【第5章】 第100話
【第5章】第100話 善意の爆弾
※イラストは、AIが生成しています。
黒曜城の拉致監禁事件から、一カ月。
その日常は、すでに“戻ったようで戻っていない”形をしていた。
廊下を駆ける足音が、静かな城内に響く。
「真琴ーー! 手紙きた!」
クラリスの声が、やや上ずっていた。
息を切らしたまま真琴の部屋の扉を開ける。
――しかし。
「……あれ? 居ない!」
空っぽの室内に、拍子抜けした声が落ちる。
その直後、廊下の反対側から歩いてきたメイドが、淡々と答えた。
「真琴様ですか? 先ほどヴィクトル様とご一緒に」
「お兄様が? じゃあ魔法庁かしら……」
クラリスが首をかしげた、そのときだった。
「クラリス。図書館から戻ってきたのなら、少し手伝ってちょうだい」
背後から、母エマの声。
呼ばれて振り返ったクラリスの視線は、まだどこか落ち着かない。
「お父様は?」
その問いに、エマはほんの一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「お父様はお城よ。王様が離さないの、わかってるでしょう」
――その一言に、今のこの国の“異様な日常”が滲む。
⸻
玉座の間は、妙に穏やかだった。
重苦しい議題が続くはずの会議の空気にしては、どこか拍子抜けするほどに。
その中心で、国王は上機嫌だった。
「ふむ……ようやく一段落ついたな、グレアム」
「はあ……そうでございますな」
グレアムは、慎重に相槌を打つ。
その目は、王の“次の一手”を警戒していた。
――こういう時の陛下は、だいたい碌でもない。
案の定だった。
王は、軽く顎をさすりながら言う。
「実はな、グレアム。もう流石に第一王子を一人にしておくわけにもいかなくてな」
「……と、申しますと?」
「対外的にな。貴族どもがうるさくて敵わんのだよ。後継の話となれば、皆口を出したがる」
「それは……まあ、当然でしょうな」
「うむ。そこでだ」
王は、ここで一度、妙に楽しげに目を細めた。
――嫌な予感が、確信に変わる瞬間だった。
「本人に確認したところだな、“気になる娘がいる”と言うではないか!」
「……ほう」
「立場的にも問題のない娘だ。これ以上ないほどに綺麗に収まる話だと思わんか?」
グレアムは、反射的に頷いてしまう。
「ええ、それは確かに。であれば、話を進めるべきでしょうな。私も協力は惜しみません」
「おお! おお! さすがグレアム!」
王は満面の笑みで身を乗り出した。
「では婚約までの道筋、整えてくれるか?」
「陛下の意向のままに。……ところで、お相手の令嬢はどちらのご息女で?」
その瞬間。
王の口元の笑みが、ほんの少しだけ“深く”なった。
「シュバルツ家のクラリス嬢だ。よろしく頼む」
一拍。
空気が止まった。
グレアムの表情から、音もなく血の気が引く。
「……………………は?」
王はそんな反応を見て、さらに楽しそうに目を細める。
「いやぁ、良い娘だな。明るいし、肝も据わっている。王妃向きだと思わんか?」
「……陛下」
「うむ?」
「今、なんと?」
「だからクラリス嬢だと言っただろう」
にこにこ、と。
まるで世間話の続きのように。
王は何一つ悪びれずに、そう言った。
⸻
シュバルツ邸にグレアムが帰ってきた時
その蒼白、憔悴しきった様子に
出迎えた執事のアスターや奥方のエマたちは、
医師を呼んだほどだった。
だが、勿論ベッドに横になる事を拒み、
執務室にクラリスを呼んだ。
シュバルツ邸の門をくぐった瞬間から、異様だった。
馬車から降りたグレアムの顔色は、すでに死人に近い。
迎えに出た執事アスターが思わず一歩引くほどに、その足取りは重い。
「……旦那様?」
「問題ない」
即答だった。
だが、問題しかなかった。
「医師をお呼びしましょうか」
「必要ないと言っている」
その声だけは、いつも通りのはずだった。
――しかし中身が死んでいる。
玄関ホールに入ると、奥方エマが駆け寄ってくる。
「あなた!? どうしたの、その顔色……!」
「大事ない。少し……想定外の案件がな」
「想定外って……」
言いかけたエマの言葉は、途中で途切れた。
グレアムはすでに踵を返していた。
「クラリスを呼べ」
その一言に、空気が変わる。
「……今?」
「ああ、今だ」
執事が不安げに頷き、足早に廊下へ消えていく。
⸻
執務室。
グレアムは椅子に座っていなかった。
立ったまま、机の縁に手を置き、じっと一点を見ている。
思考は、完全に崩壊していた。
(なぜだ)
(なぜ、よりにもよって“そこ”を選ぶ)
王の顔が脳裏に浮かぶ。
にこにこしていた。
あの、心の底から愉快そうな顔。
――悪意ではない。
それが最悪だった。
悪意ならまだよかった。
これは“善意の爆弾”だ。
(第一王子)
(あの子は……クラリスが“苦手としている相手”だ)
知っている。
グレアムは知っている。
クラリスがあの王子に対して抱いている感情は、好意の対極にある。
礼儀として接することはできる。
だが、心は決して近づかない。
それでも。
それでもだ。
(婚約?)
