【第八話】 月下の痕跡と末妹
第八話 月下の痕跡と末妹
王都南区画。
――先ほどの“黒”の痕跡を追って。
ヴィクトルたちは、人気の消えた路地へと足を踏み入れていた。
昼間の喧騒が嘘のように、夜の路地は静まり返っている。
だがその静寂は、“安らぎ”ではない。
ただの――空白だ。
「……人払いがされていますわね」
クラリスが小さく呟く。
「意図的だな。隠蔽か、あるいは恐怖による自発的回避」
ヴィクトルは足元に視線を落とした。
石畳の隙間に、黒ずんだ染みがある。
乾いているはずなのに、どこか“粘る”ような質感。
わずかに脈打っている。
遅れて、じわりと広がる。
まるで“生きている”かのように。
「血液……ですが」
クラリスがしゃがみ込む。
「通常の変質ではありませんわ。魔力に侵食されています」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……いいえ。これは“侵食”ではなく――」
視線が鋭くなる。
「置き換えられています」
「汚染型だな。ただし――」
ヴィクトルは指先でわずかに触れ、すぐに離す。
「制御が甘い。漏れ出ている」
視線を巡らせる。
壁面、地面、そして――
「引きずられた痕跡」
その先――空白になった地点で、気配が途切れている。
まるで“歩き出した”かのように。
クラリスの表情が、わずかに引き締まる。
「……人が、変質している可能性」
「高いな」
真琴は、言葉を失った。
“壊れている”のではない。
“人だったものが、別の何かに置き換えられている”。
理解が、遅れてやってくる。
――これ、元に戻るの?
空気が、静かに変わる。
⸻
カツ、と乾いた音が響いた。
二人は同時に顔を上げる。
路地の奥。
月光の中に、“それ”は立っていた。
人の形をしている。
顔の形は残っている。
だが、目が合わない。
焦点が存在しない。
口元が、遅れて開く。
――声にならない“何か”を漏らしながら。
「……遅い」
低く、濁った声。
次の瞬間、影が弾けた。
「来ます!」
クラリスが叫ぶ。
異形と化した“それ”は、地面を蹴り、あり得ない速度で迫ってきた。
腕が裂け、黒い瘴気を纏っている。
理性は――ない。
「……対象の確保は」
クラリスが一瞬だけ呟く。
その声は冷静だった。
だが。
「不可能だ」
ヴィクトルは首を振る。
「戻せる段階を過ぎている」
即座に切り捨てるしかない状況。
「崩壊が先行している」
(同意も何もない状態だな)
一歩も退かない。
突進してきたそれの軌道を、わずかにずらす。
すれ違いざまに、短く呟く。
「構造が破綻している。維持できていない」
次の瞬間――
内部から、破裂した。
ぐしゃり、と音を立てて崩れ落ちる。
「……っ」
思わず、真琴の足が止まる。
見てはいけないものを見ている感覚。
それでも――目が逸らせなかった。
崩れたそれの断面から、黒が“遅れて”滲み出す。
地面に触れる前に、這うように広がった。
まるで――まだ、増えようとしているかのように。
クラリスが浄化の術式を展開する。
淡い光が、黒い残滓を押し流していく。
「……あまりにも粗雑ですわ」
「実験段階にも達していない」
クラリスの視線が、一瞬だけ揺れる。
(……生体観察は、成立しませんわね)
だがすぐに、感情は沈む。
⸻
ヴィクトルの視線は、別の方向へ向いていた。
「本命は、別だ」
その言葉と同時に――
空気が、変わった。
温度が一段、落ちる。
⸻
「ふぅん……」
少女の声だった。
軽く、退屈そうで――
底がない。
気配はなかった。
――だが、気づいた時にはそこに“いた”。
屋根の上。
月を背にして、一人の少女が座っている。
黒い外套。
白い指先で、仮面を弄んでいた。
「もう壊れちゃったの? つまんないなぁ」
クラリスが息を呑む。
「……魔人」
少女はにやりと笑った。
「正解。えらいえらい」
ひらり、と屋根から降りる。
足音は、しない。
「でもね、それ“試作品”だからさ」
軽く指を振る。
「本番は、もっとちゃんとしてるよ?」
ヴィクトルは無言で観察していた。
(魔力の密度が異常だ。質も……異質)
少女は首を傾げる。
「ねぇ、あなた。さっきの、面白かったよ」
視線が、ヴィクトルに向く。
「壊し方、綺麗だった」
一歩、近づく。
その距離が、妙に近い。
クラリスがわずかに前へ出る。
だが――止める。
(……ここで介入すべきではありませんわね)
少女は気にせず続ける。
「解体、得意なの?」
「観察の副産物だ」
「へぇ」
くすくすと笑う。
無邪気な仕草。
だが――
その背後にあるものは、明確に“上位存在”。
⸻
「あー……それ、妹?」
少女がちらりとクラリスを見る。
「そうですわ」
「ふーん」
興味なさそうに視線を戻す。
「ま、いいや」
くるりと背を向ける。
「今日はここまでにしとくね」
足を止めず、ひらひらと手を振る。
「だってさ――」
振り返らずに、言った。
「まだ壊しちゃダメって言われてるし」
くす、と笑う。
「順番、あるんだよね。ちゃんと」
少しだけ、間があく。
「だって――いきなり壊しちゃったら、つまんないでしょ?」
そのまま、闇の中へ溶けるように消えた。
⸻
静寂が戻る。
だが、それはもう“ただの夜”ではない。
真琴は、動けなかった。
怖い、とは少し違う。
理解してしまったからだ。
あれは――
“悪意”ですらない。
ただの、“遊び”だ。
⸻
クラリスがゆっくり息を吐く。
「……今の個体」
わずかに視線を上げる。
「単独行動とは考えにくいですわね」
「ああ」
ヴィクトルは短く答える。
⸻
「複数個体による分担型の可能性がありますわ」
クラリスが続ける。
「役割分担……あるいは階層構造」
「上位個体の存在を前提に動くべきだな」
ヴィクトルは頷く。
⸻
(観察対象としては、極めて興味深い)
だが同時に。
(現時点では、排除は非現実的)
⸻
「……生体観察の機会は、失われましたわね」
クラリスが静かに言う。
その声音は淡々としている。
だが。
ほんのわずかに——惜しむ響きがあった。
「優先順位が違う」
ヴィクトルは短く告げる。
「生存と情報収集だ」
クラリスは一拍置き、頷いた。
「……ええ」
⸻
視線を月へ向ける。
「上がいるな」
「ええ」
クラリスも頷く。
「全体として、一つの計画が動いている可能性が高いですわ」
そして。
王都で起きている“実験”。
すべてが、繋がり始めていた。
⸻
「お兄様」
「なんだ」
「……少し、厄介ですわね」
「今更だな」
わずかに、口元が緩む。
恐怖ではない。
これは――
踏み込む価値のある“謎”だ。
⸻
月は変わらず、煌々と輝いている。
その下で。
人ならざるものたちの“遊び”は――
まるで最初から決められていた手順のように、
静かに幕を開けていた。
⸻
……その“幕”は、すでに上がっている。
誰にも気づかれないまま。
ゆっくりと。
確実に。
石畳の隙間。
壁の影。
排水の奥。
王都の至るところで――
黒は、増えていた。
それは流れるのではない。
広がるのでもない。
“染み込んでいる”。
まるで、この街そのものを
内側から塗り替えるように。
⸻
そして――
それを、“遊ぶ者”がいる。
人ならざるものたちの“遊び”は――
まるで最初から決められていた手順のように
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