【外伝】新たなる川逃れのままに
【外伝】新たなる川逃れのままに
数日後。
帝国の宮廷に、一通の正式な国書が届いた。
封蝋には、アレクセイ王国の王家の紋章。
開封した筆頭執務官は、静かに書状へ目を落とした。
読み進めるにつれ、その眉がわずかに動く。
そして最後の一文まで目を通したところで、小さく息を吐いた。
「……王よ」
執務机に向かっていた皇帝が顔を上げる。
「どうした」
「王国より正式な国書にございます」
その一言で、室内の空気がわずかに変わった。
皇后は紅茶のカップを静かに受け皿へ戻す。
「内容は?」
執務官は一礼すると、淡々と読み上げた。
「――第一王女エレオノーラ殿下と、アレクセイ国王陛下との婚礼儀式を執り行う」
一瞬の静寂。
「その際、帝国皇帝陛下、皇后陛下、第二王女リリアナ殿下、ならびに英雄タクティス候を正式なる賓客としてご招待申し上げます」
読み終えた執務官は書状を閉じた。
「……以上です」
誰も口を開かなかった。
やがて皇帝が低く呟く。
「……呼ぶのか」
皇后は静かに目を細めた。
「ふふ……」
その笑みは穏やかだったが、どこか冷たい。
「いいですわね。」
「ここまで参りますと、もはや外交というより……教育ですわ。」
皇帝が嫌な予感を覚えたように眉を寄せる。
「教育……か?」
「ええ。」
皇后は紅茶を一口含み、ゆっくりと言葉を続けた。
「私たちが切り捨てたものが、どのように扱われるのか。」
「この目で見せていただくのです。」
皇帝は小さく肩をすくめる。
「……リリアナを呼べ。」
命令は短く落とされた。
帝国の威信を示すための準備が、静かに動き始める。
その様子を眺めながら、皇后はふと思い出したように呟いた。
「そういえば……持参品の目録は、エレオノーラには渡しておりませんでしたわ。」
一拍置き、その瞳が細くなる。
「ですから、王国側が全て整えるでしょう。」
皇帝は首を傾げた。
「それがどうした?」
皇后は静かに笑う。
「帝国がどう見られるかではありません。」
「王国が、あの子をどう扱うのか。」
カップが静かに音を立てた。
「楽しみですわ。」
「切り捨てたものが、どのような価値を持っていたのか――その答え合わせになりますもの。」
それは教育ではない。
己が捨てた現実を、突き付けられる時間だった。
◇
婚礼当日。
帝国一行は王都へ到着した。
皇帝。
皇后。
第二王女リリアナと、その夫である英雄タクティス。
そして数名の侍従たち。
当然のように、皇帝は正面玄関で国王自らが迎えるものと思っていた。
しかし現れたのは礼装姿の文官だった。
「遠路お越しいただき、ありがとうございます。」
「婚礼の準備が整うまで、来賓控室にてお待ちください。」
それだけだった。
皇帝は一瞬だけ眉をひそめる。
「……国王は?」
文官は微笑みを崩さない。
「本日の主役は、新郎新婦にございます。」
「陛下は現在、ご婚礼の最終確認をなさっております。」
その一言で話は終わった。
皇帝も、皇后も、第二王女夫妻も。
全員が同じ控室へ案内される。
誰一人として特別扱いされない。
控室の扉が閉まると、リリアナが不満げに口を開いた。
「何なの、この扱い。」
「帝国の皇帝陛下がお越しになっているのよ?」
皇后も静かに周囲を見回す。
「歓迎の宴もありませんのね。」
「少々、礼を欠いておりますわ。」
侍従の一人が頷く。
「新婦の両親を招いたとは思えぬ待遇にございます。」
その言葉にタクティスだけが静かに目を閉じた。
(違う。)
(歓迎されるために来たのではない。)
(今日は婚礼だ。)
(主役はエレオノーラ殿下と国王陛下。)
(我々ではない。)
そう理解しているのは、この部屋で彼一人だった。
しばらくして案内役が現れる。
「お待たせいたしました。」
「婚礼会場へご案内いたします。」
誰も先導されることに異を唱えられなかった。
◇
荘厳な鐘の音が響く。
大広間の扉が、ゆっくりと開いた。
静寂。
誰もが息を呑む。
ゆっくりと姿を現したのは――エレオノーラだった。
純白を基調とした正装。
王家に伝わる刺繍。
陽光を受けて輝く王冠。
胸元を飾る宝飾。
どれ一つとして妥協がない。
その姿は、側室ではない。
一国の第一王女にふさわしい気品そのものだった。
帝国側の席から、小さなどよめきが起こる。
「……あれは。」
「王家の正装……。」
「あの宝飾……帝国でも見たことがない……。」
侍従たちが顔を見合わせる。
「持参品を……完全に上回っている。」
皇后も言葉を失った。
(ここまで……。)
王国は、帝国が与えなかったものを。
何一つ責めることなく。
何一つ見返りを求めることなく。
当然のように用意していた。
その姿に、誰より驚いていたのはリリアナだった。
