現象ではない。



セラフィナは、
静かに海の方向を見つめていた。

銀色の長髪が、
凍りつくような冷気の中で揺れる。

その足元から、
白い霜がゆっくりと広がっていく。

ぴしり。

草木が凍りついた。

ルナミナが、
小さく肩を震わせる。

「……お姉ちゃん?」

返事はない。

ただ。

セラフィナの周囲だけ、
世界の温度が失われていた。



ぴこん。

空間に、
半透明の魔法ログが展開する。



【観測領域異常】

深海域にて未定義干渉発生

血脈接続反応:
検出

判定:
未完了



「……血の道」

セラフィナが、小さく呟く。

その声には、
僅かな緊張が混じっていた。

「お父様が、まだ触れている……?」

だが。

違和感があった。

これは、
王都で感じていた“整地”とは違う。

もっと深い。

もっと濁った、
何か。

「……整っていない」

セラフィナの瞳が、
静かに細められる。

その瞬間。

湖面へ、
さらに大きな亀裂が走った。

ピキィィィ——!!

凍結が一気に広がる。

まるで、
世界そのものを停止させるように。



「ふぅん?」

背後から、
愉しげな声が響いた。

真紅と黒。

圧倒的な存在感を纏った女。

ルクレッツィア。

「随分派手にやってるじゃない」

ルナミナが、
ぱっと振り返る。

「お姉様」

ルクレッツィアは、
静かに湖を見つめた。

凍りついた湖面。

夜空を漂うダイヤモンドダスト。

初夏とは思えない冷気。

そして——

セラフィナ。



「……ふぅん」

ルクレッツィアが、
静かに目を細める。

笑っている。

だが。

その赤い瞳だけは、
僅かに警戒を滲ませていた。

「それ、少し危ないんじゃない?」

セラフィナは答えない。

ただ静かに、
海の方向を見ている。



——ゴォン……

再び。

深海から響く鐘の音。

その瞬間。

セラフィナの周囲の冷気が、
さらに強まった。

ぴしり。

足元の石畳までもが、
白く凍りついていく。

ルナミナが、
小さく息を呑んだ。



ルクレッツィアの笑みが、
ゆっくりと消える。

珍しく。

本当に珍しく。

彼女は、
警戒するように海を見た。

「……ねぇ」

静かな声。

「海になにがあるの?」



「さあ」

セラフィナは、
淡く笑った。

「少なくとも——
お父様が見ているものよ」

その一言で。

ルクレッツィアの表情から、
完全に笑みが消えた。



ルナミナは、
動けなかった。

姉が怖いのではない。

姉の向こう側にいるものが、
怖い。

幼い頃から植え付けられた圧。

逆らえば壊される。

間違えれば捨てられる。

その恐怖が、
今も身体の奥に残っている。

ルクレッツィアが側からいなくなった今でさえ、
その鎖は消えない。



「ルナミナ」

セラフィナの声は、
氷のように静かだった。

けれど。

その手は、
驚くほど優しかった。

「ルクレッツィアの思う壺よ?」

「……セラフィナお姉様」

「ええ」

セラフィナは、
静かにルクレッツィアを見た。

「ルクレッツィアが一番恐れているものを考えなさい」

「恐れているもの?」

「お父様の無関心よ」

ルナミナが、
きょとんと目を瞬かせる。

「無関心なんて、
いつものことじゃないの?」

その瞬間。

セラフィナが、
小さく笑った。

ほんの僅か。

凍った世界の中で、
それだけが柔らかかった。

「そこが、あなたの強みよ」

「……え?」

「あなたは最初から、
愛される事を期待していない」

セラフィナは、
そっとルナミナの頭を撫でた。

「だから見えるものがある」

そして。

震える身体ごと、
静かに引き寄せる。

「大丈夫」

耳元で、
小さく囁く。

「もう、一人じゃないから」



ルナミナは、
何も言えなかった。

ただ。

セラフィナの服を、
小さく握る。

遠く。

再び鐘の音が響く。

——ゴォン……

その音は、
海から聞こえているはずなのに。

ルナミナには、
まるで鎖が軋む音のように聞こえた。
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