【第5章】 第101話
【第5章】第101話 前提が違う
朝の王城は、いつも通り整っていた。
整いすぎているほどに、静かだった。
その静けさの中心に、第一王子アレクシスはいた。
「クラリス嬢は?」
何気ない声だった。
だが、周囲の空気が一瞬だけ引き締まる。
侍従が即座に答える。
「現在、シュバルツ邸より登城途中かと」
「そう」
それだけで終わる会話だった。
普通なら。
だが、アレクシスは少しだけ首をかしげた。
「少し遅いね」
「……いえ、予定通りですが」
「そうなんだ」
穏やかに微笑む。
その表情には、苛立ちも焦りもない。
ただ“事実の確認”だけがあった。
「なら問題ない」
そう言って、また書類に視線を落とす。
誰も疑わない。
誰も止めない。
だが、その場にいた侍従の一人だけが、なぜか小さく息を飲んだ。
(……今の、“遅い”は)
(誰基準だ?)
その疑問は、口に出る前に消える。
アレクシスは、何事もなかったように続けた。
「クラリス嬢の席は、いつも通りでいいよ」
「はい、殿下」
「少しでも動線が乱れると困るから」
さらりと言う。
それは配慮のようでいて。
どこか、“既定事項の確認”に近かった。
窓の外で、朝の光が差し込む。
アレクシスはそれを眺めながら、ふと小さく呟いた。
「今日も、うまくいくといいね」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、その言葉の中には一つだけ明確な前提があった。
――“うまくいく”のは、当然クラリスが来る世界のことだ。
⸻
王城へ向かう馬車の中は、静かだった。
その静けさは、落ち着きではない。
どこか“慣れ”に近いものだった。
クラリスは窓の外を見ている。
流れていく景色に、意識を預けるように。
(また、王城……)
その言葉はもう、驚きではない。
ただの予定の一つ。
それでも胸の奥が重いのは、別の理由だった。
クラリスは指先を軽く握る。
(どうして、私なの)
王家からの縁談。
それ自体は貴族として異常ではない。
むしろ、誇るべき話だ。
――普通なら。
だが、シュバルツ家は“普通”の家ではない。
クラリスはふと、遠い記憶を思い出す。
十歳の冬。
水晶竜の事件で、両親が行方不明になった。
「帰ってくる」と信じて待っていた時間。
その後に押し寄せた現実。
家の整理。
領地の維持。
周囲の視線。
そして――
“大人の都合”が、当たり前のように入り込んでくる世界。
(あの頃からずっと、そうだった)
守られる子供ではいられなかった。
だが、それでも。
兄がいるはずだった。
年長の後継者。
家を支える中心。
普通なら、まずそちらに話が行く。
――それなのに。
今回、最初に名前が出たのはクラリスだった。
(なんで私?)
理屈ではない疑問が、ずっと引っかかっている。
“適任だから”ではない。
“扱いやすいから”でもない。
ただ、そこに置かれた。
そういう感覚だけがある。
馬車が揺れる。
王城が近づく。
それは栄誉ではなく、ただの到着地点だった。
クラリスは小さく息を吐く。
(お兄様のほうが、まだ現実味あるのに)
そう思ってしまう自分が、少しだけおかしかった。
その言葉はもう驚きではない。
ただの予定の一つ。
それでも胸の奥が重いのは、理由がある。
王城そのものではない。
“そこにある場所”だ。
クラリスは指先を軽く握る。
(あそこ、もう私の場所じゃない)
かつて使っていた図書館の一角。
静かで、誰にも邪魔されないはずだった執務室。
いつの間にか、それは“第一王子の執務空間”として扱われていた。
誰かが奪ったわけじゃない。
誰かが押し出したわけでもない。
ただ当然のように、整えられていった。
(あれが一番嫌い)
“使いやすいから”“効率がいいから”
そういう理由で、境界線が消えていく感じ。
拒否する理由すら綺麗に潰されていく。
⸻
王都の屋敷では。
「はあ…………⁈」
ヴィクトルの深いため息が落ちる。
空気が一瞬で重くなる。
その前でグレアムは、机に突っ伏す寸前で必死に姿勢を保っていた。
「まさか、執務を戻した瞬間にこの仕打ちとは」
「いや、仕打ちっていうかだな……」
グレアムは言いかけて止める。
これ以上言うと確実に燃える。
ヴィクトルは書類を軽く弾いた。
「魔法庁の遅延案件処理のために、一度戻したはずだ」
「ああ……引き継ぎは問題ないはずだった」
「“はず”が多い」
「すみません……」
父親の威厳は地に落ち。沈黙が広がる。
ヴィクトルは息を吐いた。
「で、何が追加された」
こちらも父親に対する言葉遣いでは既にない。
グレアムは書類を差し出す。
「王城から追加案件だ。」
「誰経由だ」
「……第一王子殿下になる」
空気がわずかに変わる。
ヴィクトルの手が止まる。
一拍。
「内容は」
書類を受け取り、一瞥する。
眉がわずかに動いた。
「……“クラリス嬢関連動線の再調整”?」
「はい」
沈黙。
短いが重い。
グレアムが補足するように言う。
「王城内の執務導線整理の一環としての指示だ」
ヴィクトルは鼻で笑う。
「便利な言葉だな、“一環”というのは」
書類をトントンと揃える。
「つまり、王城内部で彼女の行動経路を固定したと」
「……結果としては、そうなる」
再び沈黙。
ヴィクトルは窓の外へ視線を向ける。
「合理性は正しい。だが、人間に適用すると歪みになる」
「殿下はそれを“歪み”とは見ていないだろう」
「そうだろうな」
短く返す。
その声には怒りよりも、理解の方が強い。
理解しているから厄介だ。
「本人は気づく」
ヴィクトルがぽつりと言う。
グレアムが眉をひそめる。
「クラリスが気づくか?」
「自分の居場所が、静かに再配置されていることにな」
そして一拍。
「それをやっているのが誰かも」
名は出ない。
出す必要もない。
もう答えは固定されている。
ヴィクトルは小さく舌打ちした。
「面倒な最適化だ」
「だが、クラリスがそれを素直に聞くような妹ではない」
ヴィクトルは書類を置き、短く息を吐いた。
「……まだ、誰も気づいていないな」
グレアムが視線を上げる。
「何に、気づいてだ?」
「溝じゃない」
ヴィクトルは窓の外を見る。
王城の方向を。
「すでに、もう“前提”が違うことにだ」
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