(どうして……。)
(お姉様が……。)
(あんな……。)
彼女は初めて見た。
帝国では一度も見たことのない、穏やかな笑顔を浮かべる姉の姿を。
司祭が高らかに宣言する。
「本日、我が王国は、エレオノーラ王女殿下を王家の一員として迎え入れることをここに宣言いたします。」
その一言が、会場中へ静かに響き渡る。
“側室”という言葉は、一度も使われなかった。
帝国が「政略の駒」として送り出した王女を。
王国は”家族”として迎える。
その事実だけで十分だった。
続いてコレットが一歩前へ進み出る。
侍女が恭しく運んできた箱を開く。
中には、王家の女性へ代々受け継がれてきた首飾り。
王家の証。
コレットは自らそれを手に取り、エレオノーラの首元へ優しく掛けた。
「ようこそ。」
「アレクセイ王家へ。」
その声は王妃としてではない。
一人の家族として迎える温かさに満ちていた。
会場は静まり返る。
皇后の顔色が初めて変わる。
(そこまで……。)
帝国では決してあり得ない光景だった。
リリアナは呆然と姉を見つめる。
(……お姉様。)
(そんなふうに笑える人だったの……。)
帝国では見たことのない、心から安らいだ笑顔。
それが何より胸に刺さった。
しかし、その穏やかな空気は長くは続かなかった。
◇
婚礼が終わり、祝福の拍手が広がる。
その輪の外。
帝国から付き従ってきた侍従の一人が、小さく拳を握った。
「リリアナ殿下は……」
「姉上に恥をかかせろ、と仰っていた。」
その言葉だけが頭の中で繰り返される。
やがて懐から一本の短剣を抜いた。
(婚礼さえ終わらなければ。)
(あの王女さえいなくなれば。)
次の瞬間。
侍従が一直線に飛び出した。
「お覚悟!」
悲鳴が上がる。
だが。
「甘い。」
コレットが半歩踏み込む。
その一歩だけで間合いが崩れる。
短剣が空を切った。
同時にエレオノーラも動く。
王国へ来てから積み重ねた鍛錬。
剣ではない。
武でもない。
ただ相手の重心を見極める。
一歩。
半身になる。
短剣をかわす。
さらに腕を取り、そのまま体勢を崩した。
侍従は床へ叩き伏せられる。
短剣が乾いた音を立てて転がった。
会場が静まり返る。
コレットは侍従を見下ろした。
「王家の婚礼を汚すとは。」
「愚かな。」
衛兵が一斉に取り押さえる。
侍従はなおも叫んだ。
「私は間違っていない!」
「リリアナ殿下のため!」
「婚礼を止めろと!」
「姉に恥をかかせろと!」
「だから私は!」
会場の空気が凍り付く。
「ち、違う!」
リリアナが青ざめて立ち上がる。
「私はそんなこと命じてない!」
「少し困らせればいいって……。」
途中で言葉が止まる。
自分で気付いた。
その軽率な一言が、この事件を生んだのだと。
その時だった。
「黙れ!!」
雷鳴のような怒声。
英雄タクティスだった。
彼は侍従を睨みつけ、そのまま帝国側を振り返る。
「どこまで腐れば気が済む!」
「婚礼の席で暗殺未遂など!」
「帝国の名をこれ以上穢すな!」
皇帝も皇后も何も言えない。
タクティスはゆっくりとエレオノーラの前へ歩み出る。
そして深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。」
「帝国を代表して、お詫び申し上げます。」
エレオノーラは静かに首を振った。
「英雄殿が謝る必要はありません。」
「これは、私が帝国にいた頃から流れていたものなのでしょう。」
その言葉に、タクティスは苦しげに目を閉じる。
コレットが静かに口を開いた。
「謝罪は受け入れます。」
「ですが、この子はもう王国の家族。」
「二度と傷つけさせはいたしません。」
アレクセイ王も頷く。
「犯人の身柄は王国が預かる。」
「異論はあるまい。」
皇帝は何も答えられなかった。
◇
帰路の馬車。
誰も口を開かなかった。
重苦しい沈黙だけが流れる。
やがて皇帝がぽつりと漏らす。
「……高くついたな。」
皇后は静かに窓の外を眺めながら答えた。
「いいえ。」
「私たちは今日、ようやく知ったのです。」
「失ったものの価値を。」
その言葉に反論する者はいなかった。
一方、別の馬車。
タクティスは帝国一行とは距離を置いて座っていた。
窓の外へ視線を向け、小さく呟く。
「……もう、庇いきれん。」
その声に応える者はいない。
帝国は、一人の王女を失っただけではなかった。
信頼も。
誇りも。
英雄の心すらも失ったのである。
王国へ嫁いだあの日。
一滴の優しさが落ちた。
その一滴は静かに流れを変え、やがて大きな川となって、帝国という国の歪みを映し出していく。
――新たなる川逃れのままに。
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