(王妃?)
(冗談ではない)
喉の奥で、乾いた笑いが漏れそうになる。
――国王は本気だ。
しかも最悪なことに、“筋”は通っている。
王子が望み、国が望み、家柄も問題ない。
止める理由が、表面上どこにもない。
だからこそ質が悪い。
(私が止めれば、政治問題になる)
(受け入れれば、娘の人生が詰む)
どちらも地獄だ。
⸻
扉がノックされた。
「お父様?」
クラリスの声だった。
グレアムは、一度だけ目を閉じた。
(……来たか)
「入れ」
扉が開く。
クラリスは少しだけ首をかしげている。
「なに? こんな時間に呼び出すなんて」
いつも通りの顔。
まだ何も知らない顔。
その“無垢さ”が、逆に刺さる。
グレアムは数秒、言葉を探した。
そして――選んだのは、回りくどい前置きだった。
「クラリス」
「うん?」
「少し……重要な話がある」
クラリスの表情がわずかに引き締まる。
その反応を見て、グレアムの胃がさらに痛む。
(違う)
(この入り方も違う)
だが戻れない。
もう、王は動いている。
「王城から……正式な話があった」
「……正式?」
クラリスの眉が寄る。
嫌な予感が、すでに表情に出ている。
グレアムは、そこで一度だけ息を吐いた。
「第一王子殿下に……“婚約の意向”がある」
沈黙。
クラリスの瞳が、ゆっくりと瞬きをした。
「…………誰と?」
その問いは、静かだった。
静かすぎて、逆に重い。
グレアムは、目を逸らした。
「……シュバルツ家の令嬢だ」
クラリスの表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
そして。
「は?」
短い声だった。
理解が追いついていないのではない。
理解したくない速度だった。
グレアムは拳を握る。
(すまない)
(すまないクラリス)
だが、口は止まらない。
「陛下の意向だ。すでに話は進み始めている」
「待って」
クラリスの声が少しだけ強くなる。
「それ、冗談よね?」
その問いに。
グレアムは――首を横に振った。
⸻
空気が、完全に沈んだ。
グレアムの言葉が落ちたあと、部屋の空気は完全に止まっていた。
「……冗談、よね?」
クラリスの声は、かすかに震えていた。
だがそれは恐怖ではない。
納得できない現実に対する拒絶だった。
グレアムは、ゆっくりと首を横に振る。
その動作だけで、全てが確定する。
「……っ」
クラリスは一歩後退した。
「なんで……よりによって」
言葉が途中で途切れる。
頭の中で何かを必死に組み立てているのが分かる。
だが、うまく形にならない。
「お兄様じゃなくて……私?」
「……そうだ」
その瞬間、クラリスの表情がわずかに歪む。
怒りではない。
もっと厄介なもの。
理解不能な“拒否反応”。
「無理」
即答だった。
「絶対に無理」
グレアムの胸が一瞬だけ軽くなる。
(だが問題はそこではない)
クラリスは続ける。
「だってあの人、私の話聞かないじゃない」
「……」
「こっちが何言っても、全部“正しい形”に戻してくる感じがするの」
「……クラリス」
「しかもあの目」
そこで一瞬、言葉が止まる。
「……全部“予定通り”にされる目」
グレアムは黙るしかなかった。
否定できない。
むしろ、それが王族としての“適正”でもある。
だがクラリスにとっては違う。
「怖いとかじゃないの」
クラリスは小さく息を吐いた。
「……気持ち悪いの」
その言葉に、執務室の空気がさらに沈む。
グレアムは目を閉じる。
(……やはりか)
最悪の相性だ。
能力でも立場でもなく、“感覚”の問題。
ここは政治でどうにもならない領域だった。
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